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ピアノを拭く人 第3章 (4)

 彩子は、勤務の終わった透を拾うために、フェルセンの駐車場に車を入れた。木の間にのぞく冴え冴えとした半月が、刺すような光を放っている。エンジンを切り、スマホを見ると、30分ほど前に羽生から携帯メールが入っていた。

To  Saiko MIZUSAWA
From  Kazumasa Hanyu

Title 透の近況
 水沢様
 透は好調! 退院してから、不自然な言動は影を潜め、お客様を気味悪がらせることはなくなった。たまに、何か言い添えることはあっても、相手が困惑するほどじゃない。仕事が終わった後、気になったことを私に訴えることはあるけれど、前のように安心するまで何時間も問答を繰り返すことはなくなり、私もゆっくり眠れるようになったよ。

 そうそう、今日の昼、久々に藤岡さんが来てくれた。透は、前に知らないと何度も謝った『風に立つライオン』を練習していたらしく、本日お披露目。情感たっぷりに歌いあげ、藤岡さん大喜び。彼女との雑談も以前より自然。ここまで良くなったのも、水沢さんが受診への道を開いてくれたから。感謝に堪えない。メリー クリスマス!
                             羽生 一正

 彩子は、マスクの中で笑みがこぼれるのを抑えられなかった。

 今日は定時の5時半に、挨拶もそこそこに事業所を出て、帰宅ラッシュをぬうように車を飛ばしてアパートに戻った。着替える時間も惜しく、紺色のパンツスーツの上にエプロンをかけ、料理の仕上げにかかった。昨夜、焼いておいたスポンジケーキを回転台に乗せ、スパチュラでクリームを丁寧に塗り広げ、苺とブルーベリー、エディブルフラワーで色鮮やかに飾った。今朝作ったコブサラダとサーモンマリネは冷蔵庫のなかで、ほどよく冷えている。昨夜作り置きしたオマール海老のビスクとスペアリブは温め直せばよい。透の好物だという鳥のから揚げは、昨夜から鶏肉を醤油と味醂、すりおろしたにんにくと生姜に漬け込んであるので、彼が家に来てから、揚げる予定だ。付け合わせのパンは昨夜ホームベーカリーで焼いておいた。透が、ご飯が食べたいと言うかもしれないので、炊飯器のスイッチを入れてきた。
 時間の都合でクリスマスの定番であるローストチキンをメニューから外したのは心残りだが、透とイブを祝う準備が整い、彩子の心は浮きたっていた。

 

 店の電気が消え、施錠を済ませた透が、黒いコートの裾を翻し、白い息を吐きながら車に近づいてくる。
「中で待っててくれればよかったのに。寒かったろ?」
 助手席に乗り込んだ透は、マスク越しに彩子の頬に触れ、額に優しく口づける。彩子の額から全身に、津波のように熱が広がっていく。
「大丈夫だよ、今来たところだし。お疲れ様。ここのところ、お客様と自然に接してるらしいね。羽生さんが褒めてたよ。桐生先生の宿題、◎10個付いた?」
 透は、得意そうに親指を立て、マスクの中で笑みをつくる。
「そう。じゃ、お酒を買ってから家に行こうか。透さん、買い物できるようになったんだもんね」
 透の全身に、にわかに緊張が走ったのを彩子は見逃さなかった。彩子は車を走らせながら、言い添えた。
「入院中、汚い手で、折れたお札と汚れた硬貨を出して買い物できたんだよね。エクスポージャーの成果、私に見せてよ。それが一番のクリスマス・プレゼントだから」
「プレゼント、ちゃんと用意してきたのに……」
 マスクのなかで、もごもごとつぶやく透を横目に、彩子はスーパーの駐車場に車を入れるために左折した。

 

 彩子が買い物かごを持ち、2人で相談しなから赤と白の辛口スパークリングワインと、甘めの缶酎ハイを何本か選んだ。透は彩子が買い物かごを持ったことで、会計をしなくて良いと思ったらしく、終始寛いだ表情を見せていた。

