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ピアノを拭く人 第4章 (8)

 気温は低いが風はなく、陽が注ぎ、寒凪という言葉が似つかわしい日だった。彩子は、フェルセンで透を乗せるために、駐車場に車を入れた。診察室でお腹が鳴らないよう、おにぎりをぱくつきながら運転してきたので、いつもより心に余裕が生まれていた。


 昨夜、何を着るかと散々悩んだ。フェミニンを強調する服装では、華のある赤城の前では見劣りしそうだった。考えた末、明るい紺色のパンツスーツに、白いボウタイブラウスを合わせることにした。靴は、綺麗だと言われる脚が強調でき、かつ歩きやすい5センチヒールに決めた。香水は控え、ピンクグレープフルーツのボディミストをほんのり香らせ、髪は耳の上辺りで1つにまとめた。


「髪、切った……?」
 彩子は助手席に乗り込んできた透に目を奪われた。いつもオールバックにしていた髪が短くなり、端正な眉目がいつになく際立っている。
「桐生先生の課題で◎をつけるために、散髪に行った。理容師さんとの会話の途中で話すタイミングが重なったこと、カット後に御礼をいったとき、マスクをかけるのを忘れていたことに気づいて、ぞわっとしたけど謝らなかった。気になったけど店に戻らなかった」
「すごい、◎だね! 似合うよ、10歳は若返った」
「気になって気持ち悪いから、その後、ラッピングをお願いする買い物にも行った」
「気になることを広げてみたんだね。何買ったの?」
「内緒。そうだ、昨夜noteのアカウントをつくって、You Tubeで俺たちが配信している内容を文字に起こしてアップしたんだ。そこで、Zoomセミナーのことも宣伝しといた。視聴希望者のために、連絡用のフリーメールのアドレスを取って、書いておいた。そこに連絡をくれた人に、当日URLを送ることにした」
「いいね。でも、You Tubeの再生回数、伸びがいまいちなんだよね……」
「症状を説明する4人の動画では、俺の動画の再生回数がダントツだ。まあ、セミナーまでには、まだ1ヶ月あるし、先生方にも宣伝してもらおう」
「そうだね。4人が入院でのERPについて話す動画は思ったより再生回数伸びてるね。やっぱり、投薬だけでは良くならなくて、ERPを受けたい人が多いのかな」
「だろうな、受けられる医療機関が少ないからな」



 赤城の診察室前のモニターに、透の受付番号が表示された。
 緊張していた彩子は、深呼吸をしてから、透に続いて診察室に入った。
「あら、やっと一緒に来てくださったんですね。お忙しいなか、ありがとうございます」
 赤城は二重瞼の瞳を見開き、良く通る声で2人を迎えた。
 彩子は透を軽くにらんでから、はりのある声で言った。
「お伺いするのが遅くなり、申し訳ございません。改めて、水沢と申します。宜しくお願いいたします」
「こちらこそ、お話できるのを楽しみにしていました。どうぞ、おかけになって」

 彩子は赤城が透に薬の効果を確認しているあいだ、壁に掛けられた絵を眺めていた。窓辺に注ぐやわらかい陽光を浴び、真っ白な猫が目を細めている。窓の外には、陽の光を浴びた川に浮かぶボート、水面に映る街並み、岸辺に咲き乱れる花々が描かれている。目まぐるしい業務の間にできた空白に、ふと眺めることで心を解放できそうな優しい色彩だった。彩子は、赤城がこの絵を選んだ背景に、彼女の仕事の厳しさと患者への温かい眼差しがある気がし、何も尋ねなくても彼女が理解できる気がした。


「水沢さんでしたよね?」
 赤城に小気味のよい声で呼び掛けられ、彩子は我に返った。
「あ、はい」
「吉井さんが、あなたの存在に、どれだけ助けられているかは、いつも聞いていますよ」
「いえ、私も戸惑ってばかりで……」
 赤城の顔を正面から見ると、目元には透と同世代の年齢が目立つが、華のある顔立ちがそれを相殺している。こんな可愛らしい女性が、あれほど大胆な入院治療を考えたと思うと、そのギャップがまた魅力的に思えた。

