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[短編小説] かもめと富士山 後編

 カズヤは富士子の家を探しながら、帰国してからの記憶を手繰り寄せようと試みた。あまりに辛く理不尽で、思い出すことを意識的に避けてきたせいか、細切れにしか浮かんでこない。

 帰国した私はカリフォルニア州立大学に入った。私は日独伊三国同盟の締結、仏領インドシナに進駐した日本軍に対する経済封鎖、在米日本資産の凍結などのニュースを暗澹たる思いで聞いていた。経済封鎖が厳しくなると郵便事情も悪くなった。私は日本に引き上げる知人を片端からつかまえ、日本で投函してくれと富士子や佳史宛の手紙を託した。それ以外になす術がなく、富士子がアメリカに来てくれることをひたすら願った。海を渡ってきた彼女が突然私の前に現れるのではないかと期待し、彼女と面差しの似た女性を見かけると、もしやと胸が高鳴った。
 しかし、日米交渉がいよいよ行き詰り始めると、日本企業の駐在員や留学生まで引き上げるようになり、いつ太平洋航路が閉ざされるかという懸念がささやかれ始めた。

 1941年12月の真珠湾攻撃で、西海岸の日系人の生活は激変した。1942年2月19日、F・ローズベルト大統領が、大統領令9066号に署名した。陸軍長官に、特定地域を軍管理地域に指定し、住民を立ち退かせる権限を与える命令だ。私は、政府は市民権を持つ二世を正当な理由なしに立ち退かせることはできないと思っていたが、その期待は見事に裏切られ、数日後から、市民権の有無に関わらず、日本人の血を引く者を対象に特定地域からの立ち退き命令が出始めた。
 2ヵ月後の4月末、西ロサンゼルスに住む日本人の血を引く者は、6日後に衣類や寝具、食器など身のまわりのものだけを持って日本語学校の校庭に集合せよと掲示が出た。

 私たちは砂漠のなかに建てられたマンザナー収容所に運ばれた。マンザナーはシェラネバダ山脈のふもとにあり、そこから見える万年雪をたたえた山々は美しかった。それでも、そこでの生活は、バラックに執拗に吹きこんでくる砂や、厳しい暑さと寒さに悩まされる日々だった。砂漠は寒暖差が激しくて、日中は灼熱地獄でも朝晩は冷えた。
 風が強い日は砂嵐が吹き荒れ、部屋に閉じこもっているしかなかった。毎日、吹き込んでくる砂を掃き出すのが大変だった。収容所の周囲は有刺鉄線に囲まれ、見張り台が8つあった。そこに立つ兵士の銃口は内側に向けられていた。

 収容所の猛暑と虚無感に心身を蝕まれていた頃、そこから出られる機会が巡ってきた。アメリカ陸軍情報部(MIS)が、私に語学兵にならないかと接触してきたのだ。
 収容所生活に退屈しきっていた私は、迷わず入隊を決めた。苦労して身につけた日本語が評価され、アメリカに必要とされたことが嬉しかった。富士子が、私の能力が求められる道がきっとあると言ったが、これがそうかもしれないと思った。両親には大反対された。だが、アメリカに忠誠を示せて、自分の日本語が戦争を早く終結させることに貢献できるならという思いに突き動かされていた。私はミネソタ州キャンプ・サヴェッジの陸軍情報部語学学校(МISLS)で訓練を受けた後、語学兵としてニューギニアのポートモレズビーに出た。私たちは、戦地で捕虜になった日本人の尋問、日本軍から捕獲した文書の翻訳、通信の傍受などを通じて、アメリカに有利になる情報を収集した。任務中、富士子や佳史の顔が、ことあるごとに脳裡を過った。

 陸軍に志願した弟は、日系人で構成された442連隊戦闘団に所属し、ヨーロッパ戦線で戦死した。442部隊は、陸軍史上、最も多く勲章を授与された隊として歴史に名を残した。弟の戦死にショックを受けた母は、持病を悪化させて亡くなった。戦争が終わるころ、私の家族は父と2人の妹だけになってしまった。収容所に入れられてアメリカ人としての誇りを失い、大学生活も、家も家族も奪われ、戦場で心が荒んだ私には、富士子との再会が唯一の希望だった。


 一刻も早く日本に行きたくて希望を出していた私が、ようやく行けたのは1946年だった。私は少尉になっていて、連合軍翻訳通訳部(ATIS)がある東京のNYKビルで、東京裁判関連の翻訳をしていた。
  
