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連載小説「クラリセージの調べ」1-3

  小山市で授業と部活指導に明け暮れる結翔ゆうとさんと、高崎市で人材派遣の仕事をする私は、なかなか会えない。けれど、朝晩に他愛のないメッセージを交わすLINEは途切れない。間遠になると、どちらかが積極的にメッセージを送るパターンが自然にできた。互いに、この縁を大切にしようという思いが一致しているのだろう。

 ようやく会えたのは、お見合いから一か月後の週末だった。二人ともコロナ感染を避けたかったので、感染リスクの高い人込みは避けようと話がまとまり、ドライブと公園散策に決まる。

 感染防止に対する考えが一致したのは幸いだった。彼は自分が感染して、学校でクラスターを発生させること、高齢の祖父と両親に感染させることを恐れている。私は両親とは別居しているが、職場に糖尿病の上司と、妊婦で喘息持ちの同僚がいるので感染防止には気を遣っている。この点が一致しなければ、この時期では上手くいかなかったに違いない。


 結翔さんの白いアウトランダーは、小山駅で私を拾い、力強く走る。子供の頃から見慣れた工業団地が車窓を流れていく。車内には、スーザン・ボイルがカバーする「スタンド・バイ・ミー」が優しく流れている。こんな甘い「スタンド・バイ・ミー」も悪くないと思う。

「大きい車ですね。生徒さんをよく乗せるんですか?」

「うん。だから、少し無理をして7人乗りを買ったんだ。コロナ禍になってから、生徒が車内で騒いで感染されたら困るので、会話を控えろと言い渡した。気休めだけど、一応クレベリンもつけてるよ」
 彼はミラーにつるしたスティックタイプのクレベリンを指でつついて揺らす。

「この時期、会話を控えなければならないのは寂しいですね……。話しにくいことがある生徒さんも、車内でなら話せることもあるでしょう」

「いや、俺が送ってくのは、がさつな野球部の連中ばかりで、コロナ前はぎゃあぎゃあ煩くてしょうがなかった。夏場は汗臭いから、奴らがおりた後の臭いが気になったよ。芳香剤の甘ったるい臭いは好きじゃないから、無臭の消臭剤スプレーしてたな」

「アロマディフューザーを置くのはいかがですか? 車内に置けるのもあるんですよ」

「何、それ?」

「植物由来の精油エッセンシャルオイルを霧状に拡散させる小型家電です。精油には、消臭、抗菌効果が実証されているものもあるんですよ」

「へえ。いい匂いでごまかすだけじゃないの?」

「悪臭を出す物質と精油が化学反応して、悪臭物質を無臭物質に変化させます。消臭効果があるものとしては、レモンやグレープフルーツ、ユーカリ、ペパーミントがお勧めですよ」

「アロマとか詳しいんだ。俺、そういうのさっぱりだから」

「あはは、実は私、匂いフェチなんです。精油もお香も香水も好きなんです。最近、車用のディフューザーを買ったんですよ」
 彼の興味のない話は、ほどほどで切り上げるべきだと判断し、話題を変えるつもりでいた。

「はは、いいね、匂いフェチ」
 彼はちょっとウケたあと、私に顔を向ける。
「そのディフューザーっていうのを今度持ってきて見せてくれる?」

「え、無理に合わせてくれなくていいですよ……」

「何で? いい匂いがすれば気分上がるでしょ。気に入ったら、俺も車に置こうかな。共有できるものができたら、将来的に楽しいし」

 彼は日焼けした顔をくしゃっとゆがめて笑う。体育会系の彼とアロマは似合わないが、興味を持とうとする姿勢が未来を感じさせてくれる。彼は、高波のように激しい感情を運んでこないが、さざなみのように感情を波立たせる。

 かつて愛した人は、好みと感性まで驚くほど似ていて、息をするように自然でいられたことが針のように胸を刺す。それでも、彼と結翔さんを比較するより、少しづつ寄り添って心地よい空気を作りたい思いが、傷を癒すように満ちていく。車窓に目を移すと、黄色く色づいた銀杏が緑の芝生に舞い落ちるのが見えた。色彩の対比が美しく、気分が高揚する。


           
 結翔さんの車は環状線沿いの大きな公園に入って駐車した。子供の頃に何度か遊びに来たが、もう何十年も来ていない。

「ああ、ここ野球場があるんですよね……」
 車を降りると、バットでボールを打つ乾いた音が、晩秋の風に乗って流れてくる。

「野球場とテニスコートがあるよ」
 彼は膝まで隠れるダウンジャケットの裾を翻し、誘われるように野球場へ足を向ける。そういえば元教師の父も若い頃はこんなダウンを着ていた。父がダウンを着て木枯らしの中で部活指導をしている写真を思い出す。

 野球場では小学生のチームが試合をしている。感染防止のために、客席で見守る保護者は距離をとって座り、声援の代わりに拍手を送っている。それが妙に物寂しい。

「結翔さんも、少年野球チームに入っていたのですか?」
 金網越しに試合に見入る彼を見上げて尋ねる。背が高く、筋肉質の彼の隣にいるのはまだ慣れないが、守られているような安心感がある。

