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コラボ小説「ピンポンマムの約束」5

  本作は、さくらゆきさんの「紫陽花の季節」シリーズと、私の「澪標」シリーズのコラボ小説です。本作だけでも楽しめるように書きましたが、関連作品も読んでいただけるとより興味深く楽しんでいただけると思います。週一で更新するので、宜しくお願いいたします。

※扉絵は、さくらゆきさんの作品です。この場を借りて御礼申し上げます。


 カウンセリング室の窓から、風に揺れるハナミズキが見え隠れする。新緑はますます濃度を増している。近づく夏の気配に、夏バテしやすいあたしは早くも気が重くなる。

 昼休みに身体を動かしたのか、米田心理士の首筋と胸元はかすかに汗ばみ、汗と整髪料の混じった臭いを漂わせている。

「怖い話の録音、聞く回数を重ねるほど、不快感が下がったのですね?」
 米田心理士は、あたしが記入した2週間分のシートに目を通しながら尋ねる。

「はい。怖かったけれど、頑張って何度も聞いているうちに、段々慣れてきて、最初ほど嫌じゃなくなりました。それで何となく思ったんです。あたしは、今まで、強迫観念から逃げていたから、余計に怖くなったのかもしれないと」

「それに気づけたなら成功です。よく頑張りました」

 米田先生は、精悍な眼差しを緩め、親指を立ててみせる。後に控えている海宝さんも「上出来」と言いたげに、目尻を下げて微笑む。ただそれだけのことなのに、あたしは皮膚がむずむずするくらい嬉しくなる。

「でも、気にかかっていることがあるんです。ネットやテレビで、霊能力者とか占い師が、強く願うと叶うと言ってたことが頭から離れないんです。あたしはそんなこと願ってないのに、録音を何度も聞いたら脳に焼き付いて、願ったのと同じにならないかと……」

「なるほど」
 米田先生は髭の生えた顎に手をやり、視線で続きを促す。

「米田先生も海宝さんも、毎日元気にしている姿を見ると、大丈夫なのかなと思ったんです。けど、いま大丈夫でも、これから2人に悪いことが起こるんじゃないかと思うと怖いです……」
 不安で語尾が消え入りそうになった。

 米田先生と海宝さんは、意味ありげな視線を交わす。

「いい流れですね。では、次の課題を出しましょう」

 米田先生は立ち上がり、窓際に立った。
「紫藤さん、こっちに来てください。あそこに医師がいますね」

 米田先生が指した先には、渡り廊下で立ち止まり、院内スマホで話している若い医師の姿がある。

「彼女を観察して気づいたことを教えてください」

「背が高いです。スタイル良くて、ボーイッシュ。すごい頭良さそうで、できる女って感じです」

「他には?」

「髪が短くて、ピアスかイヤリングしてます。あと、高そうな腕時計」

「なるほど。では、彼女を呪ってみましょう」

「はい?」

「知性にも容姿にも恵まれ、順風満帆な人生を歩んでいそうですね。そんな彼女を呪ってください。医療ミスで訴えられて退職しろ、恋人にふられて自殺しろ、家に泥棒に入られて時計や貴金属を全部盗られろとか。彼女が不幸になる様子を想像しながら呪ってください」

「え、嫌です……」
 あの医師は、子供のときからたくさん勉強して良い成績をとって、偏差値の高い医学部に入った。医者になって、毎日身を粉にして患者を助けて、社会に貢献しているに違いない。あたしのようなクズのせいで、価値ある人の人生がめちゃめちゃになるなんて耐えられないと全身を悪寒が走る。

「これから毎日、院内の廊下や庭を歩いて、目に入った人を片っ端から呪ってください。患者さん、医師、看護師、看護助手、心理士、作業療法士、薬剤師、検査技師、清掃員、お見舞いの方、製薬会社や医療機器メーカーの方……、いろいろな人が出入りしています。そうした人を観察し、車にひかれろ、階段から転落しろ、犬に嚙まれろ、恋人に捨てられろ、仕事をクビになれなど、呪いをかけて、その人が不幸になる様子を想像してください」