 富士子の安否を一刻も早く確かめたくて、最初の週末を利用して、彼女の家を訪ねた。軍服を着た今の自分なら、富士子の父親に認めてもらえるだろうという密かな自負があった。軍の売店で買い集めた缶詰や石鹸、煙草などを両手に持てるだけ抱えていった。地方へ買い出しに行く人と復員軍人で立錐の余地のない列車を降り、記憶をたどりながら家を探した。磯の匂いが鼻をくすぐり、見覚えのある風景が現れると、自然と早足になった。離れも母屋も残っているのを目にしたときは神に祈りを捧げた。

 玄関で声をかけると、出てきた父親は進駐軍の軍服を着た私に慄き、おずおずと誰何すいかした。ほころびの目立つ国民服を着た彼は、脊中が丸くなり、かつての威厳は失われていた。私が名乗ると、窪んだ目を見開き、かすれた声で、上がれと促した。慌てて出てきた母親も気の毒なほど疲れた顔をしていて、持っていった物資を渡すと涙を流して礼を言った。
 モンペ姿の富士子が姿を現したとき、生きて再び会えた感慨で言葉が出なかった。痩せたせいで顎の輪郭がくっきりし、以前より美しさを増していた。彼女も言葉が出ないという表情で、両手で口元を抑えていた。

 居間に通されると、仏壇に並んだ二つの遺影が目に飛び込んできた。まさかと目を疑った。よろめくように仏壇に近づくと、軍服姿の佳史と岳史だった……。がくりと両膝が落ち、体が硬直していった。
―岳史は支那で、佳史はどこぞやで艦を沈められて戦死です。
 父親がしゃがれ声で言った。
―あんたも米軍なんですな。移民の倅が進駐軍とは時代も変わったものです。
 行き場のない怒りをにじませた言葉が、鋭利な刃物のように私の胸を抉った。自分は親友を殺した側の人間だという現実が、ずっしりと迫ってきた。ここに来る資格がない人間だと思い知らされた。
 こみ上げてくる嗚咽を抑えられなかった。父親はそんな私を一瞥し、部屋を出ていった。

 富士子が入れてくれた温かいお茶が胃袋にしみわたり、どうにか正気を取り戻した。母親は父親の非礼を詫び、息子に線香を上げてくれないかと頼んだ。私が線香をあげると、母親は言葉少なに戦時中のことを語ってくれた。

 戦時中は食糧増産が優先されてみかんの生産が制限され、一家の収入は減った。長男の岳史には、1940年夏に赤紙が来た。1943年10月に、学徒動員で海軍に入った佳史は、横須賀の武山海兵団で初年兵訓練と予備学生としての訓練を終え、久里浜の海軍通信学校で暗号士としての訓練を受けた。霞ヶ関の軍令部で勤務したあと、艦隊勤務を命じられたが、乗艦が撃沈され、1945年の夏に戦死公報が届いた。
 卒業後、東京の出版社で働いていた富士子は、1945年3月の東京大空襲で職場と下宿を焼かれ、命からがら実家に帰った。地元で英語教師の職を探そうとしても、敵性語である英語は時間数が減らされていた。父親のコネを使っても教師の仕事は見つからず、軍事工場に徴用されていた。戦後、彼女は日々の食料を確保するために野菜を育て、着物を食物と交換するために奔走した。一家は、岳史の帰りを待ちわびていたが、その願いも虚しく1945年9月に戦死公報が届いた……。


 続けて聞かされた一家の決断は、私を絶望のどん底に突き落とした。後継ぎを失った家は、富士子が婿を迎えて継ぐことになったという。相手はみかん農家の次男で、彼女とは幼馴染。私たちの関係を知っていた母親は、こうした事情なので、申し訳ないが娘はあきらめてくれと頭を下げた。

 体中から血の気が引いた。よく覚えていないが、蒼い顔で機械のようにおめでとうございますと頭を下げたのだろうか。私は日本で家が重視されることを知っていた。日本の親戚に子供がいないので、アメリカから二世が養子に出された話を聞いたこともあった。彼女が責任を放棄できないことは、理性ではわかっていた。
 それでも、情ではあきらめきれず、一縷の望みを引き出そうとあがいた。帰り際、送りに出てきた彼女に少し話せないかと尋ねた。彼女は「約束を守れなくて本当に申し訳ございません」と深く頭を下げると、みかんを2つ持ってきて「いまの私には、これがすべてです」と私に握らせた。私が懇願するように彼女の腕を掴むと、彼女はそれを振り払い、家に入ってしまった。

