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ピアノを拭く人 第3章 (10)

 雀のさえずりで、目を覚ました彩子は、寝起きの頭をフル回転させ、自分がどこにいるのかを考えた。目だけ動かして周囲を見回すと、東山魁夷『道』が目に入り、安堵で再び目を閉じた。
 昨夜は両親と夕食の食卓を囲み、これでもかというくらい並べられた好物でお腹を満たした。自分のために沸かされた一番風呂、清潔に整えられたベッドやパジャマを見ると、今でもここに居場所があると実感した。
 枕元のスマホに手を伸ばすと、透からメッセージが入っていた。彩子の考案した「お1人様おせち(和風・洋風)」は、思ったより注文が入ったので、透も手伝いに駆り出されているという。ここ数年の年越しは、常連のお客様が集まり、透の演奏を聴きながら、シャンパンを開けるのが恒例だったと聞き、彩子は自分がそこにいなかったことに一抹の寂しさを覚えた。


「この食パン、口あたりがいいな」
 父がカフエォレを片手に、彩子の手作りパンを美味しそうにかじる。
「あんぱんも、美味しいわ。たまには、パンの朝食もいいわね」
 滅多に美味しいということのない母が満足してくれたようで、彩子は上機嫌だった。
「お兄ちゃん一家は、年明けに来るんだよね? 私も顔出そうかな」
 彩子は2枚目のパンに手を伸ばしながら尋ねた。
「ああ、昨夜電話があったのよ。2人とも病院勤務だから、私たちに気を遣って、年始の挨拶だけですぐ帰るって。私とお父さんも、毎日薬局で、たくさんの患者さんと接しているんだから、気にすることないのにね」
「何だかいろいろ淋しいね」
 彩子は食パンにハムとレタスを乗せながらぼやいた。
「そうだわ、彩子」
 母が持っていた牛乳のグラスを置き、彩子に鋭い視線を向ける。
「何?」
「昨夜の電話で、お兄ちゃんが言ってたの。スーパーで、あなたが、年上の背が高い男性と一緒にいるのを見かけたそうよ。病的で、顔色の悪い人だったって心配してたわ……」
 彩子は兄の「病的で、顔色の悪い人」という描写が妙に勘に障った。同時に、透が客観的に見られると、そんな印象を与えるという現実を突きつけられた。
「新しい彼氏なの? お友達?」母は彩子から視線をそらさず、詰問するような口調で尋ねた。
「友達。イブに少人数のクリスマス・パーティーをしたから、買い出しを手伝ってもらったの」
 彩子は咄嗟に出した答えに居心地の悪さを覚えた。今の透を両親の前に出すのは酷なので、そう答えるしかない。だが、親に紹介できない男性との交際を後ろめたく思う気持ちが、自分の中に存在することに気づかされた。
「そう」
 母の顔には、一応は納得したという表情が張り付いていた。


「なあ、彩子。しつこいようだが、真一くんと会うことを考えてみないか?」
 すかさず切り出され、彩子は眉を顰めた。
「真一くんは、彩子が法事の会食のとき、飲み物を注いだり、会話に入れない人を上手に引き入れたり、面白い話をして場を盛り上げたり、かいがいしく働くのを見て、お寺の奥さん向きだと思ったそうだ。おまえは昔から、親戚の集まりでも、よく働いたし、場を和ませるのも得意だったな。細かいとこまで、よく気が利く子だった」
「そういう役割を期待するなら、失望すると思うけど……。私がお母さんと同じで、自己主張が強くて、おかしいと思うことを変えたがるのを知ってるでしょ? お寺のような保守的な環境では、周囲と衝突を起こすのが目に見えてるよ」
 母が面白くなさそうな顔をしているのを視線の端で捉えたが、彩子は構わず続けた。


