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ピアノを拭く人 第1章 (16)

 帰宅ラッシュの車の渋滞は、リズムのない間隔で、のろのろと進む。川沿いの国道には、テールランプの行列が果てしなく続いている。視線を上げると、事業所を出たときには雲に覆われて見えなかった満月が、濃度を増した群青色の空に姿を現していた。

 彩子は、ハンドルを握りながら、ここ数日温めてきた思いを慈しむかのように、右手でそっと左胸をなでる。

 あの夜、透に自分の仕事をほめてもらったことで、言い様のない温かさが全身に広がり、目頭が熱くなった。
 透の前では堪えたが、家路を急ぎながら彼の言葉を思い返すと、涙で視界が霞んだ。コンビニの駐車場に車を止め、タオルハンカチで涙を拭いながら、ずっと胸を占めていたもやもやが昇華されていくような不思議な感覚に包まれた。涙が乾いた頃には、自己肯定感とともに、透が好きだという思いがくっきりとかたちになっていた。


 結婚を意識する年齢になってから、誰かを好きになると、相手のスペックをチェックしてきた。相手の職業、収入、学歴、家庭環境、共通の趣味……。
 32歳にもなって、今までの基準からしたら、なぜと思う男性を心が求めている。だが、30過ぎという年齢になったからこそ、社会人になって10年を経たいまだからこそ、彼に魅かれたのだ。

 職場ではZoomでの研修が増えた。新型コロナウイルス感染予防が徹底され、本社の社員の出張が制限された。それに伴い、事業所が域内のクライアントへの営業を全面的に担うことになり、社の方針や、クライアントに提示する感染防止対策などがレクチャーされた。
 新たな業務が増え、彩子は今まで以上にプライドを持って仕事に取り組んでいた。そんな自分になれたのは、透のおかげだった。彩子は今度は自分が、苦しみの真っ只中にいる彼を助けようと決めた。



 紅葉した銀杏が、控えめなライトアップに映えている。彩子は足元の銀杏を踏むのをためらいながら、フェルセンの入口に続くスロープを歩き、扉を押した。
 店内に流れる悩ましげなピアノ協奏曲が、覆いかぶさるように彩子を包む。羽生が食事を済ませたらしい中年カップルに、珈琲を運んでいる。
 カウンターに掛けた彩子は、怪訝そうに店内を見回す。店では、よほどのことがない限り、生演奏が行われていて、CDが流されているのは初めてだ。今日は透が弾いているはずだった。

 
「いらっしゃい」
 戻ってきた羽生が、水とメニューを出してくれる。
「これ、バッハのピアノ協奏曲第1番ですよね。のだめカンタービレで、千秋先輩が弾き振りした曲。ところで、今日、透さんが弾く日だったような気がしますが?」
 羽生は頷き、眉間に深いしわを寄せ、声を落として言った。
「本人は弾くと言ったんだけど、あんな死神みたいなのを出すわけにいかないから、強引に休ませたんだ。上にいるんだけどね……」
「行っていいですか?」
 彩子は返事を聞く前に、バッグを持ち、席を立っていた。
「大丈夫? 手に負えない状態かもしれないけど……」
「大丈夫です」
 羽生は、心配そうに店を出ていく彩子の背中を見ていたが、止めようとはしなかった。

 

 彩子は2階に上がり、先日と同じ部屋をノックした。
 しばらくして、黒いセーターと折り目の入ったズボン姿の透がのそりと姿を現した。目に生気が感じられず、髪はかきむしったように乱れ、髭は伸びっぱなしで、頬がげっそりとこけている。生そのものを放棄したような憔悴ぶりに、彩子は背筋が冷えた。
「こんばんは。羽生さんに調子が悪いと聞いたので……」
「すみません。ご心配をおかけして……」
 透はマスクをかけると、倒れこむようにソファに座った。
 テーブルの上には、赤ワインのボトルがあるが、開けた形跡はない。
 彩子は透の傍らに掛けた。
 透は、前かがみになり膝に手を乗せ、力なく頭を垂れている。


「俺はどうしようもない大馬鹿だ……」
 透の力ない言葉は、水滴のようにぼとりと床に落ちた。いつもは紳士的な彼の言葉が乱れ、髪や服を直そうともしないことに、彩子はただならぬものを感じた。
「こんな苦しい記憶を抱えて生きるなら、死んだほうがましだ!」
 透は両手で頭を抱え、頭皮がむけるほど激しく髪をかきむしる。
「どうしたんですか……?」
「20年程前に、すごく世話になった人に渡された2千円を別の目的に使ってしまったことに気づいたんだ。彼の意図を勘違いしていたことが、今朝すっと頭のなかに侵入してきた。申し訳なくて、申し訳なくて。いろいろあって、何年も会ってないから、今さら合わせる顔もないし、手紙を書くわけにもいかない。あのときは、何の疑問も抱かなかったんだ。何で今まで気づかなかったのか……!」
「そのとき、気づかなかったんだから仕方ないじゃないですか。悪気があったわけじゃないし。今さら謝られても相手は覚えていませんよ。手紙をもらっても困ると思います」
「俺が気になって、気になって、苦しくて耐えられないんだよ! 仕事ができて、人柄も素晴らしくて、かなうものは何もなくて、尊敬している人なんだ。そんな人にあんなことをしてしまったんだ!! 何で今になって気づくんだよ!!」
 透は握りしめた拳で、ソファを激しく叩いた。
「ずっと、死にたかった。母が死んだとき、何で俺じゃなかったんだと思った。何もかもうまくいかない上に、こんな病気になって、人に迷惑かけてばかりで……。俺がだらだら生きてるのは、自殺するのが面倒くさいのと、したら警察とか死体を片付けてくれる人とか、いろんな人に迷惑をかけるからだ。でも、もうどうでもいい。こんな辛い記憶を一生抱えて生きるなら、死んだほうがましだ……」
 透の目から、ぼたぼたと涙が落ち、床に染みをつくった。

 彩子はソファに膝をつき、透を激しく抱き締めた。
「透さん、病院に行こう! もう限界でしょ。私がそばにいるから……。嫌な記憶も一緒に抱えるから。だから、お願い……」
 彩子は透の顔を両手ですくい上げ、マスクをしたまま衝動的に口づけた。
 透は驚いて目を見開いたが、次の瞬間、自分のマスクを乱暴に外し、彩子のマスクをはぎとると、荒々しく体を引き寄せて口づけた。
 透の舌が彩子の口をこじ開けるように侵入してきて、2人の舌が絡む。透の巧みな舌の動きに、彩子は男としての彼を初めて突き付けられた。
 何てキスが上手いのだろう。芸能人顔負けの容姿の彼が、どれほどの女性を魅了し、昇天させてきたのかと想像すると、彩子は突き上げてくるような嫉妬に駆られた。透の首に両腕を巻き付け、自分のすべてを捧げる思いで、彼とむさぼり合った。


 嵐のようなキスが止むと、彩子は透の頬に残っていた涙を指で拭い、彼の体を守るように抱き締めた。
「できるだけ早く、一緒に病院に行こう。強迫症を治療してくれる先生を探したから」
 透は彩子の背中に腕を回し、体を預けると、小さく頷いた。