 立ちつくした私は、これがアメリカ側で戦った報いかと呻いた。真珠湾以来、毎日が生きるのに精一杯だったが、どんなに辛くても自分を奮い立たせてきたのは、彼女という希望があったからだ。それを失って、強い虚脱感に襲われた。気が付くと、彼女にもらったみかんに爪を深く食い込ませていた。指と背広に酸っぱい果汁が飛び散り、芳香が鼻腔をくすぐった。

 責任のある仕事がなければ、廃人になっていただろう。一切の感情を封じて仕事に集中し、くたくたになって朝まで眠る日々が続いた。忙しい日々のふとした切れ目に、彼女を思い出してしまうのが辛かった。


 白いみかんの花が咲く季節だった。富士子への思いをどうしても断ち切れなかった私は、目立たないように軍服ではなく母の仕立てたスーツを着て富士子に会いに行った。モンペ姿で手ぬぐいを頭にかぶり、畑で白いみかんの花を愛でていた彼女は、私に気づくとはっと体を固くした。

 私は有無を言わせない口調で、お兄さんの墓参りに来たので、案内してくれないかと頼んだ。富士子は拒むわけにいかないと判断したのか、頭の手ぬぐいを取り、「兄に供えましょう」と花の咲いている枝を折り始めた。彼女は私に背中を向け、動揺を隠すように、ひたすら枝を折り続けていた。


 私はその背中に向かって訴えかけた。

―お兄さんたちのことはとても言葉にできない。僕はあなたのお兄さんを殺した側で戦った……。
 富士子は振り返って言った。
―仕方がないことです。それもあなたの運命です。私も兄も、決してあなたを恨んでいません。どうかそのことで自分を責めないで。佳史兄さんは、「あいつはお前を忘れるやつじゃない。戦争が終わったら必ず連絡してくるから、信じて待て」と言い残して戦地に向かいました。その通り、あなたは来てくれました。それだけで十分です。
―ちょっと待って! あなたと僕はこうして生きて会えた。僕たちはこれからじゃないか。あなたはあの時、僕と一緒にアメリカで生きる覚悟を見せてくれた。
―あの時と状況が変わったのはおわかりでしょう? 子供の頃からこの畑と歩んできた私にとって、ここは自分の一部です。私が守らなければ、家も畑もなくなってしまうのです。
 富士子は昂然と胸を張って訴えた。

 そのことはわかっていた。それでも、人生を一緒に歩みたいと思えるのは富士子以外の誰でもなかった。あのとき、富士子が私と生きる覚悟をしてくれたと思うと、自然に言葉が出た。
―わかっている。アメリカに来てくれとは言わない。あのとき、あなたは日本を離れて僕と生きる覚悟を決めてくれた。今度は僕の番だ。僕を婿として、一緒に家とみかん畑を守らせてくれないか。これでも、愛媛の叔父のところで4年間、みかん畑を手伝っていた。僕には、みかん農家の血が流れているんだ。
―カズヤさん……。
 富士子は両手で強く口元をおさえた。嗚咽を堪えるために、凄まじい努力をしているのがわかった。あのとき私が富士子の言葉に陥落したように、私の思いが彼女の理性を突き崩すことを願った。
 しかし、富士子は息を整え、目元を拭ってから毅然として言った。
―あなたらしくないことをおっしゃらないで。あなたは日系アメリカ人としてアメリカのために戦ったのでしょう? あなたは、これからのアメリカと日本のために、やるべきことが山ほどあるでしょう。 
―富士子さん、横浜であなたと別れてからいろいろあったけれど、どんなに辛い時もあなたと一緒になる希望に支えられてきた。今後どんな人生を歩むにしても、僕にはあなたが必要なんだ。
 一世一代のプロポーズだった。しかし、富士子は私に希望の欠片も与えてくれなかった。
―日米両国を知る日系アメリカ人のあなたは、その能力を生かした仕事をするべきです。私はその運命に向き合うあなたが好きです。私もあなたに恥ずかしくないように、みかん畑と家を守って生きていきます。