「うん。両親は帰りが遅いから、俺を野球チームに入れておけば安心だったんだろうな。姉二人も、バレー部の顧問をしていた母の影響で、ミニバレーをやってたから、放課後や土日はバレー三昧だったな」

「私も小学校のときは、スイミングと体操教室、高学年になってからは学習塾にいってました。送り迎えは祖父母がしてくれました」

「やっぱり、共働きだとじいちゃん、ばあちゃんの協力が必要だよね。俺が小学生のときも、じいちゃんが送迎、ばあちゃんが弁当作りや洗濯をしてくれて、親より長い時間を過ごした」

「少年野球だと、保護者が試合の送迎で車を出したり、お弁当や飲み物を用意するのが大変だと聞きましたが……」

 彼がわかってくれて嬉しいと言いたげに目を細める。
「そうなんだよ。あのときは、家族は協力してくれるのが当たり前だと思ってたけど、今思うと、じいちゃん、ばあちゃんも、両親もかなり無理していたと思う。両親は、週末は寝ていたかっただろうに朝早くから試合を見に来てくれた。子供が試合に出られなくても、車出したり、差し入れ持ってきて、チームメイトを応援してくれる親もいたな……。あのときのコーチは、ボランティア同然で務めてくれてた。今思うと本当にすごいと思うよ」

「球児も指導してきた先生方も、コロナ禍でたくさんの大会が中止になってしまって辛いですよね。たしか、昨年は甲子園も開幕しませんでしたね……。この夏に、山崎育三郎さんが球児たちの思いを歌った『誰が為』の歌詞が胸に響きます」

 結翔さんは驚いたように私を見る。
「あの歌は俺もぐっときたよ。澪さんが、その気持ちをわかってくれて嬉しい。俺たち教師には、夏は何度もめぐってくるけど、生徒にとってはかけがえのない夏だ。生徒たちが、何で俺たちの年に、俺たちが何か悪いことしたかな、練習さぼったから罰が当たったかなというのを聞いて胸が痛んだ。これが自分のときだったらと想像すると、何のために練習してきたのかという悔しさが痛いほどわかる」

 やりきれなさがにじむ声を聞き、「早くコロナが収まってほしいですね」と月並みな言葉しか返せない自分がもどかしい。

 彼は私に顔を向けて深く頷く。濡れたように黒々とした瞳は、私の存在を肯定したかのように優しい。

「少し歩こうか……」
 彼は私の背中に大きな手を当てて促す。熱を持つ背中を意識しながら、彼の大きな歩幅についていく。

「そういえば、今でもキングを読んでいるのですか?」
 私は頬まで熱を帯びてきたのを隠すように、前を向いたまま尋ねる。

「うん。最近は『シャイニング』の続編『ドクター・スリープ』を読んだ。でも、俺は新しい作品よりも、中学の頃に読んだ『ペット・セマタリー』とか『IT』の印象が強いな」

「キングの作品は、どれもいいですよね。登場人物の心理や人間関係の闇が入念に書き込まれていて、それと怪奇現象がつながっているようで、怖さに拍車をかけています。まさにモダンホラーの帝王ですね」

「そう。怪奇現象が日常の隙間にすっと入ってくるような怖さがいい」

「はい。生徒さんにキング原作の映画を見せたりするんですか? 先生が見せてくれたものって、かなり記憶に残りますよね」

「うん。今年は担任してるクラスで『スタンド・バイ・ミー』を見た」

「反応はどうでしたか?」

「嫌いという奴は少なかったな。友情とかコンプレックス、ままならない家庭環境とか、国や時代が違ってもあの年齢が抱えがちなものに、共感するところがあったと思う。澪さんも、ミステリーとかホラーとか読むの?」

「私、辛すぎることから逃避したいときにミステリー、特に探偵小説を読みまくります。読んでいる間だけは、思い出したくないことを忘れて没頭できるじゃないですか」

「確かに。難解な文学作品だとそうはいかないよな」

「そうなんです。あ、私、日本のミステリーだと忘れていたいことを思い出してしまうので、行ったことのない国の作品を読みます。去年は、辛いことがあった直後の1週間ほど、アイスランドのアーナルデュル・インドリダソンの探偵小説を読み耽ってました。翻訳されていた5冊は読み切りました」

「へえ。アイスランドのミステリーって想像つかないな」

「派手さはないですが、深味があって面白いです。約30万人という人口で、狭い国土のアイスランドだから起こりうる事件が描かれているんです。刑事が過去に遡って入念に捜査をして事件を解決する話が多いので、アイスランドの歴史や風土も学べました。アイスランドの変わりやすい天気、重く垂れ込める雲、強風、深い雪も書き込まれていて、非日常にトリップできました」