「今度は私たち2人だけじゃなくて、数えきれないほどの人を不幸にするのね。怖いわね」

 あの録音を聞き始めてから、あたしは病室に来る海宝さんに、米田先生は来ているかと毎日尋ねていた。海宝さんはいつも、「さあ」、「血だらけになって救急車で運ばれたんじゃないの」とあしらった。不安で苛立ったが、本当に何かあったらこんな反応しないだろうと言い聞かせてきた。海宝さんが休みの土日は、2人が大丈夫かと不安だった。

 たくさんの人を呪ってしまったら、確認できなくなるじゃないと心の中で叫んだ。

 米田先生は、あたしが何時頃、どんな強迫観念が浮かんだかを記入してきたシートを揃えながら問いかける。
「紫藤さんは、強迫観念に襲われたときは、ベッドのなかで動けなくなってしまうそうですね」

 あたしが居心地悪そうに頷くと、米田先生は続ける。

「時間があればあるだけ強迫観念の相手をしてしまいます。これから、午前中1時間、午後1時間、院内を歩き回って人を呪ってください。強迫観念が来ても、部屋に逃げ帰らず、マインドフルネスを試してください。感覚をつかんだようなので、実践あるのみです」

 米田先生は、シートに目を落として尋ねる。
「人に世話をやかれると、ぞわぞわ感がくるようですね」

「はい。あたしなんかのために悪いと思って、遠慮したり、拒否したりしてしまいます。失礼だとわかっているのですが、ぞわぞわしてしまって……」

「いま、このカウンセリング中も居心地が悪いですか?」

 あたしが頷くと、先生は引きだしから新しいシートを取り出す。
「その克服も、課題に加えましょう。紫藤さんは、ここに課題を記入してください」
 先生は良く日焼けした逞しい指で、シートの上部を指さす。
「1つ目は、さっきの『院内を歩いて人を呪う』です。2つ目は『スタッフに恩着せがましく世話をやかれる』にしましょう。毎日達成度を記録してください。上出来だったら◎、まあまあの出来なら〇、やろうとしてもできなかったら△をつけてください。やらなかったり、その機会がなかったら何も記入しなくて結構です。自由記述欄には、全身が粟立った、不安が落ち着くのを待てずに強迫行為をしてしまった、午後のほうがはやく不安が消えていった、回数を重ねるにつれて慣れていったなど、そのときの気づきや心境をメモしておいてください。いま課題を2つ挙げましたが、他に克服したい課題をいくつか設定して、ここに記入して挑戦してください」

 先生はあたしが溜息を飲み込んだことに、敏感に反応する。
「つらいエクスポージャーだけでは身が持ちませんね。課題達成には、報酬も必要です。◎が10個ついたら、自分にプレゼントを贈ることにしましょう。週末に、食べたいものを御家族に差し入れてもらうなど、モチベーションが上がる報酬を考えてください」

 食べたいものは思いつかないし、お金がかかることは父さんに悪い。
「それなら、タブレットで小説とか漫画を読みたいです。入院してきたとき、よくないサイトを検索するからと使用禁止にされてしまったんです。スマホだと目が疲れるし、小さい字を読む体力ないので、しばらくやめてたんです」