 いかにも富士子らしい言葉だった。あの瞬間、彼女を永遠に失ってしまったことに絶望したものの、そんな彼女だからこそこれほど愛したのかもしれないと気づいた。脱力した私は、頼りない子供のように、僕に何ができるだろうかと尋ねた。
 

 富士子は瞳に悲壮感を漂わせて言った。
―もう二度と二つの国が戦争をしないように、日米のあいだに立って友好を促進してください。私たちのようにひき裂かれる恋人たちが二度と出ないように……。兄とあなたのように、敵味方で戦う友人たちが出ないように。
―そうだな。こんな思いはもう二度とごめんだ。
 私たちは、どちらからともなく抱き合った。別の道を進む力を得るための長い抱擁だった。

 切なさに押しつぶされそうだったが、自制心を失ってしまったら自分が抑えられなくなりそうで、二人とも歯を食いしばって堪えた。
 離れ難い思いを制して抱擁を解くと、富士子は「このまま行って……」と懇願した。どうしても立ち去れない私に、彼女は「お願い!」と悲鳴のような声をあげた。
 私は苦痛に顔を歪めて踵を返した。今思い出しても、身を切られるように辛い瞬間だった。

 しばらく行ったあと、私はたまらなくなり、振り返って尋ねた。
―富士子さん、かもめを見たら僕を思い出してくれる?
 彼女は気丈に微笑み、そっと頷いた。僕が富士山の方角を指差すと、彼女は満ち足りたような笑みを見せてくれた。




 あのとき歯を食いしばって下った坂を登りきったカズヤは、眼前に広がる見事なみかん畑に目を奪われた。ずっしりとした実をつけたみかんの木が、どこまでも広がっている。思わず歩調を速めると、農機具が置かれた広い庭を持つ家が右側に現れた。母屋は近代的な家に建て代わっているが、離れは記憶の中の面影をかすかに残している! 

 そのとき、離れから真っ白なコートを着た若い女が出てきた。カズヤは女を凝視した。白い肌、大きな目、秀でた鼻梁は、どことなく学生の頃の富士子を思わせる。稲妻が走るように記憶がよみがえり、時空が揺らぐ感覚に襲われた。

 女は家の前に佇み、自分を見ている老人に気づくと、訝し気に足を止めた。

 180センチを超える長身でがっしりとした体型の自分は、野球帽をかぶり、黒い皮ジャケットにジーンズをはき、サングラスをかけている。バタ臭い姿が、女に不信感を与えてしまっただろうかと思った。

 女とカズヤの視線が、それぞれの思惑から絡んだ。

「祖父か祖母のお友達ですか? 私は勇次郎と富士子の孫の富士美ふじみと申します」

「Ah……」

 富士美が不審そうにカズヤを見ていた。

「私は日系アメリカ人。亡くなった佳史さんと大学の友達。富士子さんとも友達。富士子さんに会えますか?」

 動揺で、日本語がうまく出なかった。

「ああ……、あの」富士美は視線を落として言い淀み、少し待ってくださいと言い残して家の中に入っていった。

 白い紙袋と車の鍵を持って戻ってきた富士美は、庭に止めてあった軽トラックのドアを開け、乗ってくださいとカズヤを促した。


 富士美は国道に出ると、運転席と助手席の窓を下げ、車内に潮風を入れた。

「このトラック、祖母がよく運転していました」

 富士子が運転するトラックと聞くと、胸がきゅっとし、そのすべてが愛おしく思えてくる。年老いた富士子の顔を胸に描こうとしたが、どうしても若い時の美しい彼女しか描けない。 

 カズヤは、運転席の富士美をちらりと見た。形の良い顎をつんと突き出してハンドルを握る彼女は、どことなく富士子を彷彿させる。この女には、間違いなく富士子の血が流れていると確信した。

 富士美は、カズヤが理解できるように、一語一語を丁寧に発音しながら、ゆっくりと話してくれた。

「祖母から大叔父の佳史さんの話は聞いています。佳史さんに日系アメリカ人の親友がいて、戦争のとき、敵味方に別れて戦わなければならなかったことも……。祖母はよく、この写真を見せてくれました。一緒に映っているのはあなたですよね?」

