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ピアノを拭く人 第4章 (9)

「髪型、すっきりしましたね」
 2人を呼びに廊下に出てきた桐生は、透が散髪をしてきたことにすぐに気付いた。患者を迎えにきた他の心理士も、何かしら患者に声を掛けている様子を目にし、彩子は改めてこのシステムに好感を抱いた。
「ええ、ずっと、鬱陶しいと思っていたので。先生も、髪を切りましたね」
「そうなんです。ショートだと、すぐに襟足が気になるんですよ」
 透は桐生と自然に雑談をしていた。透がロボットのように緊張していた初回から立ち合っていた彩子は、リラックスした姿を見て心が温かくなった。

 カウンセリング室に入った彩子は、モネの睡蓮に迎えられ、馴染みの場所に来た安堵を覚えた。
「今日は、診察も受けたんですね」
 桐生がデスクトップの画面をスクロールし、電子カルテを参照しながら言った。
「はい、今日はめずらしく予約が同じ日に取れました」
 さりげなさを装う透に、彩子は「よく言うよ」と胸のなかでぼやいた。
 

 桐生は、透が提出した表に目を移した。
「散髪の他に、ラッピングをお願いできたようですね。強迫行為も控えられて、いい傾向です。前回言っていた調理の際のビニール手袋とマスクは……」
 透は少し口ごもってから、釈明するように話しだした。
「他の飲食店に食事に行き、繁華街を歩いて店を観察してみたのですが、確かに自分はやりすぎだと思いました。なので、手袋とマスクは1枚、声は小さめを心掛けています。ただ、調理中に体のどこかが痒くなって掻いたりすると、手袋をしたまま手を洗うだけでは十分ではない気がして、新しい手袋をおろしてしまい、マスターに使いすぎだと怒られました。コロナ禍ですし、いつも以上に気を付けなくてはならないと思ってしまうんです。申し訳ございません……」
 桐生は穏やかな声で畳みかけた。
「今回は、散髪ができたじゃないですか。他人と長く接し、何かをしてもらうのは、吉井さんにとって大きな山だったと思います。よく頑張りました。手袋の件は、引き続き課題にしましょう。強迫はしつこい病気ですからね」
 彩子は、できたことを褒める桐生の姿勢が患者のやる気を引き出し、しつこい症状と戦うエネルギーになるのだろうと思った。すぐに声を荒らげてしまう自分は、気を付けなくてはと胸に刻んだ。

「さて、次の課題は何を加えますか?」
 桐生が2人を順番に見ながら尋ねた。
「僕、電話が苦手で、店で避けてしまうんです。以前、相手と話すタイミングが重なってしまったこと、取り次いでくれた方に御礼を言えなかったことが気になり、対象の人につながるまで何度もかけ直して伝えたり、別の要件を見つけてかけ直したり、ファックスを送って感謝や謝罪を伝えてしまったことがあります。また、そうなってしまうのが怖いんです」
「なるほど。では、電話で失敗があっても、かけ直す、ファックスを送るなどの罪滅ぼし儀式なしを課題にしましょう。もう1つ2つ、課題がほしいですね」
「はい。実は宅急便を受け取るのが怖いんです……」
「どんなことが怖いのですか?」
「以前、配達員さんに、感謝や謝罪を十分に伝えられず、気になって営業所にファックスを送信してしまったことがあるんです。気になることが出てきたら、広げてしまえばいいのですが、すぐに何度もできる買い物と違い、宅急便を何度も受け取る機会は作りにくいじゃないですか。広げることができないと思うと、余計に怖くなってしまいます。それに、以前は、お礼とお詫びをきちんと言えるか、受け取り証明の印鑑を真っ直ぐ押せるかが気になったのですが、コロナ禍で、マスクをして出なくてはいけない、アルコール消毒した手で出なければいけないなど、気になることが余計に増えてしまって……」
「確かにハードルが高いですね。今は宅急便を使っていないのですか?」
「ポストに投函してもらえるもの、置き配をお願いできるものだけにしています」
「では、何か直接受け取るものを注文して、シンプルに受け取ってみましょうよ」
「はい。頑張ってみます……」

「他に、できなくて、生活が不自由になっていることはありませんか?」
 彩子は、今まで気づかなかった症状が隠れていたことに驚き、息を詰めて透の答えを待った。
 ためらい気味の透を見て、桐生が言った。
「言ってしまうとやらなくてはいけないので、隠す患者さんは多いんですよ。でも、吉井さんは言ってくれるので助かります」
 透は褒められて気を良くしたのか、ぼそぼそと話し出した。
「あの、実は、コンサートのチケットをコンビニで受けとるのが怖いです。印刷して封筒に入れてもらう手間があるし、受け取りのサインをするとき、店員さんにペン先を向けないかが気になって……。御礼や手数をかけることの御詫びを十分に言えるかも気になります」
「バーコードをスキャンしてもらって、チケットを印刷してもらう制度ですね。吉井さんは音楽に関わっていますから、コンサートには行きたいですよね。コロナ禍で、出歩くことは推奨されませんが、頑張ってチケットを引き取ってみませんか? ありがとうございますは最後に1回、お手数をお掛けしてすみませんは言わないなど、儀式を崩してみることもお勧めします」
「思い切って挑戦してみます」