「それなら、それでいいんだよ。彩子が会ってみて、無理だと思うなら断ればいい。逆に向こうから断られるかもしれないけどな」
「でも、上手くいかなければ、お父さんと住職さんの関係悪くなるでしょ……?」
「何だ、そんなこと気にしてたのか。俺と真平くんの仲は、そんなことで壊れないよ。それに、お父さんとお母さんは、お寺との関係よりも、彩子の幸せを一番に考えているんだから。なあ?」
「そうよ。私は真一くんなら、あなたが満足できると思ったから、しつこく勧めてるの。あなたが物足りないと思うなら、お断りしても問題ないのよ」
 母の声は心なしか震えていた。
 両親の愛情が胸に染み、彩子は目頭が熱くなった。
「わかりました。お会いします。素の私を知られたら、先方からお断りされると思うけど……」
 彩子は両親のために一度だけ会い、義務を果たそうと決めた。

 

 実家から戻った彩子は、夕方からZoomで開催される同期会に備え、家にある材料で、オリーブとミニトマトのピンチョス、蒸し野菜、サーモンマリネを作った。冷蔵庫には、缶ビールと梅酒が冷えている。
 入社時に6人いた同期は、10年も経つと3人に減ってしまった。本社で苦楽を共にし、濃密な日々を過ごした2人と久しぶりに話せることに心が躍った。

 彩子が約束の10分前にZoomを立ち上げると、同期の竹内が既に入っていた。
「おー、水沢さん、久しぶり。髪伸びたね」
 竹内はやや乱れたツーブロックの髪に、上下ジャージ姿で手を振っている。
「竹内くん、久しぶり。早いね。今、どこ?」
「水沢さんたちも来たことある部屋。あれから、引っ越してないんだ。水沢さんは実家?」
 竹内が缶ビールを開けるぷしゅっという爽快な音が、画面越しに聞こえた。
「ううん、1人暮らしのアパート。こっちは家賃が安いから、広いところ借りられるよ」
「本当だ。格好いいソファがあるね。リッチ~」
 

 2人がノリを取り戻した頃、鈴木が飛び込んでくる。
「やっほ~。遅れてごめんね。いま、宅配ピザ来たとこ」
 鈴木は長い髪をアップにまとめ、ユニクロのフリース姿でベッドに座っている。
「すーちゃん、いま実家?」
「ううん。実家だと、会話を聞かれそうだからアパート。2人とも元気そうだね。竹内くんとは会社で顔合わせてるけど、ゆっくり話す暇はなかったね。最近どうよ」
「うん。俺、会議・学会運営チームの主任やってたけどさ……」
 彩子は会社が試験だけではなく、学会や講習会の受付、司会、テスト実施などの運営を請け負っていることを知っていた。
「コロナ禍で、3密を避けるために、学会とか講習会がオンライン開催になって、仕事が激減した1年だったよ」
「辛いね。こんなことになると誰も想像してなかったよね」
「しんどかったね。他の試験チームの手伝いによく駆り出されてたよね」
 彩子と鈴木はそれぞれ竹内を労い、続きを待った。
「最近は、登録スタッフに、Zoomでオンライン試験監督システムの講習をするのと、オペレーター養成が中心になった」
「オペレーター?」鈴木が尋ねた。
「大学の定期試験に、うちのオンライン試験監督システムを導入してもらう予定だろ? うまく行ったら、入試での使用も検討してもらう予定で」
「うん。年明けから、私のチームで営業攻勢かける予定だけど」
「受験者に、接続トラブルとかがあったとき、大学の事務に質問が集中すると業務に障る。だから、それ専用のダイヤルをつくることにしたんだ。そのオペレーター」
「それは共同開発した通信会社の子会社のオペレーターが担当するんじゃないの?」
 彩子が怪訝そうに尋ねた。
「いや、うちの登録スタッフをトレーニングして使うことになった。導入してくれるクライアントが増えると、オペレーターも大量に必要になるから、今から人材育成。年輩のスタッフでも、積極的に講習受けてくれる人がいるよ」
「そうなんだ。それなら、会場試験が減っても、スタッフの仕事の削減を緩和できるね」
 彩子は心から嬉しくなり、ぬるくなったグラスの梅酒を飲み干した。
「彩子は、自分たちの開発したシステムが、スタッフさんの仕事を奪うことを心配していたんだよ」
「いや、水沢さんが気にすることじゃなくて、オンライン化の流れがコロナで加速しただけだよ。うちでも、来年はIT系の新人を大量募集するらしい。今更だけど、俺も水沢さんみたいにコンピューターに詳しければと思うよ。それより、鈴木さん、何か報告したいことがあるって会社で言ってなかった?」