 富士美は、持ってきた紙袋から取り出したセピア色の写真をカズヤに渡した。

 あの夏、佳史の家を訪れたとき、庭で富士子と佳史と3人で撮ってもらったことを思い出した。強烈な懐かしさで胸が苦しくなった。

「祖母は、友達同士が戦うような悲しいことは二度と起こってはならない。最も関係の深いアメリカとは、友好的な関係を維持しなくてはならないと口癖のように言っていました……。みかん畑で朝から晩まで働いていた祖母ですが、日米関係のニュースだけは欠かさずに見ていました」

「そう……」カズヤは胸が一杯で言葉を絞り出せなかった。

「私は佳史さんと同じ、一橋大学に通っています。佳史さんの母校だからあなたも行きなさいと祖母に言われていたので、合格したときはとても喜んでくれました」

「Ah、グラデュエートしたら何になりたい?」

「外交官になりたいです。天然資源に乏しく食料の自給率も低い日本は、様々な国と友好的な関係を維持していかなくてはならないと思います。国際社会で尊敬され、その地位を確固たるものにしなければなりません。それに、貢献できる仕事がしたいのです」

 富士美はさらに言い継いだ。

「実は外交官を志望したのは祖母の影響も大きいんです。祖母は、幼い私の手を引いて、米軍基地のフェスティバルやアメリカ人の牧師のいる教会によく連れて行ってくれて、生のアメリカ英語を聞かせてくれました。その影響で、私のアメリカへの興味が募っていきました。祖母はそんな私に、あなたは英語が得意だから外交官になるんだよ、日本とアメリカが仲良くし続けられるようにしておくれと、よく言っていました。外交官という響きは、偉い人に憧れる私の野心を刺激して、やがて刷り込まれるように私の夢にもなりました」

―ああ、自分と富士子の思いは、確実に富士美のなかに生きている。

 カズヤは温かい感慨で目頭が熱くなった。

 

 富士美は、寺の駐車場に軽トラックを乗り入れた。もしやという思いがカズヤの鼓動を速めた。

 水を入れた手桶とひしゃく、紙袋を持った富士美に従い、はやる思いで玉砂利をざくざくと踏みしめながら墓地を進んだ。

「富士子さん、亡くなったんだね……」
 カズヤは墓前にしゃがみ、墓誌に刻まれてから時間が経っていないと思われる富士子の名を何度もさすった。風雨にさらされた佳史の名を指で何度もなぞった。

「昨年の夏、大腸がんでした……」

 傍らにしゃがんだ富士美が渡してくれた線香を供え、2人で手を合わせた。

―富士子さん、佳史くん。私は弁護士になり、アメリカ企業と日本企業の契約をいくつも扱った。日米の経済交流を少しでも推進できたかな。

 立ち上がったカズヤに、富士美がゆっくりと語り掛けた。

「日本人と日系アメリカ人は、生まれも育ちも考え方も違います。日本に対する思いも当然違うと思います。それでも、良好な日米関係を望む思いは同じではないでしょうか? 日米関係が悪化すれば、アメリカ社会の憎悪は日系アメリカ人にも向いて、戦時中の強制収容のような悲劇が起こり、あなたと佳史さんのように敵味方で戦わなくてはならなくなるのですから」

 カズヤは富士美の美しい顔をまじまじと見つめた。その顔が富士子とだぶり、眩暈がしそうになった。

 カズヤは心の中でかつての恋人に語り掛けた。

―富士子さん、あなたは何て聡明な孫を残してくれたんだ……。今日、ここを訪ねて本当によかったよ。

 富士美が紙袋からみかんを取り出し、カズヤに握らせた。

「祖母が育てた畑でもいだみかんです。うちの畑は、このあたりでは一番の規模なんですよ。祖母の尽力で、東京の老舗フルーツパーラーにも納品できるようになりました。いまは私の両親と従弟が畑を守っています」

 富士美とカズヤは、みかんをむき、房を口に入れた。カズヤの口の中いっぱいに瑞々しい果汁が広がり、酸味の効いた香りが鼻に抜けた。みかん畑を守った富士子も、日米の経済交流に貢献した自分も、あの日の約束を守ったという感慨が波のように押し寄せてきた。

「実は私、次の夏から一年間、UCLAに交換留学するんです。アメリカに行ったら、この味が恋しくなりそうです……」

「富士美さん、アメリカに来たら、私の家に遊びにきて。うちに、同じUCLAに通う孫のジョージがいる。日本に興味あるジョージと、きっと仲良くなれるよ」

 
(完)