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澪標 1


 3年前のその日は、休日出勤だった。

 私は試験運営を請け負う会社で営業部に所属していた。試験が目白押しの2-3月は、他の部が試験運営部のサポートに動員され、休日出勤するのはめずらしくなかった。

 18時を回り、各試験会場のリーダーから、終了報告のメールや電話が相次いでいた。本社のフロアは、安堵の空気と、トラブルが生じた会場への対応に追われる緊迫感が入り混じっていた。運営部の竹内くんは受話器を片手に、受験者から試験官へのクレームが入った会場のリーダーに、頭をかきむしりながら対応策を指示していた。

 運営部の課長から、労いの言葉と共に、退勤許可が下りた頃だった。ジャケットのポケットの中で、Lineの通知音が鳴った。直属上司の営業部 志津しづ課長から、紹介したい人がいるので飲みに合流してほしいとのことだった。

 体育会系で熊さん体型、些細なことに固執しない志津課長とは馬が合った。家族思いの彼がおかしな気を起こす心配は微塵もなく、同期の竹内くんと3人でよく大衆居酒屋にくりだしていた。親友の彩子が地元の事業所に移ってしまってから、アフターファイブを持て余していた私は、彼らとの時間でそれを埋めることができた。

 いつもなら、嬉々として誘いを受けた。だが、貴重な休日を奪われたその日は、正直面倒だと思った。私の心は、一刻も早く帰宅して、ウィンターグリーンの精油をたき、温かい夕食と黒豆茶を手に、Netflixで映画を見ることに飛んでいた。休日出勤を知っていて呼び出す彼のデリカシーのなさを呪う思いさえあった。

 彼から指定された店は、何駅か先にある3つ星ホテルの最上階にあるバーだった。いつもの大衆居酒屋ではないこともハードルを上げた。そんな私の気持ちを察してか、どうしても紹介したい仕事関係の人物が待っているので、遅くなっても来てほしいと追加のLineが入り、溜息をついて覚悟を決めた。


 ホテルに着き、パウダールームで軽く化粧を直してから、エルバヴェールのハンドクリームを手に馴染ませた。馴染んだ香りをまとうと、少しずつ気持ちが上がっていった。ビル風で乱された髪を直し、エレベーターで最上階に向かった。

 会話を邪魔しない音量で流れていたケルティック・ウーマンのバラードが、気持ちをほぐしてくれた。入口に立ち、店内を見回すと、窓際のカウンター席に掛けていた志津課長がさっと手をあげた。私は軽く会釈した。


 志津課長の隣に座っていたあなたが立ち上がり、こちらを向いたとき、私は時が止まったように歩みを止めた。体中の血が騒ぎ出し、全身がかっと熱を帯びた。私の瞳は、都心の夜景のパノラマを背に立つあなたに釘付けになった。私を案内しようと声を掛けた店員は、困惑して去っていった。

 30年生きてきて、一目惚れなどしたことはなく、そんなものが存在することを信じていなかった。だが、あなたは一瞬で私の心を鷲掴みにした。

 長身で恰幅のいい志津課長と並ぶと、あなたは小柄だった。それでも、ものさしを入れたように伸びた背筋、整いすぎた目鼻立ち、凛とした立ち姿は、強烈な存在感を放っていた。上質のジャケットとスラックスは、オーダーメイドであることが一目瞭然なほどあなたの身体に合っていた。脇に置かれたバーバリーの鞄も、手首にのぞいた腕時計も、あなたに似つかわしくないものなど何一つなかった。

 あなたを形成する全要素が、確固とした意志をもって生きてきたことを主張していた。筋が通らないことは受け入れないような頑なさをまとっていたあなたは、芯が通った男性を好む私を一瞬で虜にした。

 あなたも熱を帯びた瞳で私を見ていた。視線が絡むと、私の頬は点火されたように熱くなった。その瞬間を境に、モノクロ写真のように流れていた私の世界は、豊かな色彩を帯びて動き出した。

「どうした、早くこっちに来て座われよ」

 立ち尽くす私を訝しむ志津課長の声で、我に返った。私は、紅潮した頬を隠すように俯き、窓際のカウンター席に向かった。硬直していた脚が絡み、転びそうになるのを気力で立て直した。

 志津課長は、「悪かったな。休日出勤の後に」と私を労うと、お洒落なバーには似つかわしくない野太い声で切り出した。

「彼女が営業部主任の鈴木みお。春から君の片腕になってくれる。鈴木、彼は来週から営業部で大学入試担当の課長代理に就任する海宝航かいほうこう。俺の大学の同級生で弓道部仲間」

 志津課長と同期なら、41歳だが、あの日のあなたはもっと若く見えた。あなたは、心なしか上ずった声で「はじめまして、海宝です。今日は、ご足労いただきましてありがとうございました。今後よろしくお願いいたします」と言ってから、深々と頭を下げた。明らかに年下だった私には、丁寧すぎるほどのお辞儀だった。

