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[短編小説] かもめと富士山  前編

 カズヤはタクシーの運転手が案内してくれた「みかんの花咲く丘」の歌碑をデジタルカメラに収めた。サングラスを外すと、木の間から宇佐美うさみの町が見え、その向こうには相模灘が広がっている。海は冬の陽を受けてきらきら輝いている。ちらちらと見え隠れするみかんの木に、たわわに実った実は、収穫される日を待ちわびているように映った。

 宇佐美海水浴場でタクシーをおりると、サーフィンから上がったらしい茶髪の若者の姿がちらほら見られた。若者言葉を連発し、屈託なく笑う彼らを横目に、カズヤは世代や国籍が違うこと以上の疎外感を覚えた。

 砂浜に続く石段に腰掛けたカズヤの頭上を、かもめが大きく旋回していく。青空と蒼海そうかいを背に漂う白いかもめは、あの頃ほど孤独には見えない。日系アメリカ人として、アメリカに居場所を築き、微力ながら日米関係を強化する役割を果たせたからだろうか。

 

 半世紀以上、この地を訪れていなかった。

 先月、孫のジョージが日本産のみかんを買ってきてくれた。それを指でむくと、皮からしゅっと弾けた分子が飛び散り、鼻腔に飛び込んできた。親しんだカリフォルニアオレンジの香りとは違うが、甘酸っぱく懐かしい香りだった。それが眠っていた記憶を喚起したのか、しばらく忘れていた思い出が数珠つなぎによみがえってきた。体が動くうちに、あの場所を訪ねてみようという衝動に駆りたてられ、気がついたら日本行きの航空券を予約していた。

 あの女、富士子ふじこが生きていたら、遠くからでも姿を見たい。彼女の兄 佳史よしふみの墓参りもしたい。


 カズヤは、石段に腰かけて海を眺めながら、日本からアメリカのカリフォルニア州に移民した両親のあいだに生まれた自分の生い立ちに思いを馳せた。

 私は1918年の生まれだ。当時のアメリカ西海岸では、日本人差別が醜かった。優秀な大学を卒業しても能力に見合う職に就けず、農業や店舗などの家業を手伝う二世が大半だった。
 洋服の仕立屋を営んでいた両親は、長男の私が日本の大学を卒業し、日本で良い仕事に就くか、日系企業のアメリカ支社に雇われることを期待していた。アメリカの日系人社会で生きていくにしても、しっかりした日本語は必要だった。父は愛媛の松山にいる叔父に頼み、私を日本に留学させてくれた。

 松山中学では猛勉強の日々だった。1938年春に、東京商科大学の予科に入学できたときの歓びは格別だった。日米の交流を促進する仕事をしたいと思っていた私は、外交官をはじめとする官僚や商社マンを多数輩出する商大に入りたかった。英作文やディクテーションを重視する試験だったのも、二世の私に有利だった。日本語に難のある私が、超難関の商大予科に合格できたので、アメリカの両親は大喜びだった。
 潮の音に耳を澄ませながら目を閉じると、多摩湖線の商大予科前駅からキャンパスまで、真直ぐに伸びる砂利道が続いていて、その両側は立派な櫟林くぬぎばやしだったことが脳裡に浮かんでくる。予科一年生はキャンパス内にある一橋寮に一年入ることになっていた。

 富士子の二番目の兄である佳史とは、寮で同室だった。初めは、青白く細長い顔に、分厚い眼鏡をかけた神経質そうな彼とうまくいくか不安だった。だが、話してみると、外見に似合わず豪放闊達な人柄で、すぐに心を開いて付き合える友人になった。将来の夢、国際情勢、死生観、読んだ本の話、アメリカでの日本人に対する差別などを夢中で話し合ったものだ。彼は裕福な家の出身で、静岡の実家から大量に送られてきたみかん、魚の干物などを気前よく皆に分けていた。 

