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統合失調症に翻弄される人生③入院1

②では、母が発病したところまで書いた。

私が上京してから5年ほど、母は安定していた。
子育てが終わったので、仕事を始め、資格を取ったり。
たまに顔を合わせるときは、なんだか楽しそうで、良かった、病気にはもうならないんじゃないかなぁ、と思うこともあった。

一方で私はお医者からPTSDですね、なんて言われながらも普通に、いや普通を装って好きな仕事をして、キャリアを積み、給料も上がり、小さなアパートから浅草の小綺麗なワンルームマンションに移り住んだりしていた。

そんな日々の中、母の発病。
自宅に着いたとき、その光景を見て、やはり母は狂人だったのだと再認識する。
私にその血が流れていることも。

その時は鬱状態だったが、躁に転じたら手に負えなくなる。
外来で通院していた病院は入院設備がない、紹介状などやっていたら時間がかかる。
幸い、唯一母から離れなかった、母のママ友が来てくれた。
その方と入院設備のある最寄りの病院に連れ出したが、普段かかっていないので無理だと言われた。

どうしよう、頭が真っ白になったところで兄が着いた。
結局、母が14歳からかかりつけの東北の病院に行くしかなく、新幹線に乗って私たちは母の故郷へと向かった。
いろいろ刺激があり、道中、母は躁になり、物凄く大変だった。
周りから睨まれ、怒られ、好奇の目で見られ、そして凄く迷惑をかけた。

周りに気を遣い、ただただこれ以上暴れないように、なだめるように、私と兄はそれだけを考えた。

叔母と合流し、病院に着き、なるほど、ここがその病院なのかとしみじみ思った。私の出産前後もここに母は入院していた。
速やかに医療保護入院の対応をしてくれた。
保護者は兄。

入院生活に必要なものを買いに行ったり、手続きをしたりして、のち、兄と叔母と、近くのファミレスで食事をした。

着席したそのとき、涙がポロポロと出てきた。
それまで冷静に淡々とことを片付けていたが、ホッとしたのか、道中の苦労を思い出したのか、根底にある自分も狂人なのではないか、という恐怖、なんだかわからないが、とにかく涙が出た、が、2人にそれをあまり見せないように振る舞ったし、2人も気づかないふりをしてくれた。

一泊して神奈川に戻り、メチャクチャになった実家を片付けた。
書き殴られた支離滅裂な言葉、絵、刻まれた絨毯、散乱した昔のアルバム。
私たち兄妹が小さかった頃の写真。

大量に作られた料理、買った食材。
そして質素な母が絶対買わないような品々がワンサカある。

あの病院で変色した古びた母のカルテに「統合失調症」と書いてあった。
これがその病名だとその時知った。

私が最初実家に駆けつけた時、母はしきりに泣きながら
「暗くて広い病室のベッドにいて、看護婦の格好をした女が陰でこっそりと大きな包丁を出した」
ずっとそう言い続けていた。

そう、この病気の症状は幻覚と幻聴、幻覚だと認識しながらも恐ろしくてたまらない、という感じだった。

自分にもそれがやってきたら、どうしようもなく怖い、恐ろしい、戦慄。

中学生から思っていたが、私は子を産むことは絶対に許されないと思っていた。
当然結婚もしない。
迷惑をかけるだけ。
こんな遺伝子ここで途絶えさせなければいけない。
仮に子を産んでしまったら、その子にも怖い思いをさせることになる。
それは13歳からの自分に対する誓いだったし、自身のハンディキャップ故の義務。

何か悪いことをした記憶はないが、これは戒めなのだろう。
そんなことも思った。

私が大人になってからの母の最初の入院はこんな感じ。

まだまだ続く



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