 鈴木は、ぱくついていたピザを置き、手を拭くと、神妙な面持ちで姿勢を正した。
「素面のうちに言っとくね。2人には、随分相談したから、ちゃんと報告したかったんだ。報告が遅くなって申し訳ないけど、私、例の彼と別れたの」
「ええっ?」竹内が頓狂な声を上げた。
 彩子は、あまりの驚きに声さえ出なかった。
 鈴木は2年前から、妻子のいる上司と不倫関係にあり、徹底して隠しながら交際を続けてきた。彩子は品行方正な鈴木に似合わないと大反対したが、彼女が彼と一緒になる覚悟で、彼もそのつもりだと知り、案じつつ応援してきた。たまに、状況を知らせてくれたが、その気配は窺えなかった。
「息子さんが大学に入ったら、奥さんと別れる方向で、それまでは絶対に隠し通す方向でやってきたんだけど……」
「何があったの?」彩子は彼女が受けたダメージを慮りながら尋ねた。
「うん……」鈴木はベッドに座り直し、しばらく口ごもった。酔いがまわったのか、少し頬が赤らんでいるのが画面越しでもわかった。
「一言で言うと振られたの。コロナが流行り出してから、感染したら、濃厚接触者を特定するために、行動を聞き取り調査されるようになったでしょ」
 彩子と竹内はそれぞれ頷いた。
「彼は、もし感染したら、私と会ってたことが、会社や家族にばれるかもしれないって」
「それなら、コロナが下火になるまで、しばらく会わないようにすればよかったんじゃない?」竹内が身を乗り出さんばかりの勢いで尋ねた。
「一度は、そういう方向になったんだけど、コロナはなかなか収束しないし……。先月、彼から切り出されたの」
「何それ! すーちゃんの貴重な2年を奪っておいて、勝手すぎるよ! すーちゃんは、それで納得したの?」
 彩子は、自分も良く知る相手の上司を殴りたい思いに駆られた。
「うん。悲しいし、悔しかったよ。でも、冷静になると、どう言い訳しても、正当化できない関係を続けてきた自分が嫌になった。本当に好きだったから、後悔はしてないけど、奥さんと息子さんにばれて傷つける前に別れられてよかったと心から思った。言い方は悪いけど、コロナがいい機会になったかな」
「すーちゃん、無理してない?」
「大丈夫だよ。これから、本気で婚活して、一日も早く幸せになるよ!」
 彩子は笑顔で同意しながらも、親友の受けたダメージが心配で、後で2人だけで話す機会をつくろうと決めた。


「それでね……」
 鈴木が真顔で画面を見据えているので、2人は続きを待った。
「近いうちに会社を辞めようと思ってる」
「嘘……?」彩子はショックで息が止まりそうになった。
「そこまですることないよ。今、辞めても、この状況では再就職も厳しいんじゃないか?」竹内の声は震えていた。
「次が見つかるまでは、今の仕事に全力で取り組むよ。彩子たちの開発したシステム、どんどん売るから任せといて」
「すーちゃん、嫌だよ。残された私たちは、どうなるの? すーちゃんが辞めるなら、あいつも辞めるべきだよ」
 彩子は喉元にこみあげてくるものがあったが、本当に泣きたいのは鈴木だと思うと、自分は堪えなければと思った。

「結局、3人とも、コロナに振り回された1年だったね」
 3人は、先の見えない道を手探りで進んできた1年を振り返りながら、しばらく黙っていた。遠くで除夜の鐘が静かに響いていた。
「来年はいい年になるといいな……」
「うん、2人ともよいお年を。すーちゃん、黙って去っていかないでね」
「そんなことしないよ。また、必ず3人で話そうね。よいお年を」
 3人は互いに頷き合い、近いうちの再会を約束して、Zoomを終了した。