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ピアノを拭く人 第2章(4)

 

 西の空には、まだ夕焼けの名残があるものの、夜の帳は街の輪郭をぼかし始めていた。
「透さん、疲れたでしょう。何か食べて帰ろうか。私、お腹ぺこぺこ」
 透の全身に、さっと緊張が走ったのがわかった。
 彩子は、彼が店員と接するのがストレスだということを思い出した。エクスポージャーとして、外食に挑戦するのも悪くないが、カウンセリングで疲弊した彼には酷だろう。
「スーパーで、お弁当買って、車の中で食べようか」
「うん。すまない……」
 透は、安堵と申し訳なさをないまぜにした表情を見せた。
「ううん。透さん、ぶつかりそうになったスタッフさんを探して謝らずに病院を出たし、桐生先生が私を呼びに行ったことに、お礼もお詫びも言わなかったね。すごく頑張ったね」
「してはいけないと決められると、免罪符をもらったような気がして、割とどうでもよくなる。むしろ、自分が不意にやってしまったことのほうが気になる」
「そう……。まあ、3つの課題のうち、1つは◎がつけられるね」

 

 夕暮れ時のスーパーは、値引きされはじめた総菜や弁当を求める客で賑わっている。大音量で流れるキャッチーなオリジナルソングが彩子の耳に障る。透は、人にぶつけないかとおびえながらも、買い物かごを持ってくれている。
 彩子と透は、店内を歩き回り、それぞれ半額シールの貼られた弁当と、温かい飲み物を選んだ。
「会計は私がするから、先に車に戻ってて。これ、車の鍵」
 彩子は透から買い物かごを受け取り、ソーシャルディスタンスの表示に従って、レジを待つ列の最後尾につこうとした。
「ちょっと、かごいいかな?」
 彩子は、彼がかごに財布でも入れていたのかと思ったが、弁当と飲み物以外は入っていない。
 透は彩子からかごを受け取ると、ウエットティッシュを取り出し、持ち手と縁を拭き始める。
「その儀式、やめようよ。使用済みのかごは、店員さんが消毒するから大丈夫だよ」
「この店は、していないかもしれない。拭かないと、後で気になって戻ってしまうんだ」
「そのままにするのがエクスポージャーだと思うけどな」
「これは、3つの課題に入ってないだろ」
 空腹の彩子は、これ以上、問答を続ける気力がなかった。かごを受け取って列に並び、人にぶつからないよう、できるだけ端を歩いて出口に向かう透の背中を見送った。


 エコバッグを下げて車に戻った彩子は、透が運転席に座っているのに驚き、急いで助手席にまわった。
「どうしたの?」
「せっかくだから、公園で食べよう。そこまで、俺が運転していいかな? 俺は薬の副作用の眠気が出ないから、問題ないだろう?」
「いいけど、この辺りにあるの?」
 透は肯いて、車を発進させた。
 彼の運転は慎重だが、慣れない車でも、びくびくしているようには見えない。
「加害恐怖の人って、人をひいていないか心配で、ドライブレコーダーを何度も確認するとか、怖くて運転できなくなるって本で読んだけど、大丈夫なの?」
「赤城先生にも聞かれた。俺は、自分のしたことが気になるタイプだから、人をひいたかもしれないとか、可能性のないことは気にならないんだ。強迫になってから、ガードレールに接近しすぎたときに擦らなかったかとか、可能性のあることが前より気になるようになった。もともと、不器用で運動神経が鈍いから、運転はあまり得意じゃないし」


 市街をぬけた透は、くねくねとした暗い山道を慎重に登っていく。高度が増すと、眼下に瞬く街の灯がちらちらと見え隠れする。彩子は、自己主張を強めたお腹の虫を止めようと、何度も息を止め、お腹に力を入れた。

 透は自動販売機が並ぶ駐車場に車を入れた。小さな展望台とレストハウスがある公園らしいが、既に灯りは消えている。駐車場も、展望台を囲む公園も、この時期なので、閑散としている。彩子は、新型コロナウイルス感染防止がなければ夜景を楽しむカップルでにぎわうのだろうかと思いを巡らせた。

 ベンチに2人で座り、買ってきた弁当を広げた。彩子は割り箸を割ると、いただきますもそこそこに、箸を動かし始めた。透も、ようやくリラックスできたのか、喉を鳴らしてペットボトルのお茶を飲み、美味しそうに弁当を平らげた。

