コラボ連載小説 「旅の続き」4
本作は、mallowskaさんが書いてくださったコラボ小説「夢の終わり 旅の始まり」の続編をmay_citrusが書いたものです。週一で更新しますので、宜しくお願いいたします。
「気にならないはずないだろう」
先生は空気を切り裂くような口調で言い放った。先生の足元に丸まっていた白豆柴犬の胡桃が、びくりと目を開ける。
「俺は2人のことが諦められず、しばらく興信所を使って調べていた……。そっと、2人を見に行ったことが何度もある。完全にストーカーだな。元妻が一年半後に再婚したのを知ってから、迷惑をかけたくないから一切やめた。再婚相手は意外にも離婚のときに出てきた彼女の遠縁の弁護士だ……。いまは夫と息子、新しくできた娘と4人で、彼女の実家の近くに家を建てて幸せに暮らしている。息子はもう高校生だ……」
先生は成長した息子の姿を想像するかのように軽く目を閉じた。静寂のなか、エアコンが唸る音が静かに響く。
ここまで感情をあらわにする先生を初めて目の当たりにした。中学の頃から私の目には完璧な大人に映っていた先生が、これほどの苦悩を抱えていたと知り、頭の処理が追いつかない。だが、以前川嶋くんが話してくれた父子関係を思い出すと、にわかに鼓動が早まっていく。
川嶋くんは、何か言いたげだったが、彼が口を開くより先に先生が話し出す。
「結局俺は、父と同じで、音楽を優先して家庭を守れなかったんだ。父と同じことをした嫌悪で、自分の血が心底嫌になった。そんな嫌悪がマグマのように湧きあがってきて、自分を傷つけたくなり、その思いを爆発させるように自宅でピアノを弾きまくった。疲れて床に倒れて天井を見上げ、このまま死ねればと何度思ったかわからない。そんな夜がしばらく続いた。時の流れと共に、衝動は収まっていったが、そのことが浮かぶとおかしなスイッチが入ってしまう……」
「そういえば、譲治が狂ったようにピアノを弾いた晩は、俺が父親のことを話題にしたときだったな……」
透は思い当たったようにつぶやいた後、皮肉を含んだ声で続ける。
「まあ、誰もが譲治のように、誠実な父親だとは限らないけどな。俺の親父なんか、発達障害で癇癪もちの俺と離れられて、せいせいしたと思うぜ」
「そんなわけないだろう! 子供がいない、いや持とうともしない透にはわからないんだよ!」
先生の目の下が熱を帯び、じわりと赤らんでくる。
「俺が子供をつくったら、間違いなく不幸にする! おまえみたいな社会性に恵まれた人間には、わからないんだよ!」
透が青筋を立て、先生を鋭くにらむ。
透と先生のあいだに、ここまで深刻な亀裂が生まれたのは初めてで、この場をどう収めたらいいかわからなくなった。不穏な空気を察した胡桃が低くうなりだす。
私が胡桃をなだめに立ち上がったことで、先生は冷静さを取り戻したようだった。
「感情的になってすまなかった……」
透は振り上げた拳の行方を持て余すように、乱暴に足を組んだ。
私は、つまみを小皿にとって皆に渡した。しばし、料理を咀嚼する音が続く。私は胡桃を抱き上げ、透の足元に連れていった。胡桃は透のズボンの裾をクン活した後、ごろりと横たわった。
「透のお父さんは……、東教授は、やらなくてはならない研究や教育があって、それが実現できる場を求めてカナダの大学に行ったんだ。決して、家族と仕事を天秤にかけたわけでも、家族を軽んじたわけでもない。 そうするべき、義務があったんだ。そうでなければ、透に誕生日や何かの祝いにプレゼントを送ったり、透の幸せのために彩子さんの両親に頭を下げたり、8000万のマンションをぼんと譲ったりしないだろう?」
「譲治は、何でそう思えるんだ……?」
