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連載小説「クラリセージの調べ」1-2


 祖母と紬さんが揃ってお手洗いに立ったとき、結翔さんがアクリル板越しに尋ねる。
「ここは早いとこ切り上げて、少し二人で話しませんか?」

「え?」
 マスクを外した彼の顔を正面から見ると、鼻筋がすっと通り、派手さはないが、意外と整った顔立ちだと気づく。

「こういう席は苦手なので、堅苦しくないところで話せればと思います。もちろん、あなたが嫌じゃなければ」

「あ、嫌ではありません……」

 彼は安心したように口角を軽く持ち上げ、「俺に任せてください」と小動物のように黒々とした目を光らせる。

 
 彼が切り出したのは、食後に出された珈琲と、栗のアイスクリームを皆が食べ終えたタイミングだ。

「すみません。もう少しお話したいのですが、学校で家族以外との会食が禁止されているんです。生徒の親に見つかると面倒なので、もうそろそろ失礼して宜しいでしょうか?」

「ああ、そうだったのかい。無理させて悪かったね。最近の親は煩いからね。モンスターペアレンツとか言うんだろ? 今は、ネットに書かれると面倒らしいね」

 祖母がメディアから拾ったらしい横文字を不器用に発音するのを聞き、思わず笑みがこぼれる。

「結翔、それなら、ここで澪さんとお話したら? 個室だから、目立たないでしょう」
 彼の意図を察して助け船を出せる紬さんは空気が読める人だ。

「では、そうさせていただいて宜しいでしょうか?」
 彼が祖母にやわらかい視線を向けて尋ねる。

「ああ、そうだね。見合いの後は、二人になるのがお約束だからね。ここの支払いは済ませておくから、ゆっくりしていくといいよ」

 祖母は結翔さんにはにかんだ笑みを向け、年季の入った財布を取り出す。

 丁寧に御礼を言う私たちを前に、祖母はいつになく嬉しそうに見える。教師だった祖母は、昔から頼りにされるのが生きがいだったことをふと思い出す。そんな彼女が健在なのが嬉しく、鼻の奥がつんとする。


 二人を店の外まで見送ると、彼が寝起きの猛獣のように大きな伸びをする。

「あー、肩が凝りましたね」

 彼が私を振り返り、二人で大きく息をつくと、ぎこちなかった空気が少しだけ和む。祖母と紬さんの後ろ姿が、視界の中で小さくなる。しゃんと伸びていた祖母の背が丸くなったことが胸を締め付ける。

「あの、会食が禁止されているのに、無理にお願いしてしまい、申し訳ございませんでした」
 紫色の暖簾のれんをくぐって店内に戻りながら、私は気まずさを埋めるように切り出す。

「ああ、あれは嘘です」
 彼は私を振り返り、目尻にしわをつくって笑う。
「ああいう堅苦しい場は苦手なんです。あなたも退屈してたでしょう?」

 肯定するのも失礼なので、気まずさを取り繕うような笑みを張り付ける。

「あんな気取ったシチュエーションでは、作った姿しか見えないじゃないですか」

「まあ、そうですよね」
 彼の開放的な気質が、萎縮していた心に風穴を開けたのか、思わず本音をもらしてしまう。



 個室に戻ると、会話が続かない気まずさが訪れる前に彼が口を開く。
「予約しているのは、14時までですか?」

「はい、そうです」

「あと20分くらいありますね」
 腕時計に目を遣った彼は、マスクを外し、紬さんが残した赤貝の握りをぱくりと口に入れる。のぞいた八重歯が、いたずらっ子の少年のような印象を与える。
「高い寿司なのに、残したらもったいないですよね」

 貝が何に例えられるかが浮かび、下腹がかっと熱くなる。そこから意識をそらそうと、私も歯が悪い祖母が残した烏賊いかの握りに手を伸ばす。醤油を付けて口に運ぶと、弾力のある烏賊が口の中で酢飯と溶け合い、今日初めてお寿司を味わった気がした。

「さて、何を話しますか? 初対面だと困ってしまいますよね」
 彼が顔の前で大きな手を組み、おどけた口調で尋ねる。初対面のぎこちなささえも楽しんでいるような空気が伝わる。同い年だが、彼のほうが世慣れているかもしれない。

 無難な話題を出そうと思った。だが、彼の率直さに感化され、最初にはっきりさせておこうと衝動が突き上げてくる。

「あの、うちは祖父母や両親が教師ですが、私は違います。それでずっと、親戚の集まりで居心地の悪い思いをしてきました。私の両親に、教師になった自分の子供を自慢する親戚もいました。もしも、私と結婚したら、結翔さんが同じように肩身の狭い思いをしませんか……? お姉さんたちの結婚相手も教師ですよね?」