 彼の妹の富士子と初めて会ったのは、予科二年になったばかりの頃、1939年春だ。富士子は津田女子英学塾に通っていた。商大予科と津田は、櫟林を挟んで数百メートルしか離れていなかった。
 佳史は一年で寮を出て国分寺に下宿していたので、私がそこに遊びに行ったとき、たまたま富士子が訪ねてきた。佳史とよく似た色白の肌、大きな目を縁取る長い睫毛に鼻筋がよく通った美人で、全身から育ちの良さがにじみ出ていた。

 アメリカ留学を望んでいた富士子は、私が二世と聞き、アメリカの話が聞けると期待していた。だが、松山でアメ公とからかわれ、日本人として受け入れられるために努力してきた私にとって、アメリカ生まれを蒸し返され、あれこれ詮索されるのは煩わしかった。目を輝かせて尋ねる彼女に、アメリカの日本人差別の現実を話すわけにいかず、質問攻めに困惑した。こうした齟齬から、互いの第一印象は良くなかった。

 だが、何度か会ううち、私は彼女に惹かれる気持ちを抑えられなくなった。日本舞踊と琴を習った彼女には、二世の女性にはない所作の美しさと慎み深さがあり、ふとした仕草に目を奪われた。他方で、欧米の文学から日本文学まで幅広く読んでいた彼女は、作品の批評が鋭かった。西田幾太郎、ドストエフスキーなんかについて随分やりあったものだ。彼女は相当な博学だったから、自分も佳史も本気で議論しないとやり込められてしまった。

 私が彼女に積極的になれなかったのは、日本生活が長くなってシャイになったからではなかった。卒業後、帰国すると決めていた私は、親友の妹に中途半端なことをするべきではないと思っていた。


 カズヤは、帰国前に商大予科があった辺りも散策してみようかと思案した。だが、あまりにも変わっていて、寂寥感が増すかと思うと、もうどうでもいい気がしてきた。


 富士子に出会った年の夏休み、佳史から静岡の宇佐美村にある実家に招かれた。途中、箱根で降りて、芦ノ湖に行った。その日は晴天で、そこから眺めた富士山の雄姿は格別だった。ゆったりと裾野を広げる富士山には女性的な美しさがあり、ふと富士子の姿が脳裏をかすめ、顔が真っ赤になった。

 佳史の実家は大規模なみかん農家で、周囲には所有する土地が広がっていた。父親は国民学校の校長で、小柄だが威厳がある男だった。背筋が伸び、低い声が良く通り、浅黒くいかつい顔に立派な口髭を生やしていた。
 家族には、富士子に似た美しい母親と、佳史の兄の岳史たけふみもいた。岳史は地元の実業学校を卒業した後、みかん畑を切り盛りしていた。父親似のいかつい顔で、日に焼けた肌と逞しい腕が印象的な男だった。

 父親は好きなだけ滞在していけと勧めてくれた。その言葉に甘え、離れの二階で一週間ほど世話になった。新鮮な海の幸や野菜を腹一杯ご馳走になったことを昨日のことのように思い出す。

 家の中には、歴史を感じさせる家具や掛け軸が溢れ、過去と現在が自然に調和する心地よさがあった。母屋の縁側からは日本庭園が眺められ、池のあたりに蛍が姿を見せた。
 一家は夕食後に縁側で夕涼みをした。みな浴衣姿で、富士子の琴や佳史のピアノに耳を傾けた。大学にいるときは、音楽なんて縁がないと思っていた佳史が、ベートーベンの「月光」を第三楽章まで情感豊かに奏でた。そんなとき、私は言いようのない疎外感に襲われた。優雅で格調高い一家と、狭い家で大家族がひしめき、息子を移民に出さねばならなかった松山の父の実家との格差を思い知らされた。そして、移民に出た父の息子である私も、アメリカで将来に行き詰り、日本に彷徨ってきているのだ。琴で「浜辺の歌」を奏でる彼女を見つめながら、富士山のようにこの地にどっしりと根を張った彼女と、彷徨い続けなければならない自分との違いが無性に悲しくなった。


