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ピアノを拭く人 第1章 (2)

 腕時計を見ると、9時をまわっている。
 新型コロナウイルスの感染拡大防止のため、時短営業をしている店が多い。今夜から明日にかけて、スマホなしで過ごさなくてはならないのはたまらないので、彩子さいこは痛む足に鞭打って歩調を速める。


 店の扉に「Closed」のプレートがかかっていたが、扉を押すと、音もなく開いた。照明がついたままの店内を見回すと、グランドピアノの前に黒いスーツを着た男性がいる。彼は目を吊り上げ、何かに憑かれたように鍵盤を白い布で拭いている。尋常ならざるものを感じた彩子は、はやくスマホを見つけてここを去ろうと思った。


「すみません、忘れ物をしてしまって……」
 男性がはっとしたように顔を上げる。さっき、ピアノを弾いていた人だとわかった。彼は彩子のほうに顔を向けたが、視線は定まらず、気まずそうに泳いでいる。マスクをしていても、悪いことをしていたところを見とがめられたように、動揺しているのがわかる。


「あの、たぶん、そのテーブルのあたりに白いケースに入ったスマホを忘れたと思うんです」
 早く退散したほうがいい気がして、彩子はさっき座っていたテーブルのあたりを探しはじめるが、店員が回収したのか、どこにも見当たらない。
 彼に尋ねるしかないと思ったとき、背後から声をかけられる。
「これですか?」
 振り返ると、彼が大きな掌に広げたティッシュペーパーの上に彩子のスマホを載せている。


 彼は見上げるほど背が高い。マスクをしていても、切れ長の目と形のよい眉、シャープな輪郭が読み取れる。髪に白いものがちらほら見られ、生え際は少し後退しているが、長身痩躯と整った顔立ちには、それを些細なものに見せる魅力が備わっている。


「はい、間違いありません。ありがとうございます」
 彩子が受け取ろうと手を伸ばすと、男性は胸ポケットから除菌ティッシュを取り出し、自分の手と彩子のスマホケースを忙しなく拭きはじめる。
「すみません、僕、汗かいてるので、汚れるといけないと思って」
 このご時世だし、気を遣ってくれているのだろう。
「大丈夫ですよ。私、気にしないので」
 彩子がそう言うと、男性はスマホケースを触らないようにティッシュペーパーで慎重に覆ってつかみ、彩子に差し出した。
「すみません、お手数おかけしました」
「いえ、とんでもないです。来ていただいて、ありがとうございました」


 男性が何度もお辞儀を繰り返すので、彩子は出ていきづらくなった。彼の奇妙な言動と、優雅にピアノを弾いていた姿が結び付かない。
「あの、今夜のピアノ素敵でした。スマホもありがとうございました。失礼します」
 彩子がぺこりと頭を下げると、男性に「ちょっと、待ってください」と制される。彼はバックルームに走り、グレイのタオルと、黒い折り畳み傘を持ってきた。
「これで拭いてください。あと、これ持っていってください。それから、ピアノをほめていただき、ありがとうございました」

 男性はまた、お辞儀を繰り返す。
 彼に傘とタオルを渡され、彩子は自分が雨に濡れ、惨めな格好をしているのにはじめて気づいた。恥ずかしさがこみあげ、湿気を帯びて広がったセミロングの髪を手で撫でつけた。


「すみません。後日、返しに伺います。あ、傘お借りしちゃって、大丈夫ですか? 降ってますけど」
「いえ、僕は車なので。傘とタオルは差し上げます」
「そういうわけにいきません。後日、こちらにお持ちすればいいですか? それとも連絡先をいただいて、お送りしたほうがよろしいでしょうか?」
 男性は困ったように視線を泳がせたが、ぼそりと言った。
「ここのマスターの羽生はにゅうに渡してください。とおるに渡してほしいと言えばわかります」
「トオルさんですね。承知しました。必ずお返ししま」
 トオルは「では、失礼します」と彩子を遮り、深く頭を下げると、逃げるように踵を返した。


「あの、いつもここで弾いているんですか?」
 彩子はトオルのピアノをまた聴きたいと思い、咄嗟に細い背中に声をかけた。
「週5日くらい弾いています。平日は弾き歌いもします」
「そうですか。また、必ず聴きにきます。トオルさんの歌手に寄り添うピアノ、とても素敵でした」
「あ、ありがとうございます。嬉しいです」
 トオルは再び何度も頭を下げ始める。

 奇行を繰り返すトオルよりも、堂々とピアノを弾いていたトオルのイメージを取り戻したくなった彩子は、衝動的に尋ねた。
「すみません、もし、よかったら、何か1曲聴かせていただけませんか?」
 トオルの体が、電気を受けたように強張る。
「あ、さっき拭いたばかりなので……。でも、せっかくなので……」
 明らかに狼狽した様子のトオルを前に、彩子は何かまずいことを言ってしまったと察した。
「すみません。図々しいお願いをしてしまって。今日はこれで失礼します。また、近いうちにお伺いします」
 彩子が一礼し、扉に向かって歩き出すと、トオルが慌てて扉を開けてくれる。
「ありがとうございました。では」
 彩子が傘を広げて歩き出すと、トオルの低い声が追いかけてくる。
「あ、さっきはお話を遮ってしまって、すみませんでした。それから、ピアノを弾けなくて、誠に申し訳ございません」

「え?」

 彩子が振り返ると、トオルが肩を上下させながら、荒い息を吐いていた。