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コラボ連載小説 「旅の続き」3

 本作は、mallowskaさんが書いてくださったコラボ小説「夢の終わり  旅の始まり」の続編をmay_citrusが書いたものです。週1で更新しますので、宜しくお願いいたします。

  扉写真は、きくさんの作品を使用させていただきました。この場を借りて、御礼申し上げます。


    透がウイスキーの瓶を棚から出そうと扉を開けた。
「二日酔いになるから、ビールにしといたら? 酎ハイも冷えてるよ」

 透は不満そうに冷蔵庫を開け、缶ビールと缶酎ハイを抱えると、川嶋くんと先生がソファで待っているリビングに運んでいった。私たちの帰宅で安眠を妨げられた白豆柴犬の胡桃くるみが、眠そうな目で透の後を追っていく。
 
 雨戸を閉めようと空を見上げると、星々が散りばめられた宝石のように輝いていた。明日も晴れるだろう。ニャルソックから戻った茶白猫の柚子ゆずが庭先で「みゃあ」と鳴いたので、迎え入れてから雨戸を閉めた。

 つまみに用意しておいた揚げ出し豆腐を電子レンジに入れる。グリーンサラダに、グリルした鳥胸肉のスライスと刻んだナッツを散らし、ブルサンのチーズを切って小皿に盛りつける。中年太りを気にして筋トレ中のおじさん2人に配慮したメニューだが、若い川嶋くんには物足りないかもしれない。

 つまみをリビングに運びながら、対角線上に座っている川嶋くんと先生の間に、ぴりっとした空気を感じた。先生にダメ出しをされた川嶋くんが、心にシャッターを下ろしてしまったせいだろう。発達障害の傾向を持つ人は、否定されることに敏感で、好きか嫌いかのゼロサム思考に陥りやすいと聞いたことがある。
 2人が必要以上に距離を縮める必要はない。だが、明日の練習もあるので、このままではやりにくいだろう。私はアルコールが潤滑油になることを期待した。

 乾杯が済むと、川嶋くんが周囲を見回しながら言った。
「すごく風情のある家ですね。家具も部屋に調和していて落ち着きます。透さんと彩子さんは、タワマンとかスタイリッシュなところに住んでいそうなので意外でした」
 私があちこち回り、家の雰囲気に合う家具を探したので、素直に嬉しくなる。

「こんな田舎にタワマンなんてないわよ。ここは、年輩の方が一人で住んでいたけど亡くなって、しばらく空き家になっていたの。東京にいる息子さんが、ただでもいいから、もらってくれる人がいれば嬉しいと言っていたんだって。その息子さんが、私の実家の菩提寺の後継ぎと高校の同級生で、彼伝手にこのお家のことを聞いてね。見せてもらったら、透も私も一目惚れ」
「本当に安く譲ってもらえて助かったな」
「うん。ここなら、透が夜中までピアノを弾いても歌っても近所迷惑にならないしね」

 リビングに音もなく入ってきた茶白猫の柚子がソファに乗った。川嶋くんの膝の匂いをくんくん嗅いだ後、そこに上がって丸くなってしまった。川嶋くんは、一瞬戸惑ったが、苦笑いして柚子を受け入れた。その様子を見て皆が笑い、空気がやわらかくなった。 

「ところで、ピアノあるんですか?」
 川嶋くんが、ぎこちない手つきで柚子を撫でながら尋ねる。
「隣の部屋に電子ピアノを入れたんだ。フェルセンに行かなくても弾けるのは助かるよ」
「わかるよ」先生が激しく同意する。「夜中に衝動的に弾きたくなるときあるよな。私も真夜中に狂ったように弾くことがある」

「先生にも、そんなときがあるんですか? 私のなかでは、先生はいつも穏やかで紳士的なイメージで」
「譲治よかったな、元生徒にそう言ってもらえて。こいつは、かなりエキセントリックだよ。譲治の家は山の冷気を感じるくらい田舎なんだ。近所迷惑を考えなくていい場所にあるから、不安定なときは、血走った目で、髪を振り乱して何時間もピアノを弾き続けるんだよ。雷雨の夜、ベートーベンのソナタを片っ端から狂ったように弾いてる譲治を見たことがあるけど、何かに憑かれてるようでマジ怖かった。ホラー映画よりずっと怖かったな。怖いから、先に寝ようとしたけど、譲治のピアノがうるさくて寝られなかった」
「あれをやると、ピアノがダメージを受けるから、調律師を呼ばなくちゃならない」
 先生が、バツが悪そうにつぶやく。

「先生がそんなふうになるなんて、よほどのことがあったんでしょうね……」
 私のなかの先生は、生徒を叱るときも、声を荒らげるより、バリトンで淡々と諭すことが多かった。私たち生徒は、その威厳に圧倒され、怒鳴られるよりも怖かったことを思い出す。
「先生は生徒の前で完璧な大人でいることを求められるから、どこかでストレス発散しないと大変でしょうね。最近は、部活の顧問とかで、先生の長時間労働が問題になっていますよね。先生みたいに、全国大会に進出するような部の顧問だと私たちが想像できないくらい大変でしょう」

「うん、でも、それが家庭を犠牲にしていい理由にはならないからね」
 先生は言葉を切り、手にしていた缶ビールを乱暴に飲み干す。西洋人の血が濃い先生の顔は、頬の紅潮が目立つ。

 先生は、ビールの缶をテーブルに置くと、川嶋くんに顔を向けて尋ねる。
「さっきお父さんへの思いを乗せたいと話していたよね。良かったら、どんな思いを乗せたいのか聞かせてくれないか」