「なるほど。私から金先生にかけあってみます。エクスポージャーを頑張って、週末は小説と漫画三昧にしましょう」
 

                  ★
「失礼します」
 金先生は、薄紅色の大きな紙袋を下げて入ってきて、居心地悪そうに佇んでいる。

 朝の回診以外、彼があたしの病室に来ることはめったにない。説教でもされるのかと反射的に背筋が伸びる。

「ケーキを買ってきたので、召し上がりませんか」
 
 抑揚のない声で尋ねられ、意味がわからないまま先生のつるりとした顔を見返す。ニキビ跡は消えたようだった。

「おや、お嫌いですか。女性は甘いものが好きだと聞きましたが」

「それは好きですけど、何で……?」

「あなたのために買ってきたんです」
 眉一つ動かさずに言葉を発する先生を前に、AIと話しているような居心地の悪さを覚える。

「どうしてですか。誕生日でもないのに」

「私は、あなたのエクスポージャーに協力するために、学会の準備をする時間を犠牲にして来ているんです」
 感情の起伏がなかった言葉に、かすかに苛立ちがにじむ。その瞬間、電気が走るように、ぞわぞわ感が広がる。米田先生と海宝さんの得意そうな顔が浮かぶ。やられたと思ったが、もう逃げ場はない。

 金先生は、床頭台にケーキの袋を置き、箱を取り出す。あたしは、慌ててコップや歯ブラシ、生理用品を入れたポーチをどかし、掛け布団のなかに押し込む。

 先生は人形のように無表情のまま、ピンクのリボンをほどき、はがした包装紙を丁寧に畳んで紙袋に入れる。あたしは、どうしたらいいかわからずフリーズ状態だ。この部屋には、紙皿も紙コップも使い捨てフォークもない。ティーバッグ1つない。そんなことより、この何を考えているかわからない主治医と2人でケーキを食べるなんて拷問に等しい。

「どれがいいですか」
 先生は中身が見えるように箱をひらいてあたしに見せる。

「えっ? こんなに……」
 やけに大きい箱だとは思ったが、10個も入っている。小さめだが、どれもフルーツやクリームで可愛らしく飾られていて、インスタ映え間違いなしだ。

「お好きなものをいくつでも選んでください。これだけ選択肢があれば、お口に合うものがあるでしょう」

「え……、でも……。先生は食べないんですか?」

「もちろん私もいただきます。まずは、あなたから選んでください。あなたのために、昼休みに買ってきたんです」

「他の患者さんにも買ってくるんですか?」

「いいえ。私のキャリアのなかで、患者さんにケーキを買ってきたのは今日が初めてです」
 金先生は色素の薄い目で、あたしの反応を窺う。


 そのとき、ノックの音がし、海宝さんがワゴンを押しながら入ってきた。
「千秋さん、検温です。あら?」

 海宝さんは、金先生と可愛らしいケーキ、困惑するあたしを見くらべ、瞬時に状況を飲み込んだようだった。

「海宝さんもいかがですか」

 海宝さんはケーキの袋をちらりと見ると、黒目がちの目を輝かせ、少女のようにはしゃぐ。
「まあ、嬉しい! これ、並ばないと買えないお店のよね! 建物も内装も可愛らしくて、若い女性に大人気のお店。夫に買いに行かせたら、気恥しいって逃げ帰ってきちゃったのよ。先生が買ってきたんですか!?」

「ええ。ネットで注文しておいて、昼休みに車を走らせて取りにいってきました」
  
「私、あと十分ほどであがれるので、ぜひいただきたいです。紙ナプキンはついてるわね。フォークとお皿は? ナースステーションにありそうだから探してくるわ。あ、先生、お掛けください」

 海宝さんは、金先生のためにパイプ椅子を広げ、あたしの検温を済ませると、ワゴンを押して慌ただしく隣の部屋に向かった。

 彼女がいなくなると、金先生と何を話したらいいかわからなくなる。あたしのエクスポージャーのために、金先生が面倒なことをしてくれたと思うと、全身が板のように固くなり、ぞわぞわ感が広がっていく。

 いけないと思い、とっさに周囲に注意を向けると、隣の部屋から、海宝さんの声が微かに聞こえてくる。窓に目を遣ると、夕日を飲み込もうと夜の気配が忍び寄ってくる時間だった。

