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ピアノを拭く人 第4章(11)

  前半を終えた4人がミントウォーターで喉を潤しているとき、彩子は桐生と透と共に、座る位置の確認をしていた。

 黒白の弁慶格子のスーツをまとった彩子は、三脚に乗せた録画用のデジタルカメラ越しに、いつになく洗練された透の姿を見つめていた。濃紺のスーツ姿のトオルは、空色のネクタイを締め直しながら、黒スーツを着た桐生と談笑している。事前に桐生と、話す内容と大まかな流れを打ち合わせてあるので、彼に不安の影は見られない。

 彩子の両親がセミナーを視聴していることは透に伝えていない。透には余計なストレスを感じずに、セミナーに臨んでほしかった。両親に彼との交際を理解してもらうには、自分と彼の関係が凝縮されたセミナーを見てもらうのが一番いいと思ったからだ。

 彩子は、出会ってからの半年弱で、透という人間にすっかり魅了されていた。神経発達症のために苦悩し続け、二次障害の強迫症に苦しめられても立ち上がった。不器用ながらも懸命に生きる姿は、傍で支えたい思いを生み出した。彼に必要とされ、愛されることで、しなやかに力強く立っていられる。そんな自分を愛おしく思える。

 彩子はマスクを外し、髪型や衣服に乱れがないことを確認すると、透と視線を交わして席についた。



(桐生)時間になりましたので、後半「強迫症と周囲のサポート」を始めたいと思います。私は、司会を務めさせていただく、心理士の桐生美咲きりゅうみさきと申します。4人のカウンセリングを担当しています。
 強迫症は、患者さん本人が大変なことは勿論ですが、家族、パートナー、友人、同僚など周囲の人を巻き込むことの多い病気です。大切な方が苦しんでいる姿を見ると、助けたいと思うのは当然だと思います。ですが、その助け方により、症状を悪化させてしまうこともあれば、回復の力添えにもなれます。
 今日は、このテーマについて、加害恐怖を持つトオルさんと、恋人のサイコさんとお話ししてみたいと思います。お2人は、毎回一緒にカウンセリングに来てくれるのですが、私は2人の協力によるERPがとてもうまく進んでいると思います。

 トオルさんの症状はYou Tubeで詳しく解説されていますが、簡単に説明していただけますか?

(トオル)はい。僕は加害恐怖と罪滅ぼし強迫があります。最初は、過去に迷惑を掛けた方に謝罪できなかったこと、親切にしてもらった方にお礼が言えなかったことが次々に頭に侵入してきて、居ても立ってもいられなくなり、手紙を書き、謝罪や感謝を伝えていました。
 周囲の人は、これから礼儀正しくすればいいと助言してくれました。でも、失礼な言動がないよう意識すると、人と接することが怖くなり、買い物さえできなくなりました。やむをえず、人と接するときは、後で気になることが出てこないように、感謝と謝罪を儀式のように過剰に伝えるようになりました。後で伝え足りなかったことや、失礼だった言動が、すっと頭に侵入してくると、戻って伝える、次に会った時に伝える、手紙を書くなどの罪滅ぼしに追われていました。

(桐生)ありがとうございます。失礼なことをするのを恐れるトオルさんには、買い物をしたときに店員さんにお礼を言わず会釈だけにする、汚れた手でものを触るなどのエクスポージャーに挑戦していただきましたが、コロナ禍でやりにくかったことはありますか?

(トオル)はい。社会全体で手洗い、アルコール消毒が奨励されるなか、汚れた手でピアノを弾いたり、買い物をするエクスポージャーは抵抗がありました。今までは、コロナ前でも、アルコールティッシュとハンドジェル、除菌スプレーを持ち歩き、自分の座った場所や触ったものをきれいにする強迫行為をしていました。特に、仕事道具であるピアノの鍵盤は、入念に拭いていました。

(桐生)そうですね。私達もトオルさんに、服屋で試着をして購入しない、買ったものを他のものと取り替えてもらうなど、迷惑なことをするエクスポージャーにも挑戦させたかったのですが、コロナ禍なので控えざるをえない状況です。
 前半の3人と同じように、トオルさんにも、コロナ対策がERPに不利に働いています。他方で、彼の場合、コロナ対策がERPに有利に働いた点もあります。サイコさん、説明していただけますか?