「水沢さん、他に気になったことはありますか?」
 彩子は透の肘をつつき、赤城と話したことを相談しようかと小声で尋ねた。頷いた透を見て、彩子は切り出した。
「あの、先程の診察で、赤城先生と話したのですが……」
「はい、診察で話したことですね……」
 桐生は電子カルテをスクロールし始めた。
「ああ、失礼なことをするエクスポージャーを続けると、以前の傍若無人な自分に戻ってしまわないかと……。赤城先生の答えは、いまは思い切り傍若無人になる勢いで、エクスポージャーを続けることを推奨ですね」
 透と彩子は頷いた。

「私もそれでいいと思いますよ。無駄に御礼と御詫びを言わず、本当にお世話になったときや迷惑を掛けたときに、ありがとうございます、すみませんと言う少しぶっきらぼうな人になる姿勢でいきましょうよ」

「でも、言っておかないと気になってしまうんです。後で思い返して、あの状況では、普通の人でも、丁寧に謝ったんじゃないか、僕はなんて失礼なことをしたのかなどと、悶々としてしまうんです。そうじゃない、あれで十分だったのだと納得するために、敬語の使い方やビジネスマナーなどをネットで調べたり、彼女や店のマスターに電話して、大丈夫だと安心するまで問答を繰り返したくなります」

「こんなときは御礼や御詫びを伝える、こんなときは言わないという基準をつくったほうがいいのでしょうか?」
 彩子は尋ねた。

「それでもいいのですが、吉井さんは、もし基準を逸脱することをしたとわかったら、それが気になって苦しみませんか?」
「確かにそうかもしれません……」
「普通の人なら、ああ失敗したなと少し後悔して忘れてしまうのですが、強迫の方は、そうはいきませんよね。やってしまったぞわぞわ感を味わってみるのもエクスポージャーですが……」

「やはり、先生方がおっしゃるように、今は失礼なことをするエクスポージャーを続けるほうが良さそうですね」
 彩子は、回復への道をたどっている透が、設けた基準を逸脱して取り乱し、自信をなくしてしまうのは逆効果だと思った。

「そうですね。電話、宅急便受け取り、チケット受け取りなど、課題がたくさん出てきたので、次回までに、それに取り組んでみましょう。買い物のときのように、吉井さんが理想とするやり方を敢えて崩して挑戦してみてください」
 桐生はいつものように表を印刷した用紙を透に渡し、カウンセリングを終えた。

 

 2人を部屋の外まで送った桐生は、思い出したように尋ねた。
「そういえば、吉井さんは、Zoomセミナーでコロナの対談に参加しないのですよね?」
「あ、ええ。あまり人数が増えても、時間が延びてしまうと思いまして。僕は後半で、先生と彼女と話しますし」
「そうですか。さっきの手袋とマスク、宅急便の話のように、加害恐怖の吉井さんは、コロナで神経質になり、エクスポージャーも制限されることがありますよね……。それも話してほしいのですが……」

 桐生は少し考えた後で言い継いだ。「では、後半では、司会の私がさわりとして、少しコロナのことに話をふりましょうか?」
「それでお願いします。すみません、ありがとうございます」



 病院を出て、ファミリーレストランで夕食を済ませた後、透が運転を交代すると言い出した。
「いいけど、何で?」
「連れていきたい場所があるんだ」
 透は持ってきたパバロッティのCDを流し、アクセルを踏み込んだ。

「ところで、今年はミュージカルの『マリー・アントワネット』と『モーツァルト!』やるらしいな。見に行くか?」
「大丈夫? 都内は緊急事態宣言が出てるし、人が多い場所だけど……。人にぶつかったとか、コロナを移したかもしれないとか、加害恐怖出るんじゃない?」
「注意すれば大丈夫だろう。ずっと、彩子とクラシックのコンサートやミュージカルに行きたかったんだ。コンビニでチケットを引き取る課題もあるし」
「そうだったね。一緒に行けるの嬉しいな! 昨年は、いろいろな作品がコロナで中止になったけど、今年は幕開けするといいね」
「ああ、そう願いたい。そういえば、うちの店はフェルセン伯爵の名前もらってるくらいだから、それに因むメニューがあってもいいと思わないか?」
「私もそう思ってた。『マリー&アクセル 禁断の恋』っていうデザートなんてどう?」
「ルイ16世の立場はどうなるんだよ? 俺は彼と気が合いそうだ」
「意外。透さんは、アクセル推しだと思ったけど」
「わかってないな。俺は不器用なほうの味方だ」

