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連載小説「クラリセージの調べ」1-1

※ さくらゆきさんの描いて下さった二人の姿です。小説と一緒に、ぜひご堪能下さい。


 新型コロナウイルスのデルタ株が猛威を振るった第7派は、2021年9月末に収束した。報道される感染者数は拍子抜けするほど減少し、このままウイルスが消滅に向かうのではと巷で囁かれている。とはいえ、繰り返し訪れるウイルスの波を知る私たちは、近いうちに第8派がくるだろうと警戒を解いていない。

 コロナ禍で延び延びになっていた私の見合いは、このタイミングで決行された。

 祖父母の代から続く教師の家系を大切にする私の両親は、教師になれなかった私を教師の家に嫁がせたがっている。

 全身全霊を注いだ恋が終わった私は、コロナ禍での不自由な婚活でも成果が出ず、見合いをして親孝行するのも悪くないという境地にたどり着いていた。そして、33歳の私は、子供をつくれるリミットへの焦りがある。魂が震えるように共鳴しあえなくても、互いに尊重しあえる人と出会い、家庭を築きたい思いから見合いを承諾した。


 宇都宮市内の回らない寿司屋の個室で、お相手の長姉のつむぎさん(38歳)と私の父方の祖母は、時間になってもお相手が現れないことに気をもんでいる。私の視線は窓越しに見える銀杏の木に止まる。夏には鮮やかな緑だった葉が黄味がかり、黄金色に染まる日が遠くないことを教えてくれる。

 宇都宮市内に住む元教師の祖母と、私立高校の養護教諭の紬さんはご近所さんで、互いの家を行き来する仲だ。祖母が紬さんに、私の孫とあなたの弟はどうかと持ちかけたらしい。両家とも祖父母の代からの教師の家、当人たちは同い年で、二人とも実家が小山市という条件は、両家を歓喜させた。

「すみません、いま結翔ゆうとからLINEが入りました。部活の指導で汗だくになったので、シャワーを浴びてからくるそうです……」

 テーブルの中央に設置されたアクリル板の向こうで、紬さんがなだらかな稜線のような眉を下げ、黒々とした瞳を曇らせる。

「汗びっしよりでも、すっとんで来ればいいのにねえ」
 85歳になる祖母のしわがれ声に不満がにじみ、紬さんはますます恐縮してしまう。今日の祖母は、美容院で髪を結ってもらい、上質なツーピースに身を包んでいるせいもあり、いつにも増して威厳がある。

「お気になさらないでください。こちらこそ、お忙しいときにすみません」
 困り顔の紬さんが気の毒で、私は全然気にしていないとアピールする。だが、胸中では、お相手が気に入らなかったら、待たされたことは断る理由になると算段している。

「本当に申し訳ございません。普段は時間を守るのですが、野球部の三年生が引退したので、一、二年生を鍛えるために力を入れているようで……。今日ぐらい、汗だくにならないようにすればよかったのに」
 不織布の白いマスクを外し、つんとしてお茶をすする祖母を前に、紬さんは身を縮める。

「いえいえ、生徒思いの良い先生なのでしょうね。おばあちゃん、まだ時間は十分にあるんだから、かりかりしないで」
 
 私は紬さんに好感を抱き始めていた。まとっているやわらかい空気は、彼女を慕って保健室を訪れる生徒が多いことを想像させる。ふっくらしはじめた体のラインをカバーする紺色のワンピース、小顔に見せるレイヤー入りのロングヘア、肉付きのよい指を優美に見せるネイルは彼女に良く似合う。

「先生はいつでも忙しいからねぇ。貸し切り時間のこともあるし、先にお寿司食べてようか」

「そうしましょう! 私、お願いしてきますね」
 紬さんが立ち上がったとき、「失礼します」と仲居さんのおっとりとした声がした。

 すっと開いた障子の向こうで、小柄な仲居さんの後ろに、長身で筋肉質の男性が立っている。マスクで顔半分は見えないが、こめかみで繋がりそうななだらかな眉と、艶のある瞳が紬さんと似ている。小麦色の肌と、真っ白なワイシャツのコントラストがまぶしい。

「遅れて申し訳ございません。市川結翔いちかわゆうとです」
 彼はよく通る声で挨拶した後、体を九十度に傾けてお辞儀をする。体に染み付いたように自然な所作が目を惹きつける。全身から柑橘系の香りが弾けるような人だった。

「忙しいのに悪かったねえ。さ、こっちに来てお座りよ」
 さっきまで不機嫌だった祖母は、彼の折り目正しさにやられてしまったのか、相好を崩して迎える。

 彼の存在が、ぎすぎすしていた空気を一瞬で爽やかにしてしまったことを認めざるをえない。

「何か冷たいものを頼もうね」
 祖母は障子を閉めようとする仲居さんを呼び止める。

 彼は私の正面に座り、「初めまして」と穏やかな声で言い、目元をくしゃっとさせてほほ笑む。その瞬間、実家でよく香っていた柚子ゆずの精油のような清涼感を覚える。大きな身体がもたらす圧迫感はあるが、この身体に包まれたら何もかもを忘れて身を委ねられそうだと思ってしまう。下腹の奥の子宮がかっと熱を帯びる。