 彼は一瞬、小動物がきょとんとしたような目をしたが、すぐに私の意図を察して話し出す。
「そんなこと全然気にしなくていいんですよ。確かにうちは教師ばかりです。うちの親も、そしてあなたのご両親も同業者にこだわるようです。でも、俺はこだわってません。因みに、長く付き合った元カノも同業者ではありませんでした。俺は子供ができたら、いろいろな価値観に触れてほしいので、別の世界を知っている人が母親のほうがいいと思っています。だから、紹介されたのがあなたでよかった。親戚の集まりが嫌なら、ちょっと顔を出して、二人で早々に切り上げればいいんです」

 彼は寛いだ笑みを浮かべている。それを見ると、胸を塞いでいた石が落ちたように気負いが消えていく。

「あの、子供は欲しいですよね?」
 年齢的なリミットが迫る私は、子供に対する意見の違いで時間を浪費したくないので、最初に確認しておきたかった。

「もちろんです。俺自身も欲しいですが、長男なので家族からも孫を早く見たいとせっつかれてます。同居の祖父は高齢なので、早く孫を見せたいですね」

「良かったです。私も早く欲しいです」

 胸を撫で下ろしながら、露骨な質問をしてしまった気まずさを取り繕うように尋ねる。
「子供ができたら、やっぱり、先生にしたいですか?」

 彼は私の目を正面から見て答える。
「子供には、自分の道は自分で選んでほしいです」

「子供がお父さんのように教師になりたいと言ったら?」

「うーん、それは素直に嬉しいですね。俺も、教師として頑張ってる両親を見て育ち、特に父を尊敬していますから。まあ、俺の場合は、親と同じ職に就くというより、教師になれば野球部の顧問になって、ずっと生徒と野球ができると思ったのが決め手でした。それがなかったら、途中で教員採用試験の勉強を放り出していたと思います」

「そうでしたか。きっと、部活がとても楽しかったのですね」

 彼は鼻の上にしわをつくり、柑橘系がしゅっと弾けるような笑みを見せる。
「そうなんですよ。中学、高校は、部活のために学校に行っていたようなものでした。放課後の部活がなければ、朝から晩まで椅子に座って授業を聞くのは堪えられなかったな」

「先生になって、ご両親は喜んだでしょう?」

「まあ、親が喜ぶのは嬉しかったです。学校は結構ブラックな職場ですが、経済的に安定してるのと、社会的に信用してもらえるのは助かります」

「英語教師を選んだのは、お父さんを尊敬していたからですか? 結翔さんは、お母さんのように体育教師になることもできたのではないですか?」

「はは、俺は見るからに体育会系ですからね。確かに、親父に認めてほしいというのは大きかったです。でも、キングに興味を持った影響で、大学でもっといろいろな英米文学を読んでみたいのもありました」

 彼はふと思い出したように言い継ぐ。
「でも、親が教師なのが嫌でたまらない時期もあったんですよ。子供の頃、街で、知らない子に『市川先生の息子』とひそひそ言われるのが怖いというか、気持ち悪かったです。『市川先生に宜しくね』と言われることもありました。どこの誰だよって感じですよね」

「それ、私も親が教師だったので、すごくわかります。『先生の娘だから、よくできるよね』と言われるのも嫌でした」

「俺も嫌でした! 何か悪いことすると、『市川先生が悲しむ』とか『先生の息子なのに』とか言われるんですよ。模範的な子でいなくてはいけないというプレッシャーがありました」

「私はあまり出来がいい子ではなかったので、本当に嫌な思いをしました……」
 
 彼はわかりますと言いたげに頷いた後、口角を軽く上げて続ける。
「まあ、親が教師だと、進路に的確なアドバイスをもらえたり、勉強を教えてもらえたり、学校の事情がわかったり、いいこともありますよね。俺は子供が教師になりたいと言ったら、良い面も悪い面も伝えようと思います」

 女子同士なら、このまま悪口を重ねて連帯感を強めただろうが、彼はネガティブに傾いた話の流れを咄嗟に軌道修正してくれた。物事をポジティブに捉えようと努めているのが伝わってくる。

 
 胸に燻っていたものが消えると、この人なら大丈夫だろうという思いが湧いてきた。貸し切り時間が終わりそうになった頃、彼と私は、どちらからともなくスマホを出し、LINEを交換した。