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ピアノを拭く人 第2章 (2)

 透はカバンからファブリーズを取り出し、助手席の座布団に吹きつけてから車のドアを閉めた。彩子の視線に気づき、透はきまり悪そうに、ぼそぼそつぶやいた。
「俺が座ってたとこ、汚したら悪いと思って」
「そんなの気にしなくていいのに。いつもしてるの?」
「ベンチに座ったときは、除菌ティッシュで拭く。拭いた後で、乾かないうちに、他の人が座ると、服が濡れなかったかと気になってぞわっとするけど、さすがに謝るのは恥ずかしいから、気になったまま我慢する。この前、電車に乗ったときは、つり革を汚したくないから、ハンカチか袖で覆って掴んでた。素手で掴んでしまったときは、手汗で汚すことが気になったから、除菌ティッシュで拭いておいた。強迫行為だとわかっているけど、別に拭かなくても誰かが病気になるわけでもないけど、俺が後で気になるのが嫌だから仕方ないんだ……」

 E病院の駐車場から、入り口に向かうために通り抜けた中庭の樹木は、きれいに剪定されていた。中庭の中央には池があり、木漏れ日が水面みなもにちらちら揺れている。池を囲むように配置されたベンチには、読書をする患者、飲み物を片手に談笑する人々の姿がある。 
  彩子は午後の陽を浴びて歩きながら、運転で固くなった体がほぐれていく感覚を楽しんだ。透は緊張で強張りはじめ、話しかけても言葉少なだった。
  院内に足を踏み入れると、壁に飾られている絵や写真が目を引き、待合室の椅子は淡い色が交互に並んでいるのが印象的だった。BGMに、彩子の好きなアンドレ・ギャニオンの「めぐり逢い」が流れていて、思わず笑顔がこぼれる。受付のスタッフは、きびきびと動いている。待合室を半分ほど埋めている患者たちに、他の医療機関と異なる様子は見られない。精神科に陰鬱なイメージを抱いてきた彩子は不明を恥じた。

 
  自動受付機で発券された小さな紙に従い、彩子は透と2階の5番カウンセリング室に向かうことにした。透は、行き交う患者やスタッフとぶつからないかと、大きな体を縮め、気の毒になるほど、びくびくしながら歩いている。
 階段をのぼっているとき、透は急ぎ足で降りてくる小柄な女性スタッフとぶつかりそうになり、「すみません」と頭を下げた。
「今の人に、咄嗟にすみませんって言ったけど、それでいいのかな?」
 透が階段の真ん中に立ったまま、不安そうに尋ねる。
「いいんじゃない。それが普通でしょ」
「もっと、丁寧に謝ったほうがよかった気がする。申し訳ございませんと言うべきだった」
 透は全身に不安をにじませ、女性スタッフを追いかけていきかねない様子だった。
「忙しそうだったし、呼び止めたら迷惑だよ。行こう」
 彩子は透の腕を取り、階段をのぼらせようとする。
「何で俺は、さっき、丁寧に謝れなかったんだろう」
 透は苛立ちを露わにし、頭を抱える。
「急いでいるとき、階段の真ん中で呼び止められて、しつこく謝られたら迷惑でしょ。それに、そんなところで呼び止められたら危ないよ。もう行くよ」
 彩子は透の背中を押して、階段をのぼらせる。
「こうやって、気になることが増えるから、人の多いところに来るのは嫌なんだ……」
 

 彩子はカウンセリング前に、透の精神を立て直さなければと話題を変えた。
「背、何センチ?」
 彩子は女性としては高い166センチで、ヒールを履くと170センチを超える。だが、電信柱のような透と並ぶと嫌でもその差を意識させられる。
「190」
「すごい、モデル並みだね」
「若いころ、モデルのバイトをしたこともある」
「そうなんだ。写真ある?」
「家にあると思う」
「今度見せてね」
 透は、明らかに、心ここにあらずの表情で頷く。彼の頭の中は、偶然を装ってさっきのスタッフとすれ違い、「先程は申し訳ございませんでした。お忙しいときに、すみませんでした」などと伝え、すっきりしたい思いで一杯なのだろう。彩子は彼に話しかけ続けて気をそらすのがいいのか、1人にするべきなのかわからなかった。
 彩子はカウンセリング室が並ぶ2階まで、彼の背中を押して階段をのぼり、5番カウンセリング室の前にあるソファに座らせた。

 

 彩子は透の傍らに腰を下ろした。だが、廊下の壁にかかっている絵に気づいた途端、弾かれたように立ち上がり、正面に立って対面した。ずっと寄り添ってくれた親友に再会したような思いが湧きあがってくる。

東山魁夷 『道』

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 物心ついたときから、実家の部屋に飾られていた。ベッドの正面の壁にかかっていたので、不安になるたびに、眺めながら自分はどうするべきかを考え、知らないうちに眠りに落ちていた。
 彩子は、緑に囲まれ、前に向かって伸びていくグレイの道を凝視しながら、自分と透の関係に思いを馳せた。今日初めて一緒に出掛け、知らなかった彼の症状をたくさん目の当たりにした。自分は彼を支えられるのかという不安に、足元から飲み込まれそうだった。


「吉井さんですか?」
 透の前に、ジャケットにチノパン姿の長身の女性が立っていた。
「はい、そうです」
「心理士の桐生きりゅうです。宜しくお願いします」
「初めまして。吉井よしいです。宜しくお願いいたします」
 透は深々と頭を下げた。
 絵に吸い込まれそうになっていた彩子は、慌てて2人にかけよった。
「ご家族の方ですか?」
 彩子と透の眉間に戸惑いが走った。
「あ、水沢と申します」
 彩子はどう答えていいかわからず、咄嗟に名乗っていた。
「どうしますか? お2人で入室しますか? それとも、先に患者さんにお話を伺い、後ほど3人でお話しするほうがいいですか?」
 桐生は、ぎこちない雰囲気を察したのか、2人の関係をそれ以上尋ねずに、話を進めてくれた。
「どうする?」彩子は小声で透に尋ねた。
 透は2人を見比べ、戸惑いの表情を浮かべる。
「では、先に吉井さんにお話を伺いましょうか」
 桐生の提案を受け、透は「お願いします。お待たせしてしまってすみません」と頻りに頭を下げた。
 

 桐生は彩子に向き直った。
「30分ほどしたら、お呼びします。ここでお待ちいただいてもいいですし、真っ直ぐ行って左側にラウンジがありますので、そちらでも大丈夫ですよ」
「ありがとうございます。宜しくお願いします」
 桐生の顔を正面から見ると、老成した空気をまとっているにも関わらず、思った以上に若いことに驚いた。心の底まで見抜くような瞳が印象的な彼女は、自分よりも少し若く、20代後半くらいに見える。


 

 透を送り出し、再び絵の前に立つと、桐生に声をかけられた。
「その絵、いいですよね。私も大好きで、自信をなくしたときは、よく眺めているんです」
 桐生は、やわらかい笑顔を見せ、透を伴ってカウンセリング室に入っていった。
 


 彩子は、感じのいい人とは桐生のためにある言葉だと思った。
 少し話しただけなのに、もっと知りたいと思わせる味のある人物に出会い、彩子の心は微かに上向いた。