 そんな悲しみを抱え、離れの窓辺で若山牧水の歌集を繰っていたとき、ある歌に目が釘付けになった。

白鳥は 哀しからずや 空の青 海のあをにも 染まらずただよふ

 抱えている孤独を代弁してくれるような短歌を見つけ、思わず声に出して読んでいた。白鳥が、アメリカにも日本にも受け入れられない自分に思えて、目頭が熱くなった。
 気がつくと、富士子が部屋の入口に立っていた。
―牧水ですね?
 彼女に尋ねられ、私は顔を赤らめて頷いた。
―お好きなの?
 彼女は火を点けた蚊取り線香を蚊遣り豚に入れながら尋ねた。
―僕の心を代弁してくれるような歌を見つけて驚いた。 
 卓袱台の横に正座した彼女は、私の話を促すように好奇心に溢れた目を向けた。
―歌に詠まれた白鳥が、アメリカと日本のどちらにも染まりきることを許されない自分に思えた。僕はアメリカではジャップと差別され、日本ではアメ公とからかわれた。時々、どちらにも居場所がない孤独に襲われる夢を見るんだ。まあ、僕の解釈は牧水の意図と違うかもしれないが……。

 この孤独は日本にいる二世仲間となら分かち合えたが、日本人の彼女には理解してもらえないとわかっていた。

 彼女は、間違ってなんかいませんと張りのある声で言った。
―たとえ作者が詠んだときの思いと違っても、歌は読者に解釈されて新たな意味を与えられると思います。様々な解釈がされる歌は、それだけたくさんの人の心の琴線に触れる歌なのでしょう。この歌に詠まれた哀しみには、周囲に馴染めない孤独を感じている多くの人が共感すると思います。今の日本で、他国を蹂躙することに疑問を持ち、熱狂する周囲と一体になれない孤独を感じている人は、この歌に共感するのではないでしょうか。私も、この国を愛していますが、時々これでいいのかと不安になるんです……。
―僕もこのままでは、日本は敵をどんどん増やしてしまうと思う。

 この年の7月には、支那に侵攻した日本に不快感を露わにしたアメリカが、日米通商航海条約の破棄を通告し、日米関係の雲行きは、いよいよ怪しくなっていた。

 重苦しくなってきたので、私は短歌に話を戻した。
―僕はアメリカ人と日本人のように文化が違う民族同士でも、この歌に詠まれた孤独という人間が共通して持っている感情は共有できると思う。東洋人が西洋の文学や音楽に魅了されるのも、文化を超えて共有できる感情が表現されているからでしょう。
―私も翻訳小説を読んでそう思いました。感情を表現する方法は文化によって違っても、根本にある感情はそう変わらないと思います。

 思いを共有した高揚感で互いの視線が絡んだ。私の頬は赤く染まり、それを隠そうと窓辺に立った。窓から差す西日が私の顔色をごまかしてくれた。
 

 彼女が私の傍に来て言った。
―あなたは二つの国の良いところも悪いところも客観的に見られるのでしょう。日本しか知らない私には見えないものも、たくさん見えていると思います。その分、辛いこともおありでしょう。でも、そんなあなたの能力が求められる道がきっとあるはずです。

 日本人の彼女が、二世の私の苦悩を察し、前向きにさせる言葉をくれたことに驚いた。聡明なだけではなく、繊細な心遣いもできる女性だと思い、胸が熱くなった。
 思わず振り返ると、意外に近いところに端正な顔があって、吸い込まれそうな瞳が私を見ていた。窓辺にかけてあった風鈴がりーんと涼やかな音をたてた。西日を浴びた二人は魔法にかけられたように見つめ合った。私は彼女の頬に手を添えて接吻したい衝動を必死で抑えていた。