 透の車は、市街地を離れ、車通りの少ない道を、スピードを上げて駆け抜ける。この街で生まれ育ち、仕事で車を乗り回している彩子も走ったことのない道だった。
「母親が亡くなるまで俺が住んでいた家は、ここを左に曲がった奥だったんだ。一番近い隣家まで、歩いて10分もかかるし、空き家ばかりの過疎地だから、いくらピアノを弾いても、歌っても、近所迷惑にならなかった。今は、売ってしまったけどな」
「そうなんだ……。車が運転できない頃は、街に出てくるの大変だったでしょう。いつか、明るい時に、外からそのお家を見てみたいな。連れてきてくれる?」
 透は勿論と肯き、人気のないくねくねした山道を器用にのぼっていった。

「ここから、少し歩くぞ」
 透は暗い道端に車を止め、マフラーと手袋をつけ、懐中電灯を持った。
 車をおりた彩子は、耳がちぎれそうな寒さに、頭痛が誘発されそうになった。肺を洗われるような澄んだ空気に、白い息が流れていく。透の持っている懐中電灯の光が揺れ、行く先を丸く照らす。
 透の手を手袋ごしに握ると、強く握り返された。そのまま、手をつないで歩いた。満ちていく月が、煌々と輝き、頭上のオリオン座が迫ってくるようだった。市街では感じられないむき出しの自然の力強さにふれ、この辺りで育った透の感性が豊かになった理由がわかる気がした。


 透に導かれ、大木が鬱蒼と茂る山道を登った。吸い込まれそうな暗闇のなか、懐中電灯の明かりと、時折差し出される透の手の温もりが頼りだった。最初は転ばないようについていくのに必死だったが、目が慣れてくると、何年ぶりかの山登りを楽しむ余裕さえ出てきた。

 額に汗が滲みだしたころ、透が足を止めた。いつの間にか、登りきっていたらしい。懐中電灯を消した彼が、黙って空を指した。

 荒い息を整えながら見上げると、思わず息を飲んだ。吸い込まれそうな漆黒の闇が広がり、星月が厳然とした光を放っている。清澄な空気と、すべての音の存在を許さぬ闇の深さに彩子は身震いした。闇に飲み込まれそうな恐ろしさに、透の手を握ったが、強く握り返されても震えが止まらない。
「すごいね……」背中の汗が引き始めた悪寒と怯えのせいで声まで震えた。

 透がつないだ手に力をこめ、低い声で言った。
「じいさん、ばあさんが死んだときも、母が死んだときも、ここに来て星を見ていた……」

 彩子は胸が潰れそうになった。心細さに押し潰されそうになりながら、透が1人でここに立つ姿を思うと鼻の奥がつんとした。彼はこの恐いほど静謐な空間に身を置くことで、敢えて自分を孤独のどん底まで突き落とし、這い上がる気力を得ていたのではないか。


 彩子は透の背中に勢いよくしがみつき、悲鳴のように訴えた。
「お願いだから、もう、1人でここに来ないで! これからは、私が傍にいるから!」
「うん」透が彩子の手に自分の手を重ね、子供のような声で応えた。
 透は彩子に向き直ると、彩子の目尻に滲んだ涙を指で拭った。


 もしかしたら透は、1人でここにいたのではないのかもしれないという思いが不意に胸を過った。
「恋人とここに来たことはあるの?」
「ないよ。ここは俺だけの秘密の場所だった。連れて来たのは彩子が初めてだ」
 彼の力強い声が、清澄な空気を切り裂くように響いた。
「本当に? 嬉しい……」
 それが真実ではなかったとしても、いまこの瞬間、彼がそう答えてくれたことが嬉しかった。


 星を眺めていた彩子は、首にひんやりとしたものが触れたのに気づいた。
「何!?」
 驚いて触れてみると、ペンダントが掛けられていた。
「それ、このあいだ買って、ラッピングしてもらったんだ」
「ああ、さっき言ってた課題の……」
 暗闇の中、目を凝らし、触れてみると、2匹のイルカがルビーを抱いているデザインだった。イルカは1度相手を決めたら、一生添い遂げると聞いたことがある。透の決意が伝わり、頭の奥がしんと痺れた。


 透が背後から彩子をぎゅっと抱き締めた。
 遥か遠くに、彩子が生まれた街の灯りが揺れている。地上の全てを飲み込んでしまいそうな闇と静寂のなか、彩子はこの世に2人だけでいるような幸福感に飲み込まれた。透の腕のなかで、両親にもZoomセミナーを視聴してもらおうと決めた。