(サイコ)はい。コロナ禍で、人との接触を控えること、飛沫拡散を防ぐために会話を控えることが推奨されていますよね。トオルさんが買い物をして、店員さんと声が重なった、商品を逆向きに出してしまったなど気になることが出てくると、同じ店員さんのレジで買い物をやり直して、謝ったり、お礼を言ったりします。そのとき、彼は必死になっているので、声が少し大きくなっています。
 彼の強迫行為は、人との接触を不要に増やし、マスクをしていても飛沫を飛ばし、何度も買い物をすることで店員さんが消毒する買い物かごの数を増やすので、逆に迷惑ではないかと言ったら、彼が納得してくれました。

(桐生)興味深いですね。コロナ対策と、トオルさんの加害恐怖を生かし、彼の強迫行為を控えさせる方法を思いついたのです。このように、2人は創造力を働かせながら、ERPを進めています。

 それでも、最初から、うまくいったわけではないですよね。サイコさん?

(サイコ)はい。最初は、私も強迫症の知識がなかったので、彼の強迫行為を助けてしまったと思います。

(桐生)どんなことをしていましたか?

(サイコ)彼が手紙を何度も書き直して、便箋や封筒が足りなくなってしまったとき、頼まれて代わりに購入してきました。そのとき、彼は買い物ができなかったので。
 彼が、こんな言動は、失礼ではないかと不安になって電話を掛けてきたとき、彼が安心するまで同じような問答に付き合っていました。
 その頃、彼は勤務先のマスターに電話を掛け、安心するまで何時間も問答を繰り返していました。彼もマスターも、疲労の限界が来ていたので、私が少しでも助けになれればと思いました。

(トオル)あの頃は地獄でした。本やネットの情報で、エクスポージャーのことは知っていて、強迫行為をしたり、手伝ってもらってはいけないとわかっていました。でも、今この気になることをどうにかしないと、自分がどうにかなってしまう状態でした。
 強迫観念と強迫行為の繰り返しで、周囲に迷惑をかけてばかりなのが辛く、本気で死にたいと思っていました。この店は、マスターが僕の働く場所を確保するために開いてくれたのですが、僕がいなくなればマスターも無理をして店を続ける必要がないですし。

(桐生)先が見えず、苦しい状況のなかで、病院に行って、治療しようという思いになったのは、なぜですか?

(トオル)彼女、サイコさんの存在です。彼女がいなければ、僕はこの場にいることはないと思います。
 彼女とは、僕の病気がひどくなってから知り合ったのですが、強迫観念に振り回されて奇行を繰り返す僕を見ても離れていかず、支えてくれました。限界になった僕に、病院に行こうと言ってくれたのも彼女です。 
 強迫症のことをたくさん勉強して、僕が強迫行為をしないように、辛抱強く見ていてくれました。カウンセリングや診察にも立ち会ってくれました。
 彼女を幸せにするために良くなりたい、彼女に恥ずかしい姿を見られたくないという思いがなければ、僕は治療を受ける気持ちにならなかったと思います。

(桐生)彼女の存在が、治療への力を与えてくれたのですね。愛の告白のようで、思わず赤面してしまいますが……(笑)。
 ERPを始める前に、何のために良くなりたいか、良くなったら何をしたいかという気持ちがしっかりしていることが重要だと教えてくれますね。

 サイコさん、トオルさんのERPを見守っていて、どんなことが大変でしたか?