「紫藤さん、先にお好きなものを選んでください」
 パイプ椅子に掛けた金先生が立ったままのあたしを促す。

「え、でも、先生や海宝さんから……」

「あなたのために買ってきたのです。あなたから選んでください」
 金医師の声は平坦だが、全身から圧を感じる。

 それに圧され、あたしは優美な首のスワンシューを指す。
「これがいいです。クリームが食べたい気分なので」

「それだけですか。女性でも3つか4つは食べられる大きさでしょう」

「え、そんなには……」

「そうですか。この大きさなら、私は10個くらいぺろりですね」

「え?」


「お待たせしました!」
 白いポリ袋を持ってきた海宝さんは、あたしたちに紙皿と使い捨てフォークを渡し、給湯室でインスタントコーヒーを淹れてきてくれた。

「金先生、本当に私もいただいていいんですか?」

「はい、お好きなだけ召し上がってください。私もいただきます」

 金医師は、紙皿にハート形のレアチーズケーキとフルーツで装飾されたプリンを取り、ぱくぱくと頬張りはじめる。

 あたしと海宝さんも「いただきます」と言い、それぞれスワンシュー、ザッハトルテを取り、パイプ椅子に座わる。

「千秋さん、どんな気分?」

「え、すごく美味しいです」

「そうじゃなくて、ドクターに特別扱いされて、どんな気分?」

 海宝さんに見破られ、「申し訳なくて、ぞわぞわしてます」と口の中で答える。

「こんなにきれいで美味しいケーキなのだから、ぞわぞわに負けないで、しっかりと五感を解放して楽しんでね」

「はい……」
 あたしはさくさくのシューとクリームが口の中でほどけ、舌の上で混ざっていく感覚に集中する。バニラビーンズが香り、上品な甘さのカスタードクリームが口いっぱいに広がっていく。

 早くも食べ終えた金医師は、メロンケーキとモンブランを取ると、口の周りを汚さずに、ぱくぱくと平らげていく。AIのような冷淡さと、スイーツ好きのアンバランスが滑稽で、こみ上げてくる笑いを堪える。

「金先生、こんな可愛いお店、どうしてご存じだったんですか?」
 海宝さんがザッハトルテにクリームを塗りながら尋ねる。

「甘いものに目がないので、市内の店はチェックしています。学会で出張するときは、その地方で評判のスイーツを調べておいて、食べに行きます」
 学会という言葉に、先生がその準備で忙しいのに、あたしのエクスポージャーに付き合ってくれていることを思い出し、ぞわぞわ感が全身を駆け抜ける。あたしは、2つ目に取ったプリンケーキを乱暴に口に押し込む。

 先生は海宝さんの食べているザッハトルテに目を遣った。
「ザッハトルテは、ウィーンで食べたカフェザッハーのが最高でした」

「わかるわ。私も若い頃、会社の同期と一緒にウイーンに行って、カフェザッハ―とデメルのザッハトルテを食べくらべしたの」

「私も両方食べました。両方とも、あんずジャムの酸味と濃厚なチョコレート、クリームとのバランスが絶妙でした」
 
 金先生が、珈琲にミルクと砂糖を2つずつ入れてかき混ぜるのを横目に、あたしは機械的にケーキを口に運び続ける。

「千秋さん、そのプリンケーキ、どんな味?」

「固めのどっしりしたプリンで……、スポンジは洋酒が染み込んでいます」

「色と形は?」

「プリンはカラメルソースでコーティングしてあって茶色です。形はひし形です」

「そうね。流し込むように食べるんじゃなくて、しっかりと五感を働かせて楽しむのよ。せっかく、忙しい金先生が、わざわざ可愛らしいお店に行って、買ってきてくれたんだから」

「そうですよ。あなたのために、時間と労力と金を費やしているんです。しっかり堪能してくださらないなら、米田心理士のシートに◎はつけないでくださいね」

 先生は思い出したように言い添える。
「◎が10個ついたら、タブレットの使用を許可します」