「彼が初めて診察に来たとき、今の状態をどうにかしたい思いはあっても、神経発達症のために思うようにいかない人生を歩んできたせいか、治って何がしたいかという希望を持てなかったんです。ERPは、それがないと挫折してしまう苦しい治療なので、何とかそれを引き出そうとしました」
 赤城は彩子に視線を据えた。
「彼と話しているうち、病気になってから知り合った女性からもらった幸せを返したいとぼそりと言ったんです。病気がひどくなり、周囲の人が気味悪がって離れていく中、彼女は近づいてきてくれて、その存在に救われた。彼女ときちんと付き合いたいと」
 彩子は思わず俯いた。
「先生、勘弁してくださいよ……。患者のプライバシー権の侵害ですよ」
 透が顔を赤らめて抗議した。
「いつも、散々のろけておいて、今更何を言っているの。入院中も、私たちの前でのろけてたじゃない。ラブラブのメールもたくさん送ってたって、仲間が言ってたわよ」

 赤城は透をたしなめてから、彩子に向き直った。
「吉井さんは、あなたがいたから頑張れたんですよ」
「そんな、先生方がサポートしてくださらなければ、どうなっていたかわかりません」
「何か困ったことはありませんか?」
「今のところ大丈夫です。ありがとうございます」
「何かあれば、遠慮なく相談してくださいね」

 赤城は透に向き直った。
「吉井さん、Zoomセミナーの件、メール見ました。コロナの流行で症状が悪化して、通院してくれなくなって、心配な強迫の患者さんが何人かいるので、電話して伝えてみますね。You Tube動画も紹介しておきます」
「ありがとうございます。お手数をお掛けしてしまい、大変申し訳ございません」
 透に続き、彩子も頭を下げた。
「そうそう、昔、東京で診た確認強迫の患者さんが、一昨日10年ぶりくらいに会いに来てくれたんだけど、あなたたちが入院治療について話すYou Tube動画を見たらしいわよ。自分もそういう治療が受けたかったと、あなたたちが私の患者さんだって知らずに言ったの。強迫で苦しんでいる方は、病名をキーワードにいろいろ検索しているのでしょうね」
「本当ですか? 配信したかいがあったな」
 透が彩子を振り返り、目を輝かせた。
「良くなった患者さんの声は説得力がありますね。回復して、前向きになって、苦しんでいる患者さんを励まそうとしているあなた方を見ると、この仕事をしていて良かったと思うわ」
 彩子は、赤城を見つめる透の目が光を放っているのを視線の端で捉え、胸をちくりと刺された。

「吉井さん、他に心配なことはありますか?」
 透は時間を気にしながらも、意を決したように切り出した。
「あの、僕は神経発達症のせいで、不器用で、自分のことで精一杯で、周囲を見る余裕がない期間が長かったんです。僕自身も、人に傷つけられることが多かったのですが、人を傷つけることもかなりありました。数年前から、人に失礼なことをしたこと、親切にしてもらったのにお礼を言えなかったことが気になりだして、いつの間にか、加害恐怖になっていました。治療を初めてからは、強迫を治すことを第1に、失礼なことをするエクスポージャーを続けてきたのですが……、良くなるにつれて、以前の傍若無人な自分に戻ってしまうようで、このままでいいのかと迷うときがあるんです……」
「なるほど。そういうことを考える余裕ができたのは、治療が上手くいっているサインです。今は、思いっきり傍若無人になる勢いでエクスポージャーを続けてください」
「え?」
 ぽかんとしている透に、赤城は言い継いだ。
「もう少し落ち着いたら、自分で線引きができるようになるでしょう。桐生先生のカウンセリングで、どのあたりを目標にするか、どんな人になりたいかを相談してみてもいいでしょう。いま、これは失礼すぎるかと考え始めると、強迫行為を正当化し始めて、また同じ道をたどる可能性があるわよ」
「なるほど、それでは本末転倒ですね。わかりました。ありがとうございます」
 透の瞳は、霧が晴れたように澄み、まぶしそうに赤城を見ていた。
 彩子が初めて耳にした透の迷いだった。彩子は嫉妬を感じながらも、彼の治療にまだ赤城が必要であることを痛感させられた。


 診察室を出た彩子は、終始赤城のペースに乗せられていたなと思った。だが、まとわりついていた気負いはいつの間にかなくなっていた。