「離婚してしばらくして、当時の父の立場や心境に思いを馳せることができた。そのとき、初めて本当に父を理解した……。きっかけは、三つの家族を持って、奔放な私生活を送った建築家ルイス・カーンの二人目の愛人の息子が父の足跡をたどる映画『マイ・アーキテクトールイス・カーンを探して』を観たときだ。そこで、ルイスを知るバングラデッシュの建築家が息子に語るんだ。偉大な人が家族のために尽くせないのは往々にしてあること、時間はかかるかもしれないけれど、父を十分に理解したら恨んだり、不満に思ったりしないだろうと。俺は、それを聞いて、人並み以上の才能に恵まれた人は、それを活かしてたくさんの人を幸せにする使命があって、そのために身近な人を悲しませることもあると気づいた。当時、俺の父は若くして世界的に有名なオケの首席チェロ奏者になり、高いチケット代を払ってプロの演奏を聴きにくる聴衆のために、レベルを維持しなくてはならなかった。その仕事を選び、食べている以上、当然だ。だから父は、あのとき家族を捨てたのではなく、プロ意識から仕方がなかったのだと思いあたった。もちろん、家族を不幸にしたのは許されることではないが、もっとたくさんの人を歓喜させる重責があった。父はそういう仕事に就ける才能に恵まれた。俺も仕事でそれなりに責任ある立場になり、思い入れが増すと、あのときの父の立場が理解できた。仕事と家庭を両立できる人もいるが、父も俺もそこまで器用ではなかったということだ……。アイビーリーグのコロンビア大学の名誉教授にまでのぼりつめ、著作もたくさんある透のお父さんも、そうだったんじゃないか?」
透は腕組みをしたまま唇を固くかみしめている。それが先生の考えを受け入れたためかはわからない。
私は張りつめた空気を和らげようと、言葉にするのが難しい思いに無理に言葉を当てはめた。
「長い時間を経ないと、わからないこともあるんですね。親との関係は、時間を経て、自分が経験を重ねることで変わっていくのかもしれませんね。旅の車窓から見える風景が変化するように……」
「わかる気がします。何かをきっかけに、考えが変わること……。僕はまだ旅の途中で、続きがある気がします」
川嶋くんが、膝の上で眠っている柚子を撫でながらつぶやく。
「譲治は、そう考えが変わってから、親父さんの音楽を聴けるようになったのか?」
「ああ。それまでは、父の音楽は遠ざけてきた。落ち着いた頃、父がオケを引退してから出したソロアルバム、仲間とカルテットを結成して出したアルバムを聴いた。どれを聴いてもクオリティの高さに圧倒された。涙が止まらなかった。たおやかで、情感豊かで、いぶし銀のような音色だった……。父のプロ意識を突きつけられ、胸に巣食っていたどす黒いものが溶解していった……」
「先生と透さんは、お父さんと会ったりしないんですか?」
川嶋くんが静かに問いかける。
「ずっと、父には劣等感があって、自分のことを知られるのが恥ずかしかった。でも、数年前、指導する吹奏楽部が全国大会に行けたとき、これが今の俺の音楽だと自信が持てた。部員と最高の音楽がつくれたことに誇りを持てたんだろうな。そのとき、衝動的に、父の所属する事務所に手紙と録音を送ったんだ。自己満足だから返事は期待せず、そのまま忘れていた。でも、メールが来て、日本公演の後で会おうと言われた」
「お会いになってどうでしたか?」
「サントリーホールの公演の後、ANAインターコンチネンタルホテルで会ったんだが、意外にも、父は安心していた。一介の音楽教師の俺は、世界的チェロ奏者に蔑まれると身構えていたから拍子抜けだ。『おまえが音楽を楽しんでいるのがわかって、心底安心した。俺のせいで、音楽に嫌悪を抱いているのではと心配していた』と言われたよ。母は、俺が高校卒業するまで父と連絡をとっていたが、それ以降は没交渉だった。だから、父は俺が音楽教師になったことを知らなかったんだ」
透がふっと笑う。
「実は俺も親父から、俺が音楽で食べているのが羨ましいと言われて、面食らったよ。親父は、本当は音大に行きたかったらしいが、不器用でピアノも歌も上達しなくて諦めたそうだ。だから仕方なく、音楽による地域振興の研究者になったらしい」
「お2人とも、その後は、お父さんと会っているんですか?」
目を覚ました柚子が川嶋くんの膝からするりと降り、透の脚に身体をこすりつける。
「私はメールか電話だけ。父は再婚して築いた家庭があるので、どう関わるべきか悩んだ。その結果、私が指導する吹奏楽部のコンクールの録音を毎年送ることに落ち着いた。その時々の私を知ってもらう一番いい方法だと思った。父は聴いてコメントを送ってくれるよ。辛口のことが多いけどな」
「俺は父から、毎年一度は彩子と一緒にアメリカに来るよう言われているから、それは守っている」