「ミステリーって、お国柄を反映しているって言われるもんな。それで、何から逃避したかったの? 仕事で嫌なことがあった?」

「失恋です!」
 一言で言い切る私に、結翔さんは一瞬言葉を失い、眉をかすかにあげる。

「失恋から立ち直るためにミステリー読みまくるって、澪さん、面白いね。俺、気に入ったよ!」
 結翔さんは、ツボにはまったようで体を揺らして笑いだす。

「そんなにウケました? じゃあ、結翔さんは、失恋したらどうやって立ち直りますか?」

 彼は質問に答えず、私の両肩をがっしりと掴む。
「澪さん、いい意味で面白いよ。俺みたいに、やけ酒とかやけ食いに走るより、ずっと健全でいい。それで……、失恋から立ち直れたか聞いてもいい?」

 私は彼の黒々とした瞳を覗き込むように見つめる。
「そうでなければ、私は結翔さんとお見合いしていません。私は愛した人と結ばれない運命でしたが、彼が正しい人生の航路から外れないための澪標みおつくしになれました。それだけで十分なので、私も新しい幸せを探そうと思いました。誰かを愛し愛される幸せを知ったら、また誰かを愛したいと思うでしょう……?」
 例え同じ情熱で愛せなくてもという言葉を封印し、真直ぐに彼を見返す。

「そっか、いい恋をしたんだな。澪標って、確か、船が浅瀬で座礁しないように、通っても大丈夫な航路を示す標識みたいなのだよね。何かで読んだことがある。誰かの人生の道標になれる澪さんは、強くて魅力的な女性なのだろうな……」

 彼がかすかに陰を宿した瞳で、私の瞳を覗き込む。

 無骨だと思っていた彼が、私の唐突な言葉を正しく受け止め、肯定してくれたことが意外だった。彼の陰影がにじむ瞳を見返しながら、この人も一番愛した人と人生をともにできない人かもしれないと思った。そのことは、かすかに自尊心を傷つけたが、静かな安堵を運んでくる。

 彼は目元を強張らせ、私の目を射貫くように見つめながら言葉を絞り出す。
「澪さん、付き合おうよ。結婚を前提に……」

 私は反射的に「宜しくお願いします」と答えた。晩秋の風がざっと吹き付けて髪を乱し、足元の落ち葉をかさかさ鳴らす。 


              ★
 それからは、冬の足音と歩調を合わせるように関係が深まっていった。

 毎日のLINEは欠かさず、会えない週末はZOOMで話した。コロナ禍で、デートで行ける場所は限られたが、コロナが収まったら行きたい場所のリストができた。

 結翔さんの車には、私が選んだアロマディフューザーが置かれた。私は彼と初対面のときに感じた柚子ゆず、消臭に効果的なグレープフルーツやレモンの精油をプレゼントした。デートのときに香らせると決めた柚子は、私たちの服にほんのりと移り、思い出を彩っている。

 結婚を前提の交際だったので、プロポーズは予定調和のように進行した。クリスマスに、彼は宇都宮のホテルに入っている最上階のフレンチレストランを予約してくれた。ディナーが終わるころ、彼は「そろそろ結婚しようか」と茶飲み話のように切り出した。あまりにも気負いがなく、彼にとって初めてのプロポーズではない気がした。私も初めてではないので、「そうだね」と満ち足りた笑顔で答えた。サプライズで指輪が出てくることも、ケーキが運ばれてくることもなかったが、新しい人生の航海に乗り出す穏やかな幸せに包まれていた。

 その夜、予約していた部屋で、私と彼は初めて躰を重ねた。がっしりとした彼の身体は、テントのように私を包み、ゆっくりと解放していく。その動きには、普段の彼の言動のように、私が求めるものを与えてくれる心地良さがある。けれど、彼の黒々とした瞳は深く穏やかで、盲目的に溺れていないことがわかる。私たちは、水面下に沈めた憂いを浮かび上がらせずにいられるほど年齢と経験を重ねている。そのことは悲しくもあるが、凪のような幸せを教えてくれる。

 妊娠を心配しなくてもよいことが、私たちの心身を解き放ち、新しい命を宿すことを願いながら睦みあった。彼の喉仏から滴る汗が、私の首筋に垂れる感覚は、なぜか傍観者のような意識を呼び起こした。


 コロナ感染者が増えていることを考慮し、高齢者のいる両家への訪問は見合わせた。その代わり、年明けに個室のある店を予約し、両親と私たち二人の顔合わせのお茶会を開くことで話がまとまる。

 けれど、後から彼の両親が、顔合わせ前に一度は私の顔を見たいと言ったので、両家の両親にZOOMを通して2人で対面することに決まった。

 明朗快活で頼りになりそうな結翔さんに、私の両親は、ひとまず安心したようだった。

 義父になる 康男やすおさんはロマンスグレイで、黒々とした瞳と高い鼻梁が結翔さんと共通している。低く理知的な声に威厳があり、教師だった時代を彷彿させる。

 義祖父になる95歳の清司きよしさんは、がんを患っているが、受け答えはしっかりしていて、たくさん祝福の言葉をくれた。言葉の端々から、結翔さんへの深い愛が感じられた。

 義母になる糸子いとこさんは、ショートカットで溌溂としていて、おかめのお面を思わせる顔立ちだった。細い目が人を揶揄するように動き、何度も会話に割り込むほど押しが強いが、何とかうまくやっていきたい。

 私たちの新生活は、市川家の敷地内にある家でスタートするのだ。