「透さん、会計お願いね」
 彩子は不意打ちのように、透にかごを差し出した。このスーパーには、セルフレジがない。
 透は顔を引きつらせて、かごを受け取ると、おどおどと彩子に尋ねる。
「この場合、瓶と缶を全部立ててレジに出したほうがいいかな? それとも、バーコードを店員さんの方に向けたほうがいいかな? どっちが失礼じゃないかな?」
「どっちでも、いいんじゃない?」
 彩子は透の儀式が出たと察し、いかにも気がなさそうに答えた。
 透は、しばらく硬直していたが、すべての飲み物をかごの中で立て、ラベルの文字を店員のほうに向けると、かごの中で倒れないように押さえながら、そろそろと列に並ぶ。
「2番目にお待ちのお客様、こちらへどうぞ」
 隣のレジが空き、若い男性店員が透に声をかけてくれた。
「あ、ありがとうございます」
 透は立てた飲み物を倒さないように押さえながら、隣のレジに向かい、「お願いします」と、かごを台に乗せる。
 店員は手際よく、飲み物をスキャンし、別のかごに移していく。
「袋は有料ですが、どうなさいますか?」
「大丈夫です。ありがとうございます」
「ご協力、ありがとうございます。お客様のお会計、3,830円になります」
 透がSuicaを用意しているのを見た店員が、「Suicaですね」とタッチの手続きを済ませてくれる。
「はい」
 透がタッチを済ませると、店員がレシートと明細を渡してくれた。
「ありがとうございます」

 透は受け取ったレシートとかごを持ち、荒い息で彩子の待っているサッカー台に突進してきた。
「さっき、店員さんが、俺がSuicaでお願いしますと言う前に、Suicaですねと聞いてくれたんだ。そのことに対して、ありがとうございますと言えなかった!」
「別に気にすることじゃないんじゃない? Suica持ってれば、そう言うでしょう」
 透は明らかに納得していない様子で、新しいかごを掴み、ドリンクコーナーにずんずん歩いていく。


 彩子は慌てて、購入した飲み物をエコバッグに入れ、かごを戻して、透を追う。透は追ってきた彩子など目に入らない様子で、ミネラルウォーター2本をかごに入れ、大股でレジに向かう。ラベルを店員のほうに向け、先程の若い男性店員の列につく。
 だが、運悪く、隣のレジが空き、透はそちらに呼ばれる。透は、そのレジで会計を済ませたが、ミネラルウォーターのかごを彩子に託すと、再び新しいかごを持つ。

「ちょっと、今度は何?」
 透は止めようとする彩子の手を振り払い、レジの近くに陳列されていたあんパンを2つかごに放り込み、文字を店員の正面に向けると、先程の若い男性店員が会計しているレジに並ぶ。
「いらっしゃいませ」
「お願いします。何度もすみません」
「袋は大丈夫ですか?」
「大丈夫です。ありがとうございます」
「お客様のお会計、190円になります」
「Suicaでお願いします。先ほどは、Suicaだとすぐに気づいていただきまして、ありがとうございました」
 店員は何を言われているのかわからない様子で、「はい」とだけ答え、Suicaで支払う手続きをする。
 透はレシートと明細を渡してくれる店員に、「ありがとうございます。お忙しいときに申し訳ございませんでした」と早口で言い、肩で息をしながら、サッカー台にかごを置いた。
 荒い息を吐いている透は、彼の中で儀式が完了したのか、再びかごを持つことはない。彩子はあんぱんをエコバッグに入れ、かごをもどすと、荒い息をしている透の背中に手をまわし、店を出た。


「大丈夫? 買い物ができるところ、見せてくれたね。素敵なクリスマスプレゼント、ありがとうね」
 彩子は努めて明るく振る舞い、助手席の透に、さっき買ったミネラルウォーターを渡した。透は半分ほどを一気に飲み、しばらく息を整えていた。
「何か気になることができたとき、同じ店員さんのレジでやり直せると、気が済むの?」
 透は力なく頷く。
「入院中のエクスポージャーでは、もっと失礼なことをしたのに、そのままにできたんでしょ?」
「あれは、課題というか、病院の責任でやったことだ。今は、俺の責任でやっていることだ」
「そういう理屈なのか……」
 彩子は自分もミネラルウォーターを開け、暖房で乾燥した体に水分を補給した。そういえば、入院中にもらったメールにも同じようなことが書いてあった。
「同じ店員さんのレジじゃないとダメなの?」
「うん。このあいだは、なかなか上手くいかなくて、8回も買い物をしてしまった……。バカみたいだってわかっているけど、恥ずかしいけど、気になることを抱えて帰ると、居ても立ってもいられなくなるんだ」


 彩子は、ここから透をどう前進させたらいいのかわからず、とにかく今は、避けていた買い物ができるようになったことを喜ぼうと決めた。