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ピアノを拭く人 第1章 (15)

 屋根を打つ雨音は、いつの間にか止んでいた。その分、時を刻む秒針の音が存在感を増している。


 透は、彩子のもどかしさの浮かぶ眼差しを受け止め、張りのある声で言った。
「申し訳ございません。僕のおかしな言動のせいで、水沢さんにそんな思いをさせてしまって……。こんな僕に、率直に向き合ってくださってありがとうございます」
 彩子は、気持ちが先走りすぎ、思慮を欠いた言葉が、透を追い込んだのではないかと懸念した。だが、彼の疲労で充血した瞳は、先程までは見られなかった力を帯びているように映る。

「いつも、僕が話してばかりでしたね……。よかったら、水沢さんのことを教えていただけませんか。お仕事とのことでも、趣味のことでも何でも話してください」
 透の真摯な眼差しを前に、彩子の胸にずっと巣食っていたもやもやが、言葉になってこぼれだす。
「私、試験監督の会社で、新卒で入社してから、10年働いてきたんです。本社で5年、故郷の事業所で5年。一通りの仕事をこなせるようになりました。試験監督の現場も、マネジメントの仕事も好きで、やりがいを感じていて、続けることに疑問を持っていませんでした。でも、この数か月で、30を過ぎても、自分には特別なものが何もないんだと思わされることが重なって……」
 彩子の脳裏に、弁護士のパートナーを選んだことを告げる大和の冷淡な眼差し、試験の仕事をバイトでもできる仕事と言った母の目元に刻まれた皺がちらつく。
「私の仕事は、たいていの人が問題なくこなせる仕事です。先日務めた試験会場のリーダーも、適性や経験は必要ですが、本来はアルバイトの方が担ってくれる仕事です」
 彩子は透の深い眼差しが自分に注がれていることに、どきまぎした。額に一筋落ちた髪に気づき、静かにかき上げる彼の指の動きが音楽的で美しく、目が離せなくなりそうで、机上のモロッコランプに視線を移して話を続けた。
「弁護士や薬剤師、看護師とか、資格が必要な仕事は、経験が評価されて、次の仕事につながりますよね。でも、私の仕事は、言い方は悪いですが、誰でもできる仕事です。もし辞めたとしたら、業界も狭いし、経験を次の仕事につなげられるかわかりません。それに、私、透さんのピアノや歌、羽生さんの作る美味しいお料理のように、その方しかできないものも持っていなくて……」
 遠くから救急車のサイレンが近づいてきて、闇に飲み込まれるように消えていった。彩子は、まとまりに欠ける話をどう収束させようかと悩んだ。愚痴めいたことが口をついてしまったが、透も関心のあるミュージカルの話をするべきだったと後悔する気持ちが頭をもたげてくる。

「試験の仕事って、具体的にはどんな仕事ですか? 僕にはあまり想像がつかないので、興味があります」
 透がやわらかい眼差しで、途切れた話を促してくれた。
「わかりやすいのは試験会場です。スタッフの一番の使命は、マニュアルに則って、受験者が能力を発揮できる環境を提供することです。現場のリーダーは、アルバイトのスタッフがマニュアル通り試験を進行できるよう監督します。まずは会場に届いた資材に不足がないか数えた後、スタッフにインストラクションを行い、会場設営に向かわせます。副リーダーを指揮して、設営がマニュアル通りにできたかチェックし、問題なければ受験者に入室していただきます。試験が滞りなく始まり、進行しているかを見守って、無事に終了したことを確認したら、副リーダーたちと戻ってきた答案や資材を数えます。答案がもれなく回収できたのを確認できたら、スタッフを解散します。リーダー業務を遂行しながら、次々飛んでくるスタッフからの質問に答えなくてはならないし、不測の事態に対応する柔軟性も要求されるので、終わると疲労困憊します。スタッフや受験者、本社からお叱りを受けて落ち込むこともありますが、やり遂げた充実感も大きくて、終わるたびに次の試験に向けてモチベーションが湧いてきました。しばらく、現場を離れていましたが、先日久しぶりにリーダーを務めて、やはり自分はこの仕事が好きだと思いました」
 音楽という創造的な世界に身を置いている透には、マニュアルに沿う仕事が味気ないものに聞こえたと思うと、熱く語った自分が恥ずかしくなった。同時に、自分が思った以上に、仕事に誇りを持っていることに気づかされた。

「僕にとっては、うらやましいことばかりですよ」
 透の声には賞賛とも嫉妬とも取れるような響きがあった。
「え?」
「僕は、水沢さんの言う、誰にでもできる仕事ができません」
「ええと、どういうことですか?」
「僕は手先が異常に不器用で、どんくさいんです。それに、一度に複数のことができません。僕が試験の仕事をしたら、早く正確に資材を数えられなくて、使い物にならないと思います。1つのことに集中するのが精一杯なので、様々な方向から質問を浴びせられたら、棒立ちになってしまいます。突発的なことに弱いので、何かあったら、パニックになるでしょう。こんなふうに要領が悪いせいで、今まで、いろいろな仕事をクビにされました。音楽教師として私立高校に務めたこともありますが、担任業務のような、事務処理能力と様々なことを同時並行する能力がなくて、辞めざるをえませんでした」
「でも、透さんは、ピアノも歌も素晴らしいじゃないですか。10年歌っていなくて、ろくに声が出ないし、伸びない私を気持ちよく歌わせてくださいました。今までで、一番歌いやすい伴奏でした。羽生さんから、透さんを試験の伴奏者に連れていきたいという声楽専攻の音大生がいると聞きました。フェルセンで、他の方の演奏も聴きましたが、透さんの演奏には店の隅々まで魅了する力がありました」
「そう言っていただけるのは、本当に嬉しいです。ありがとうございます。でも……」
 彩子は続きをためらう彼を促すように、上半身を前に傾けた。
「僕は音楽で食べていけるほど才能に恵まれませんでした。コンサートピアニストに憧れてピアノを習っていたのですが、人の十倍練習して、やっと追いつけるどんくさい子でした。音大受験を考えたとき、先生にピアノでは難しいと言われて、中学2年で声楽に変更しました。どうにか音大に受かりましたが、上には上がいて、歌で食べていく力がないことを思い知らされました。他の仕事を探さざるをえなかったのですが、不器用なせいでどの仕事もうまくいきませんでした。いまは、亡くなった母の実家が土地持ちで、アパートと駐車場からの収入があるので、フェルセンから頂く収入と合わせて、どうにか食べています。母子家庭なのに、散々金をかけてもらったにも関わらず、45にもなって、これです……」
 前の通りを大音量で音楽をかけて走る車が通り過ぎるのを待ち、透は畳みかけた。
「どんな仕事をしても続かない僕から見れば、同じ会社で10年も働ける水沢さんは立派です。仕事に誇りを持つべきだと思います。誰でもできる仕事とおっしゃいましたが、それができることは、とても幸せだと思います。僕にはないもので、正直うらやましいです」
「そんなふうに言っていただいたのは、初めてです。ありがとうございます。嬉しいです……」
 彩子は熱くなった目頭を見られまいと目を伏せた。
「試験会場で指揮を執る水沢さんの雄姿を見たいです。凛として、素敵でしょうね。僕がそこにいたら、憧れと尊敬、嫉妬を胸に、あなたを見ていると思います」
「それなら、うちの会社に登録してください。会場でお会いできるかもしれません」
「僕がそうしたら、取り返しのつかない失敗をして、あなたの仕事を増やしますよ」
 彩子も透も、体を揺らして笑った。
 彩子は透に気づかれないように、目頭に滲んだ涙を拭い、鼻をすすった。