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巡礼 プロローグ

 花冷えのする朝、80を超えた老人が2人、ぎこちない足どりで墓地に入っていった。23歳の風岡都かざおか みやこは水で満たした手桶と花を携え、2人を気遣うように付き添っていた。都は寒さが2人の体に障らないか、冷え込みで桜の開花が遅れないかと気をもんでいた。

「55年ぶりだよ」老いても堂々とした体躯の兄が、痩せ型の弟を振り返って言った。
 兄は先導して墓地を進み、「原田家之墓」と刻まれた墓の前で足を止めた。原田家のために区切られた縦長の敷地の突き当たりに、年季の入った墓石が鎮座している。その傍には、黒ずみ、苔生した小さな墓石があった。
「原田家の墓だよ。叔父の家に預けられた中学時代、何度も来た」
 通り抜けていく風が、寺を守るように繁る竹林をざっと鳴らした。
「この音は覚えている」兄は目を細め、竹林を振り仰いだ。
 都は学生服に身を包んだ美しい少年が、墓の前で手を合わせる姿を思い描いた。ここに建つ墓石は、そんな少年の姿も見守ってきたのだ。都には、墓地は過去と現在が一番接近しやすい空間に思えた。

「これが君の墓だ。ちゃんと残っている……」
 兄が弟を振り返り、小さな墓を指差した。弟は恐る恐る歩みを進め、原田彰之墓はらだ あきらのはかと刻まれた墓石に手を触れた。都には、幾多の風雨にさらされて黒ずんだ墓石が、兄弟が別々に生きてきた時間を形にしたように見えた。
 弟は都から柄杓を受け取り、複雑な表情で何度も墓石に水をかけた。積年の埃と砂が洗い流されると、側面に刻まれた「昭和二十年五月十一日 海軍大尉かいぐんだいい 原田彰 享年二十六歳」という文字がかろうじて読み取れた。
「半世紀以上、自分の墓があるなんて知らなかった」口数の少ない弟がぼそりと言った。

 2人は一見すると日本人の老人に見えたが、アメリカ生まれの彼らの会話は、大半が英語でなされていた。
「アメリカで生まれ育った君が、あんな死に方をしたと知って、不憫でならなかった。どうしても君の墓を、この世に存在した証を残してやりたかった」
「ありがとう、ミツ……」
 弟が長身の兄を振り返り、2人の視線ががっちりと絡んだ。

 半世紀以上、別々に生きてきた2人は、ゆかりの地を訪ねながら心の距離を縮めてきた。最後の地を訪れた2人の表情はこれまで見たことがないほど穏やかだった。

 兄が都を振り返って言った。
「都さん、私と彰はここまでくるまでに半世紀以上かかった。私たちのように、時間を無駄にしてはいけないよ」
 

 都は兄の言葉にこみ上げてくるものを感じながら、自分が彼らに付き添ったことの意味に思いを馳せた。