 「あ、ええ……」
 川嶋くんがためらうのを見て、先生は静かに話し出す。

「実は私も父との関係が複雑でね。この顔を見ればわかるだろうが、私にはアメリカ人の血が入っている。生まれも育ちもアメリカだ。父はハンガリー系アメリカ人。アメリカのP響という有名なオケの首席チェロ奏者だった。母は日本人で、そのオケの楽譜係ライブラリアンだったが、私が生まれてからは専業主婦だった。父は重要な立場にあることを自覚し、自分の練習と体調管理を何よりも優先していた。私は子供の頃からピアノを習い、ユウスコンクールで一位になり、将来を嘱望されていた。結果を出すと、父が褒めてくれるのが本当に嬉しくてね。でも、ジュニアハイの頃、腱鞘炎けんしょうえんで思うように弾けなくなって、自信を失くして引きこもりになった。家には腫れ物に触るようなぴりぴりした空気が漂っていた。父は私を持て余し、母は父が私にピアノばかり弾かせて追い込んだと責めた。結局、父は家族の危機を一緒に乗り越えることよりも仕事を選び、出ていってしまったんだ。両親は離婚することになった。母と私は日本に帰国した。母はピアノや英語を教え始めた。母方の祖父母が生活を支援してくれたが、生活はぎりぎりだった。私は日本語の読み書きが危うかった上に、この外見だから中学で随分いじめを受けた。やがて母は再婚し、新しい父は私に気を遣ってくれたが、ピアノを本格的に続けるのは経済的に無理だった。私の進路は制限され、音楽教師になることを選んだ。その経験があったから、私はアメリカの父を憎み、奴のように家族を捨てる父親にはなりたくないと思っていた。でも……」
 先生は自嘲気味に続けた。
「結局俺も、父と同じことをした。呪われた血だよ」

 先生が自分を「俺」と言ったのに気づき、かなり気を緩めていると思った。それが、アルコールのせいなのか、私たちに心を許しているからかはわからない。
 川嶋くんは、息をするのも忘れるような真剣な眼差しで聞き入っている。

「俺は30のとき、できちゃった結婚をした……。妻は結婚するまでピアノ講師をしていた。彼女はずっと実家暮らしで、母親があれこれ世話を焼いてくれていたらしく、家事全般が苦手だった。その頃の俺は、以前は西関東大会の常連だったのに成績が低迷していた吹奏楽部の立て直しを期待されていた。やがて息子が生まれたが、俺は練習で毎日帰りが遅く、土日も部活。妻はアパートの一室でワンオペ育児だ。悪いとは思ったが、俺も授業と担任業務、部活で余裕がなかった。帰宅後に育児を手伝えず、風呂に入って寝てしまうことが多かった。朝練もあるので、息子が夜泣きすると、声を荒らげて妻に文句を言ってしまった。あの頃、妻は育児ノイローゼに近かったかもしれないな。妻の実家は遠いので、両親にも頻繁に頼れなかった。私の母と妻は折り合いが悪く、手伝ってもらうわけにはいかなかった。そんな状態が続いていたときだ。俺は吹奏楽コンクールの引率で遠征して、本番前に携帯を切っていた。本番後も結果発表や打ち合わせで夕方まで忙しく、携帯の電源を入れるのを忘れていた。夕方、電源を入れたとき、妻からの着信履歴がいくつもあって、息子が川崎病で入院したとメッセージが入っていた。全身から血の気が引いた。夜が更けた頃、ようやく病院に着くと、病室には苦しむ息子と憔悴しきった妻、義母がいた。病院から、入院中は母親が一緒に泊ることを求められたが、義母は娘が疲労困憊してるので、自分が代わると言ってくれた。幸い息子は後遺症を残さずに回復したが、そこから家庭は壊れ始めた……」

「何があったんだ?」
 透が慮るように尋ねた。

「息子が回復した後、妻と義両親から、これからは最低1時間早く帰宅して育児を手伝う、土日のどちらかは家族と過ごす、息子に何かあったときは仕事より息子を優先する、この条件が飲めないなら離婚と言われた。妻がそこまで追い詰められていたと気づかなくて、心底申し訳なく思った。努力するから、チャンスがほしいと懇願したよ。俺も努力したんだ。でも、部活でもめ事があると帰宅が遅くなり、育児を手伝う体力も気力もないこともあって、妻との口論が繰り返された。俺も若かったから、喧嘩になると売り言葉に買い言葉でかなり口汚いことを言ってしまった。保育園はいくつも調べたが、妻が専業主婦なのもあり、入れるところが見つからなかった。互いに行き詰った頃、妻に、来年は吹奏楽部の顧問を辞めてほしい、そうすればすべて解決すると言われたが、俺はそれだけはできないと切れてしまった。そんなことを言う妻に怒りが募り、同じ空気を吸っていることさえ耐えられなくなった。今思うと、コンクールで結果を出すことは、俺にとって何者かになるという願望を満たす唯一の手段になっていたんだ。ピアノで食べていくのを諦めた自分が、父に対して自信を持てる手段に……」

「それで離婚になったのか?」 

 先生の彫りの深い顔に、無力感の漂う笑みが浮かぶ。
「妻の実家はそれなりに財力があった。慰謝料も養育費も請求しないから、今後は妻と息子に一切接触しないでほしいと言われたんだ。俺は二人に二度と会えなくなるのは耐えられなかった。必要な金は払うので、せめて息子と面会させてほしいと何度も懇願したが、家庭を顧みない父親には関わってほしくないと固く拒否されてしまった。やむを得ない事情で連絡したいときは、弁護士を通してほしいと……」

「その後の奥さんと息子さんの生活……、気にならないんですか?」
 川嶋くんの声はかすかに震え、射るような視線で先生を見据えていた。