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ピアノを拭く人 第1章 (4)

 ぐんぐん昇っていく月を追うように、彩子の車は川沿いの県道を走る。
 サイドシートには、あの夜、トオルが貸してくれたグレイのタオルと折り畳み傘を入れた紙袋が乗っている。お礼に、ハンドクリームと消毒用のハンドジェルを添えた。ピアノを弾く人は、指先のケアを大切にする。そして、あの日の様子から、彼はかなりきれい好きだという印象が強かったからだ。
 

 あれから、だいぶ日が経っていた。
 他人のものをいつまでも持っているのは、気持ちのいいものではない。だが、あの店「フェルセン」に行き、つらい記憶に胸が押し潰されてしまうのが怖かった。耐えられるようになってからと思ううち、1ヶ月近くが経過してしまった。今でもあの記憶は胸を抉る。だが、ずるずる延ばしても気が重くなるだけだろう。マスターの羽生という人に紙袋を託して、すぐに帰ればいいと重い腰を上げた。


 北欧建築を思わせる三角屋根と、大きな窓が目立つ店が見え、彩子はウインカーを出して、駐車場に車を乗り入れる。あの夜は、目に入らなかったが、落ち着いたペパーミントグリーンの外壁と灰色の屋根が上品にライトアップされている。以前 ミュージカル マリー・アントワネットを見たことから、不意に思い当たる。フェルセンという店名は、マリー・アントワネットの恋人であったスウェーデン人のフェルセン伯爵に因むのだろうか。そういえば、店内には西洋人を描いた油絵が何枚か飾られ、テーブルや椅子もすっきりとした北欧家具で、気持ちの良い空間だった。生演奏が素敵だったことは言うまでもない。あんなことがなければ、お気に入りの店になっただろう。


 あの夜と同じように扉を押すと、音もなく開く。店内に1歩足を踏み入れると、力強いテノールが耳に飛び込んでくる。弱い照明に目が慣れると、ピアノを弾きながら外国語で歌っている男性が目に入った。
 すぐに、トオルだとわかった。 
オー・ソレ・ミオ
 高校の音楽の授業で歌ったことのある曲だった。
 カンツォーネのリズムに乗り、マスクをかけていてもよく通るテノールが店の隅々まで響き渡る。ナポリ語の発音も美しく、さんさんと太陽が降り注ぐイタリアの風景を浮かびあがらせるようだった。6つあるテーブルは半分ほど埋まっているが、誰もが彼の歌に魅了されているように見える。 
 彩子は入口に立ったまま、聴き入った。

 最後のサビに入ったときだ。
Ma~n'a―――――――――tu sole,

 トオルは見得を切るように、大げさに音を延ばし、聴衆を驚かせてから、高らかに歌い上げて締めくくる。
「いよっ、パバロッティ!」ピアノの近くに座っているジャケット姿の老紳士が、マスクの中でくぐもった声をあげる。
 それを端緒に、温かい拍手が店内に広がり、彩子も思わず両手を顔の高さまで上げて拍手を送る。
 立ち上がったトオルは、コンサートピアニストのように聴衆を見わたすことはせず、目を伏せたまま、せかせかとお辞儀を繰り返してから姿勢を正す。
「大変申し訳ございません……。久しぶりにこの曲を歌ったので、何度も音を外したし、ピアノも間違えてしまいました。本当にすみませんでした。せっかく、リクエストしてくださったのに……。聴いてくださいまして、ありがとうございました……」
 深く頭を垂れるトオルを前に、どう反応するべきかと困惑する空気が店内に満ちていく。彩子には、彼が自身の生演奏で創り出した余韻を、過剰な謝罪で台無しにしてしまったように思えた。
 近くのテーブルの中年女性2人は、常連なのか、またやってると言わんばかりに顔を見合わせて苦笑いしている。
 トオルは謝罪の言葉らしきものを口のなかでもごもご呟き、聴衆の視線に怯えるかのように肩をすぼめ、倒れこむようにピアノの椅子に座った。
 彩子は彼の息が荒くなっているのに気づいた。額にうっすらと汗がにじんでいる。あの夜、目を吊り上げてピアノを拭いていた彼の姿が脳裏をよぎる。
「トオルさん、名誉挽回! 次はネッスンドルマお願い! よっ、パバロッティ!」
 気まずい空気を一掃するように、先ほどの老紳士が声をかけると、店内からも賛同を伝える拍手が起こる。
 彼は大丈夫だろうかと思ったとき、マスターと思われる白髪の店員が、入口に立ちつくす彩子を心配したのか、空いている席の椅子を引いてくれた。
 彩子は勧められるままにテーブルにつき、オーダーを忘れてトオルの様子を見守った。持参した紙袋のことは、頭から抜けていた。


 トオルは数秒目を閉じて集中してから、弾き歌いを始めた。            彼のネッスンドルマ(「誰も寝てはならぬ」)には、カラフ王子の希望と自信に満ちた力強さはもちろん、トゥーランドット姫に恋焦がれる切なさを想起させる繊細さもあり、先ほどの奇行を忘れさせる魅力があった。
 歌い終えたトオルは、拍手が起こるなか、立ち上がって何か言おうとしたが、マスターに何か耳打ちされ、背中をさすられる。しばらく押し問答があったが、トオルが折れたように見える。 

 彼は立ち上がって恭しく一礼する。椅子に掛けると、ジャケットのポケットからハンカチを取り出し、せかせかと両手を拭う。1度ハンカチをポケットに戻したが、今度はティッシュペーパーを取り出し、忙しなく手を拭き始める。彼はそれを何度も繰り返す。彩子はただならぬものを感じ、やきもきするような気持ちで見守っていた。店内の客は、それぞれの会話に戻っていて彼の奇行に注意を払っていない。 
 再び、マスターが何かささやくと、トオルはティッシュをしまい、静かに鍵盤に両手を乗せて弾き始める。

 ショパンの幻想即興曲やノクターン第2番、ドビュッシーの月の光など、クラシックになじみのない彩子でも耳にしたことがある曲が続く。
 クラシックピアノを聴きなれない彩子には、彼の技術がどの程度なのかはわからない。だが、1音1音が粒立っているので、BGMであることを意識して音量を抑えていても、曲の輪郭を崩さず、曲本来の魅力を大切にしているように聴こえる。彩子は目を閉じて聴き入る。美しいピアノは、荒涼とした心のひだまで染み渡り、久しぶりにゆったりとした気持ちになれた。

 気がつくと、閉店時間の8時が近づいていた。テーブルの上には、目を閉じていたあいだにマスターが置いていったのか、ペパーミントグリーンの表紙のメニューがある。オーダーもしないまま、閉店時間まで居座ってしまったことに恥ずかしさがこみあげてくる。


 店内の客が帰り支度を始めるなか、彩子はトオルか羽生に話しかけるタイミングを探し始めた。