 身体が接触したわけではないのに、全身が火照っていた。一晩眠れば落ち着くと思ったが、目覚めても興奮は覚めなかった。好きになってしまったのだ……。


 カズヤは、旋回するカモメの声を聴きながら、三人でこの砂浜を歩いた半世紀以上前の夜に思いを巡らせた。

 私が帰京する前の晩だった。佳史と私が夕食後に散歩に出るのを見て、富士子もついてきた。彼女は白いワンピースを着ていた。その晩は月が煌々と輝いていて、三人は自然と海辺に足を向けた。彼女の白い服と色白で華奢な手足が月明りに映えていた。私は先を歩く彼女を見つめすぎないようにしていたが、どうしてもその姿を追ってしまった。佳史は私のいやらしい視線に気づいていただろう。
 一時間ほどぶらぶらしてから家に戻って、私と佳史は離れの二階で将棋を指すことにした。富士子も母屋に引き上げず、傍らで見ていた。
 しばらくして、階下から父親が野太い声で富士子を呼んだ。彼女が降りていってから少しすると、母屋から何やら言い争う声が聞こえてきた。最初は僕も佳史も、気にせず駒を動かし続けていたが、二人の激昂した声が聞こえてくると、さすがに気になって手を止め、母屋に向かった。
―お父様がそんなつまらないことをおっしゃるなんて、思いませんでした。
―娘を思って言っているのに、つまらないとは何だ!
―そんな時代錯誤な考えに縛られていることがつまらないと言っているのです。そんなことを言ったら、漁師の息子だったお父様が、お母様と結婚したのも身分違いじゃありませんか。
―何だと! 移民の倅と一緒にされてたまるか! とにかく、あの男とは親しくするな。
 佳史は顔色を変え、「あんなの気にするなよ」と言った。私は何と反応していいかわからず、黙って廊下に目を落としていた。


 東京に戻ってから、私は佳史の下宿を訪ねることをやめた。これ以上、富士子と顔を合わせるのは避けたほうがいいと思ったからだ。
 そんな折、佳史が気まずい空気を振り払おうとしたのか、映画に誘ってきた。何を見たかは思い出せないが、そのあと彼の下宿で話したことは鮮明に覚えている。

 他愛のない話をしたあと、佳史はややかしこまって、妹が君を好いていると切り出した。
 座布団に胡座をかいていた私は、いきなり何を言うのかとぶっきらぼうに尋ねた。佳史は、はぐらかすことを許さず、君は妹をどう思っているんだと問い詰めた。私は感情を押し殺したような乾いた声で、今のは聞かなかったことにしてくれないかと頼んだ。どうしてだと突っかかられ、私は感情を抑えた声で言った。
―僕が彼女をどう思っていようと、君のお父さんは僕が彼女と交際することに反対なんだろう。
 私はそう答え、そっぽを向いて口を噤んでしまった。佳史は私の態度を持て余したようだが、切り出してしまった以上、何としても私の本音を聞き出すつもりだった。
―俺が聞いているのは、君の気持ちだ。俺は君とはこれからも楽しくやっていきたい。君が富士子に興味がないなら、この話は二度と蒸し返さないから、本音を聞かせてくれ。
 私は目を伏せたまま、観念したように答えた。
―迷惑なわけないよ。あれほどきれいで賢くて、細やかな心遣いができる女性はそういない。男なら誰でも気になるだろう。
―じゃあ、君も富士子が好きか?
 単刀直入に問い詰められ、私はしばらく躊躇っていたが、ああと小さな声で答えた。
―いつからだ?
 離れの二階であったことを話した。以前から美しくて聡明な人だとは思っていたけれど、好きになったのはあの日だと。
 あのとき、卑屈になっていた私は、恵まれた立場にいる佳史を困らせてやりたいという気持ちがむくむくと湧きあがり、本音をぶつけてしまった。
 君の実家に行って、裕福な家で育った君や彼女と、移民の子の自分は身分が違うと思い知らされた。裕福な君の家と、息子を移民に出さねばならなかった父の実家の格差を意識させられた。琴を奏でる彼女を見ながら、富士山のようにこの地に根を張った彼女と、彷徨い続ける自分との違いが悲しくなった。だから、あのとき牧水の歌が心に響いたのだと……。