「こちらこそ、宜しくお願いいたします」と恐縮する私に、「しばらくは、鈴木さんに頼りっぱなしだと思いますが、どうか宜しくお願いします」と軽く頭を下げた。盗み見たあなたの左手の薬指に、指輪がないことを確認し、私の心は浮きたった。

 挨拶が済んで席につくと、あなたがウェイターを呼んで、メニューを用意してくれた。志津課長を間に挟んで座ったあなたと私は、ほぼ同時に「モスコミュール」とオーダーし、思わず顔を見合わせた。志津課長は「初っ端から気が合って結構」と豪快に笑い、何杯目かわからないウイスキーの水割りを頼んだ。

 乾杯を終えると、志津課長は、大学院の修士課程を出たあなたが広告代理店で勤務した後、大阪の私立大学に転職し、広報や入試担当職員を長く務めていたことを呂律の怪しい口調で語った。今回、私達の会社が、大学入試の試験監督代行に参入を決めたのを受け、事情通のあなたを推薦したという。

 豪放磊落ごうほうらいらくな志津課長と、頑なで神経質にも見えるあなたが、なぜうまくいくのかと思った。だが、話が進むうち、あなたの誠実さが、彼の心を深く捉えていることが話の端々から伝わってきた。

 私は志津課長の話に耳を傾けながらも、彼を挟んだ位置に座っているあなたに全身全霊を傾けていた。あなたの言葉、身体の動き、息遣いから鼓動、香りまで、すべてを感じたくて五感を研ぎ澄ましていた。

 1時間ほど経った頃、志津課長のiPhoneが鳴った。彼が電話に出るために席を外すと、私たちは2人だけになった。

 志津課長が抜けると、途端に初対面の気まずい空気が流れ、互いに沈黙を埋めようと模索した。あなたは、営業部のことをいくつか質問した。私はスマートに答えようとしたが、緊張のために舌がうまく回らなかった。あなたが質問をしては、私が言葉少なに答え、再び落ちてくる沈黙を埋めようと、あなたが質問する流れを繰り返した。志津課長は、私を仕事が丁寧なのに早くて、ノリもいい奴と持ち上げてくれたのに、それを証明できない自分が悔しかった。

 志津課長の電話は思った以上に長くかかった。会話のネタが切れ、2人とも気まずい沈黙を持て余し始めた。私は課長が戻ってこないかと、助けを求めるように店の入り口に目を遣った。

 化粧室に行こうかとポーチに手を伸ばしかけたとき、あなたが店内に流れる音楽に耳を傾けながら言った。 

「この歌手、好きなんです。マイケル・ブーブレといって、正統派の甘い声が魅力です。彼の声と表現は、僕の胸に直球で訴えてくるんです」

 私は目を見開いた。「私も大ファンです! 彼のアルバムは、すべて持っています。3年前の来日公演も行きました」

 あなたは驚いて、私のほうに少し身を乗り出した。「本当ですか? 一番好きな曲は何ですか?」

「そうですね……。1曲を選ぶのは難しいですが、敢えて選ぶならSave the last dance for meです。I will never, never let you goの辺りは、蕩けそうになります」

「わかります! 彼のセクシーな声は、男の僕でも惹かれるものがあります。あの曲は、彼の魅力が生かされた曲の1つだと思います」

 私は、身を乗り出したあなたから、さわやかな香りがほんのりと漂ったのを見逃さず、会話が途切れたタイミングで尋ねた。

「あの、香水をつけていますか?」

「すみません、不愉快でしたか? 自分だけに香る程度につけているのですが、気づかれたのは初めてです。さっき、トイレでつけ直したせいかな……」

「いえ、とてもいい香りでした。私、昔から嗅覚が敏感で、香りを楽しむのが好きなんです。私も自分だけがわかる程度につけます。香水の匂いは、嫌いな人には拷問だと知っていますから、職場ではつけません。つけるのは、もっぱら自分の部屋です」

「同感です。僕は苦手な香りを漂わせる人が長時間近くにいると、頭が痛くなるんです。だから、僕が会社につけていくのは匂いの弱いフレグランスミストか練香水で、それも自分だけにわかる程度です。香水をつけるのはプライベートの外出だけです」

「ところで、何という香水をつけているんですか?」

「アラン・ドロン サムライのアクアクルーズです。以前は、アクアマリンを愛用していたのですが、これが出たとき即座に乗り換えました。気分が落ちているときも、これをつけると浮上できます」

「すごく、わかります! 私も職場で、好きな香りのハンドクリームを塗って、気持ちを上げることがあります」

 共通点が次々と見つかったことで、2人の舌はすっかり滑らかになっていた。

 しばらくして戻ってきた志津課長は、話に花を咲かせる私たちを見て、いいチームができそうだと頻りに頷いていた。


※ ロクシタンのエルバヴェールが発売されたのは、実際は2019年です。澪に似合う香水なので、発売より1年早い時期ですが、採用させていただきました。