 彩子は空になった2人の弁当パックをエコバッグに入れ、辺りを見回した。すっかり葉を落とし、骸骨の腕のような枝を広げた木々が、照明に照らされている。南の空には、オリオン座が横たわっている。ゆっくり星空を眺めるのは、何年振りだろうか。


「桐生先生、気持ちのいい人だったね。若いのにしっかりしてるし」
「うん」透はお茶の蓋を閉めながら頷いた。
「そういえば、赤城先生が、入院中にWAIS-Ⅳっていう神経発達症の検査をするって言ってた。俺が、人の話の途中で話し出してしまうこと、話すタイミングが被ることが多いのが気になるって言ったら、ADHD(注意欠如・多動症)の話になった。ADHDは、不注意、多動性、衝動性が目立つらしいけど、俺はそのすべてが当てはまる。特に衝動性が強い。以前から、ネットや本で調べて、そうだと思っていたから、この機会に検査してもらえてラッキーだ。1時間半くらいかかる検査らしいから、集中力持つかな」
「赤城先生が検査してくれるの?」
「いや、神経発達症が専門の心理士がいるらしい」
「そう。私、本社で神経発達症の受験者に対応するための試験官マニュアルをつくったことがあるから、ADHDとかASD(自閉スペクトラム、アスペルガー症候群)、LD(学習障害)の勉強はかなりしたよ。ASDで聴覚過敏のある受験者が、特別措置で別室受験したとき、立ち合わせていただいたこともあるな。クライアントと一緒に、LDでディスレクシア(読字障害)のある受験者に、不自由なく受験していただけるように、試験官マニュアルを作ったこともよく覚えてる。当事者の方にも協力してもらって、何度も作り直した。やりがいのある仕事だったな」
「それなら俺より詳しいかもな……。何でもすごいんだな」

 

 透は持っていたペットボトルを脇に置き、彩子に向き直った。
「今日は本当にありがとう。助けてもらうばかりで、俺は何も返せなくて、本当に申し訳ない。面倒なことに巻き込んでしまって、何てお詫びしていいかわからない」
 彩子は他人行儀な言葉に、彼との距離が縮まっていないことを思い知らされ、無性に悲しくなった。
「私は透さんから、いろいろもらってるよ。失恋から立ち直れたのも、仕事に誇りを持って取り組めているのも透さんのおかげ。ありがとうは私のセリフだよ。お願いだから、そういうのはもうやめてよ」
 透は少し感情的になった彩子を見据えた。
「こんなダメ人間の俺に、どうして親切に寄り添ってくれるんだ?」

 彩子はベンチから立ち上がり、透の正面にかがんだ。
「女が男の人のそばにいたい理由……、わかるでしょ?」
 透は驚いたように眼を見開き、眉間をかすかに曇らせた。
「何も言わなくていいから。私の気持ちなんか、どんどん利用して。いまは強迫を治すことだけ考えて」
 彩子は言った後で、急に惨めさに襲われ、鼻の奥がつんとし、瞼が熱くなった。涙を見られたくなかった。
「コーヒー買ってくるね」
 透が立ち上がろうとする彩子の両腕をがっしりと掴んだ。

 透はベンチから立ち上がり、彩子の両手を取って立たせた。
「彩子が初めてフェルセンに来たとき、ハイヒールを履いたきれいな足を見て、どきどきした。背が低い女がハイヒールを履くとそれなりにきれいだ。でも、背が高い女が脚をもっときれいに見せるためにハイヒールを履いているのは、たまらなく魅力的だ」
「あのときの私のこと、覚えてたの?」
 透は肯き、再び彩子の両手を取った。
「そんな彩子が、どんどん俺のほうに来てくれることが、めちゃくちゃ嬉しかった。あの夜、キスを返したのも彩子だからだ」
 透は彩子の潤んだ瞳を優しく見つめ、包み込むような声で言った。
「安心しろよ。ちゃんと好きだから」
 彩子は透の胸に飛び込み、声を上げて泣いた。泣きすぎて、涙でコンタクトが流れていった。
「いつもは、きりっとしてるのに、案外泣き虫なんだな」
 透は彩子の頭を撫で、しっとりした黒髪に顔を埋めた。2人の身長差は、抱き合うのにぴったりだった。