 佳史は開口一番、つまらないことを気にするやつだなと吐き捨てた。
―富士子は今の君を好きになった。それで十分じゃないか。初めて会った頃、君は口数が多いわけではないのに妙に存在感があって、どんな奴なのだろうと興味を持たずにはいられなかった。アメリカで苦労をした話を聞いてなるほどと思ったよ。そんな経験をしたからこそ、いまの君があるのだろう。富士子も逞しさの陰に、孤独を漂わせている君に惹かれたと言ったぞ。
 彼はさらに言い継いだ。
―富士子はお嬢様育ちに見えるが、自分の人生は自分で切り開く女だ。両親は富士子を非の打ちどころのない大和撫子に育てた。小さい頃から踊りや琴の稽古をつけ、礼儀作法も厳しく叩きこみ、本もたくさん読ませた。女学校を卒業したらしかるべき家に嫁がせるつもりだった。
 だが彼女は、女学校時代に外国文学を読み漁るようになり、欧米の言語や文化を学びたいという意思が出てきた。親父は進学したければ地元の師範学校に行けと言ったが、彼女は東京で勉強したいと言い張り、親父と派手に衝突した。そんなに行きたいなら合格してみろと言われた彼女は、猛勉強して津田に受かり、とうとう親父を説得してしまった。そういう女だから、君と一緒にいたいと思ったら、両親が反対しても、アメリカでもどこでも君に付いていくだろう。
 両親は富士子が卒業したら地元で教師をさせ、いずれ見合いをさせて結婚させるつもりだ。今まで、見合い話が幾つかもちかけられたようだが、彼女はてんで興味を示さない。あいつは、卒業後は東京で仕事に就くか、アメリカに留学したいらしい。俺が君に富士子の気持ちを話したのは、君が妹を任せるのに不足のない男だと思ったからだ。二人が一緒になる覚悟なら全面的に味方につく。

 佳史の誠実で力強い言葉に、卑屈になっていた自分が心底恥ずかしかった。何だかこみ上げてくるものがあった。私は佳史に涙を見られるのが恥ずかしかったので、「ありがとう、考えてみるよ」とだけ言って、逃げるように彼の部屋を辞した。


 それから一月も経たない11月、仕事で来日したアメリカの叔父が私を訪ねてきた。そのとき、想像もしていなかった話を聞かされた。両親の仕立屋はここ数年赤字続きで、かなり危険なところに借金をしてまで私の学費を工面しているという。おまけに、昼夜を問わずにミシンを踏み続けていた母は、ひどい腰痛に悩まされていた。病院で診てもらうと、腰痛の原因に婦人科系の病気もあるとわかり、その治療費もかなりかかっていた。窮状を知る叔父も随分融通してきたようだが、どこまで援助できるかはわからないので、君も考えてほしいと宣告された。寝耳に水だった。居ても立ってもいられなくなり、学費が納めてある今年度で帰国しなくてはと思った。

 私は佳史に事情を話し、今年度で帰国すると伝えた。突然のことに驚いた彼は、妹に気持ちを伝えなくてもいいのかと尋ねた。未練がなかったと言ったら嘘だ。それでも、あのときはこれっきりになってしまっても、仕方がないと思った。佳史に、中途半端なことはしたくないとはっきり伝えた。


 彼は納得したようだったが、考えるところがあったのだろう。次の週末、彼と二人で鎌倉を散策することになっていたが、彼は待ち合わせ場所の鎌倉駅に来なかった。私と同じように待ちぼうけをくらっていた富士子の姿を見つけたとき、やられたと思った。