透は足元の柚子を抱き上げ、膝に乗せた。柚子は安心したように目を閉じる。
「父親との関係は、それぞれのかたちを見つけるしかないんですよね……」
川嶋くんが、自分に言い聞かせるように言葉を絞り出す。
「実は僕の父も、別に家庭を持っているんです……」
皆の視線が彼に集まる。一度言葉を切った川嶋くんは、覚悟を決めたように話し出す。
「僕の父と母は高校のときから付き合っていて、20歳のとき、どうしようもない理由で別れました。その後に母が僕を妊娠してることに気づき、母は父に黙って僕を産むと決めました。母は、僕に父のことを話しませんでした。でも、僕が高2の時、ちょっとしたきっかけで父の存在を知りました。そのとき僕の胸には、これまで抱いたことのない怒りと憎しみと恨みが湧き上がりました。父は、母がどれだけ父を恋しく思いながら、女手一つで僕を育てたかを知らない。母の再婚相手が僕に暴力を振るったことで、母が離婚を余儀なくされたことも。父はそんなことを露知らず、東京で会社員として地位を築き、家庭を持って裕福に暮らしている。それが許せず、ずっと恨んでいました。様々な手段で父を探し出し、20歳の時に生まれて初めて対峙しました。彼の人生を滅茶苦茶にしてやろうと思っていました。父にとっても僕の出現は寝耳に水で、本当に最悪の状態でした。お互い身も心も傷つけあい、挙句の果てに父は生死をさまよいました。僕の持っていたナイフで父が大怪我をしたんです。その3日後、当時付き合っていた彼女の部屋にいた僕のところに、父が早朝突然、訪ねてきたんです。片手に生まれて間もない息子を抱き、片手に僕のナイフを持って……」
「お父さんは、なぜ赤ちゃんを連れて、川嶋さんのところに現れたのだろうか? 危険に曝すかもしれないのに……」
微動だにせず耳を傾けていた先生が、誰に尋ねるともなく、問いかける。
「わかりません……。赤ちゃんを連れていれば、僕が手出しできないと思ったのかもしれません。父には今の家族を守る責任があるし……。あるいは、父の家系には発達障害の血が流れているので、それに対する嫌悪や恐れがあって、それを滅ぼしたいという衝動に駆られていたのかもしれません。本当にわからないんです……。実は、父は時折、自分をコントロール出来なくなるほど感情が振り切れてしまう性質を持っているんです。僕と対峙したときも、そのスイッチが入ってしまったときのようで……」
「理屈ではない……。衝動に突き動かされてしまう……。わかる気もするな」
透が空を見据えてつぶやく。
先生は唇をきつくかみしめ、感情を抑えるように硬く腕組をしている。
「その後、赤ちゃんをどこかに預けてきた父と2人で話すことになりました。そのとき、父は全ての痛みから逃れるために、大量に睡眠薬を飲んでいて、僕と話している途中で昏睡状態に陥り、救急車で運ばれました。幸い父は一命をとりとめましたが、僕は父がそういう状態になったのがショックで、自分は何を望んだのかと、虚しくなって……。そして父が命を落とさなかったことが本当に嬉しかったんです。でも、そのとき、父に言われました。僕を息子とは認めない、名前で呼ぶこともない、二度と自分の前に現れるなと……」
「そのとき、お父さんは混乱していて、咄嗟に、いまの家族を守ろうとしたんだろうな」
先生が絞り出すように言った。
川嶋くんは小さく頷いて続ける。
「僕も、感情が昂ると、話し合うより先に、衝動的に行動してしまうところがあるんです……。父と対峙したときもそうですが、何かが少し違えば、警察のお世話になっていたと思います。まあ、若かったのもありますが……。だからこそ、僕は人との根気強い関わり方を学ぶべきだと思うんです。今回いただいたコンチェルトの機会も、その一歩になればいいと思います」
「さっき、川嶋くんは、譲治にいろいろダメ出しされても、辛抱強く向き合っていたね」
「そうね。そして、自分がどう弾きたいかもしっかりと伝えていた」
私たちが労うと、彼は少年のように恥ずかしそうに俯いた。
さっきから、先生の顔が表情をなくしたように強張っているのは、生き別れになった息子さんに思いを馳せ、追い詰められているためではないか。川嶋くんの存在が、言動が、息子さんから発せられているように響いているのではないだろうか。