(サイコ)彼が気になることを抱えながら、強迫行為を我慢しているのを見るのが辛かったです。ここで強迫行為を許してしまったら、次も同じようにして安心したいと思わせてしまい、病気を悪化させると勉強していたので、心を鬼にしました。
 時間が経っても彼の気分が変わらなかったり、口論になったりしたとき、どうしていいかわからず、無力感を覚えました。

(桐生)大切な人が、強迫行為を我慢して苦しんでいる姿を見るのが辛いのは、多くのご家族やパートナーが経験していると思います。口論になったり、手が出てしまうこともあり、互いに消耗し、どうしたらいいかわからなくなることもありますよね。
 サイコさん、そんなとき、どうしましたか?

(サイコ)私たちの場合、桐生先生と赤城先生がいてくださったので、困ったときは相談できました。ERPの方法を詳しく解説している書籍もあり、1人で挑戦することもできると思います。でも、症状は人によって違い、こんなときどうするかという細かいところまで載っているものは少ないので、その都度先生方に相談できたのは助かりました。
 カウンセリングで、毎回ERPの目標を決め、進展をチェックしていただけたこと、ERPに立ち合い、桐生先生がどう対応しているかを見られたのも良かったと思います。

(桐生)ERPをサポートしてくれる方が、強迫症とERPについて知識を持っていて、強迫行為を阻止してくれたこと、カウンセリングや診察に立ち合って、情報共有してくれたことも、治療が円滑に進んだ要因ですね。

(トオル)彼女がカウンセリングに同席したことで、僕が桐生先生に隠していた症状を言われてしまい、僕が彼女に隠していた症状を先生に伝えるのも聞かれてしまいましたが……、確かにそれで治療がスムーズに進みました。

(桐生)強迫症の方は、周囲に隠して強迫行為をすることもあるので、周囲は治ったと思っても、症状が残っていることがありますからね。

 お話を伺い、なぜ治りたいかがはっきりしていたこと、サポートしてくれる人が知識を持っていたこと、必要なときに医師や心理士に相談できたことが、トオルさんの治療が上手く進んだ要因だったことが見えてきました。
 強迫症に悩んでいるご本人や周囲の方、少しでも参考になったでしょうか?

 もう少しお話を伺いたいところですが、時間が迫ってきました。最後に、強迫で苦しんでいる方や、周囲の方に2人からアドバイスをいただこうと思います。では、トオルさんからお願いします。

(トオル)強迫症を患っている人が、気になることをそのままにするのは、言葉にできないほど苦しいと思います。強迫観念はものすごい強さで侵入してくるので、それを無視するには強靭な意志が必要です。今回だけはと強迫行為をし、すっきりしたい衝動に駆られると思います。でも、そうしたら、次も同じようにして安心したいと思ってしまい、永遠に治りません。時間が経てば、強迫行為をしなくても不安は小さくなっていきますので、そのままにしてください。
 支援する方は、大切な人に強迫行為をさせないように、鉄の意志で見守ってください。強迫行為を手伝ったり、肩代わりすることは、病気に拍車をかけることになります。
 僕はこれからも、彼女や先生方と、根気強く治療を続けていきます。一緒に頑張りましょう。

(サイコ)強迫症の方をサポートする人も、病気の知識と強い意志が必要だと思います。そして、医師や心理士の先生に、相談できる環境が大切だと思います。
 彼を支えるには忍耐力が必要でした。それでも、彼が強迫行為をしないで済んだときは、本当に嬉しく、自然に賞賛の言葉が出ました。少しずつ良くなっていく喜びも一緒に経験できました。
 私たちは、今後も治療を続けます。挫けそうになったときは、私たちも一緒に頑張っていることを思い出してください。
 
(桐生)トオルさん、サイコさん、ありがとうございました。
 既に視聴者の皆様から、チャットにたくさん質問をいただいているので、このまま回答に移りたいと思います。
 私は、このまま司会を続けさせていただきます。赤城先生、カルロスさん、タクミさん、シオリさん、こちらにお掛けください。