 富士子と鶴岡八幡宮に参り、高徳院の大仏を見た。どうしても互いを意識してしまい、終始ぎこちない空気が流れていた。

 私と富士子は、冷たい潮風に吹かれて、鵠沼海岸を歩いた。寒さのせいか海辺に人はまばらで、二人は縦横無尽に歩き、歩き疲れて砂浜に腰を下ろした。

 富士子が隣にいる非日常的な空間に身を置くと、アメリカに帰ると決めたことが現実ではない気がし、このまま日本にいようかという思いも湧いた。それでも私は現実を見据え、来年の春、アメリカに帰ることにしたと彼女に話した。

 すると、いつも冷静な彼女が動揺を隠せず、自分も連れて行ってほしい、ずっとアメリカに留学したかったと懇願した。
 私はそんな彼女に、西海岸の日系人の惨めな状況を淡々と話した。自分にとってアメリカは祖国だが、日本で恵まれた環境にいるあなたが、アメリカで人種差別を受けて惨めな思いをする必要はないと説いた。寄せては返す波の音を聞きながら、彼女の私への気持ちもこれで消えてしまうと思うと切なさで胸が張り裂けそうだった。

 彼女は凛とした声で言った。
―日本で生まれ育った私は、あなたの哀しみを同じように感じることはできません。それはどうしようもなく悲しいけれど、それでも私はあなたのそばにいたいです! あなたが好きです。
 頭をがんと殴られた気がした。彼女は僕とのあいだの如何ともし難い溝に気づいていた。それでも一緒にいたいと言ってくれた!
―あなたは日本を捨てて、異国で僕と生きていく覚悟があるの?
 試すように問い詰める私に、彼女は力強く答えた。
―日本人であることをやめるつもりはありません。私の大和魂に、ヤンキー魂を加えるだけです。大変なことはあるでしょう。でも、日本で同じ経験をしたあなたがそばにいてくれれば大丈夫。
 その言葉が私の理性をねじふせた。私は彼女を荒々しく抱き寄せて接吻した。夏から抑えてきた思いが堰を切ったように溢れ出し、がむしゃらに唇をむさぼった。
―僕もあなたが好きだ。アメリカに留学しないか?
 彼女は口づけの余韻の残る唇で、必ずあなたのもとにとささやいた。二人は抱擁をといたあとも、離れがたい思いで、体を寄せ合って海を見ていた。

 それから出発まで、若い二人の気持ちは片時も離れたくなくなるほど燃え上がった。暗くなってから、人目を忍んで武蔵野の櫟林や桜堤で落ち合い、愛を確かめ合った。

 

 日本を離れる日、佳史の配慮で富士子だけが横浜に見送りに来てくれた。乗船時間まで、二人は無言で波止場を歩いた。何か気の利いた言葉をと思ったが、何を言っても陳腐に聞こえそうで口を開けなかった。

 先に口を開いたのは富士子だった。
―カズヤさん、かもめが……。
 彼女の視線の先には、追いかけっこをするように空を行く二羽のかもめが見え、やがて寄り添うように並んで小さくなっていった。
―私、かもめをあなただと思うことにするわ。あれは哀しみを抱えて彷徨っているあなただと。私が再び寄り添える日まで……。
 富士子は気丈にも笑みを見せた。
―それならあなたは富士山だ。
 彼女は、富士山はアメリカからは見えないと消え入りそうな声で言った。そんな彼女が堪らなく愛おしく、思わず大きな声を出した。
―見えるよ! 神々しいまでに美しく聳える富士山。僕の心にどっしりと根をおろしている、忘れろと言われたって、できっこない! 
 持っていた荷物を放り出して、彼女の両手を取った。抱き締めたかったが、人目が憚られて自分を抑えた。

 

 船がぐんぐん港から離れ、とうとう富士山が見えなくなったとき、滂沱の涙が頬を伝った。