川嶋くんと先生の思いが、互いの音楽にどう影響するのかと思うと、喉元を締め付けられるような圧迫感を覚える。
川嶋くんが、ためらいがちに話し出す。
「あの、僕、父のことを知ったときから抱き続けた憎しみ、怒り、行き場のない問い、そして彼と対峙したときの切迫感が、第一楽章の執拗に問いかけるような旋律と重なって、その思いを乗せて弾きたいと思いました。だから、テンポを上げて、きりきりと張りつめた切迫感というか、尖った雰囲気を出したいんです」
「それでわかったよ……」
先生がかすれた声で呟く。動き出してしまった感情を渾身の力で抑えつけているのか、それ以上の言葉が出なかった。
「でも日が経って、父と母が連絡を取り合うようになりました。その流れで僕にも、ドイツに駐在する父からワルシャワへの招待状が届きました。父にワルシャワを案内してもらい、食事をし、酒を飲み、いろいろ話しました。そこで僕は、ずっと渇望していた "父に認められること" が叶いました。父は僕のピアノ、いや存在そのものを認めてくれました。それが叶ったと同時に、不思議な寂寥感に襲われました。そのとき、さっきお話しした、父が自分をコントロール出来なくなるほど感情が振り切れてしまう性質を持っていることを知ったんです。そして父は身内に発達障がいを抱える者がいて、何度も思い悩み、時には恐れを抱えて生きたことも知りました。そんな父が、儚いもののように思えてきたんです。ある日突然、ちょっと出かけてくると言ったまま、ふっと姿を消してしまうような気がして……」
川嶋くんは息を整えてから言い継ぐ。
「ワルシャワで父が見せた照れたような笑顔、はしゃいだ時の無邪気な笑顔、自分を気遣ってくれた優しさ、そして過去を悔やむ涙が愛おしく思い出されるんです……。以前抱いていた憎悪が、こんなにも愛しく、守りたいとさえ思うようになったことは、僕自身にも驚くべき変化でした。第二楽章のアリオ―ソは、そんな思いを胸に、ワルシャワでの時間を思いながら、美しく、甘やかに弾きたいと思いました」
「うん。俺は大賛成だよ」
透が大きく頷く。
「譲治もそう思うだろ?」
先生は機械のように頷く。
「でも、どんなに心配でも、父には別の家族があるので、帰国後は頻繁に連絡を取ることは控えています。なので、不安を打ち消すために週に1度はメッセージを送りました。ドイツとは7時間の時差があるので、父からはいつも変な時間に、そして大抵素っ気ないレスが来るくらいでした。既読スルーされたこともありました。それでも父からのメッセージの着信を見ると、僕はまるで麻薬を投与されたかのように深い深い安堵を覚えます。でも次の瞬間、この空の向こう、遠く遠くつながった空の下に確かに父が息づいていることを確認出来た安堵の後は……、切なさと不安が押し寄せます。効果はすぐ切れてしまい、何度も安堵を求めたくなるんです。まるで本当の麻薬のようです。第三楽章は、これからも限りなく繰り返されるであろう、そんな思いを重ねたいんです」
川嶋くんは、先生に視線を移して続ける。
「さっき、先生がコンクールの録音をお父さんに送っているとおっしゃったように、僕は父にこの協奏曲を聴かせたいんです。これが、等身大の僕だと思うんです」
「明日はその思いを乗せて練習しよう。川嶋さんの弱点は協調性だから、そこを重点的にやろう。オケ合わせのときも、こう弾きたいという思いをしっかり伝えて、いい協奏曲にするんだよ。進化した君の音楽をお父さんに聴かせてやるといい」
先生は一語一語をかみしめるように言った。
その夜、私と川嶋くんが眠った後、先生と透は飲み直し、仲直りしたようだった。
一夜明け、フェルセンで練習を再開した川嶋くんの演奏は、私でも気づくほど変化していた。バッハの構築した世界を忠実に再現する端正な音色はそのままだった。だが、一音一音に明確な意志がこめられ、表情豊かになり、これが川嶋くんの音楽だと雄弁に主張していた。
先生の指導には遠慮がなくなった。その音色は昨夜より力強く、色彩に富み、川嶋くんの音楽を全身で受け止める意気込みがあった。
先生の川嶋くんの透の思いが火花を散らし、溶け合い、化学変化のように音楽が変化するのを目の当たりにしながら、私は川嶋くんの音楽がどこまで進化するのか見届けようと決意を新たにした。