 マスクを外し、オレンジジュースを飲み干す彼の喉仏を観察しながら、グラウンドに響き渡る力強い声を出すだろうと想像する。英語教師だと聞いたが、声量たっぷりのバリトンは、どんなふうに英語を発音するのか好奇心をかき立てられ、子宮がどくどくと脈打つ。

 小学校から大学まで野球に情熱を傾け、教師として中学に赴任してからも野球部顧問をしていると聞いていた。見合い写真を見たとき、俳優の井浦新いうらあらたを彷彿させる顔立ちは素敵だと思った。だが、体育会系の彼とインドア派の私が上手くいくはずはないと、気が乗らなかった。
 にも関わらず、目の前の彼に、性的な魅力を感じている自分に戸惑う。新しい生命を宿すことを望む子宮が、相手としてふさわしいと察しているのだろうか。


 握り寿司が運ばれてくると、祖母が場を取り仕切る。
「こちらが、私の孫の鈴木澪すずきみお。生まれも育ちも小山。大学から東京に出て、卒業後は東京の人材派遣会社に勤めてるの。去年まで東京本社にいて、今年から高崎にある北関東事業所に異動したのよ。いまは高崎に住んでるの。結翔さんと同い年だから、話が合うと思ってね」

 私は「宜しくお願いします」と控えめに頭を下げる。

「弟の結翔です。中学の英語教師で、二年生の担任と野球部の顧問をしています。結翔が30のとき、両親が彼の将来に備えて、敷地内に二階建てを新築しました。今は、そこで一人暮らしです」

 結翔さんが神妙な顔で頭を下げる。
 彼が一度も実家を出て一人暮らしをしたことがないことと、もしも結婚したら敷地内同居になることがひっかかる。彼のために新築したとなれば、二人でアパートやマンションに住むという選択肢はないだろう。

「澪さんは、英文科でしたよね?」
 紬さんが思いついたように口を挟む。

「はい」

「結翔はアメリカの小説が好きなんですよ。原著も読んでたわね」

「そうなんですか。どんな作家が好きですか?」

 私の問いに、彼は気恥ずかしそうに答える。
「メジャーすぎますが、スティーブン・キングとか……。ホラーとか探偵もののミステリーが好きなんです」

 私も学生時代にキングを読んでいたので、会話の糸口が見つかったことに安堵する。
「キングは読みやすくて面白いですよね。一冊読んだら次の作品も読みたいと思わせますね」
 
「ですよね。野球バカだった中学の頃、英語教師の父が『スタンド・バイ・ミー』、『ペットセマタリ―』とか、キングが原作の映画を見せてくれたんです。夢中になって見てたら、父が読んでみろと英語の原作を貸してくれました。それまで、父への反発もあって、英語が嫌いだったのですが、それを読みたくて勉強するようになったんです」

「アニメ好きの外国人が日本語を学ぶようなパターンですよね」
 紬さんが苦笑いする。

「それで英語の先生になったのですから、すごいですよね。私なんか、理科教師の母に、日常生活に潜む科学の知識を教えられても、さして興味を示しませんでしたから」

 祖母は疎外感を覚えたのか、割り込むように質問を浴びせる。
「結翔さんは、地元国立の教育学部を出たのよね? 子供の頃から、先生になると決めてたの?」

 彼は柚子の浮かぶお吸い物の椀を置き、口の中のものを飲み込む。私の目は力強い喉仏の動きに引き付けられてしまう。

「思い出すと恥ずかしい話ですが、小学校の頃は野球選手一筋でした。まあ、中学で己の力を悟って、教師になって野球部の顧問になることに目標を変えました」
 彼が豪快に笑うと真っ白な歯が顔を見せる。一本だけある八重歯が、親しみやすさを感じさせる。

「見事に目標を達成したわね。ご両親は、あなたを自慢に思ってるでしょうね」
 祖母は、成功を収めた者にだけ向ける優しい眼差しを注ぐ。

 祖母の眼差しが、しばらく忘れていた胸の痛みを呼び起こす。高校入試も、大学入試も、教員採用試験も失敗した私は、祖父母や両親が私を誇らしく思う瞬間をつくれなかった。そのことは、引き剥がせない影のようにつきまとっている。家族は気にしていないかもしれない。けれど、私自身の劣等感が幾重にも絡み、家族への感情を複雑にしている。それは、ここにいる誰とも共有できない。

 結翔さんと上手くいけば、祖父母や両親を喜ばせることができる。会うたびに老いていく祖母や両親を目の当たりにすると、孝行できる時間が限られていくことがのしかかってくる。この見合いを上手く進めるべきだと思う。だが、彼と一緒になったら、私は教師だらけの一族のなかで、親戚が集まるたびに肩身の狭い思いをするだろう……。子供の頃から、じわじわと心を蝕んできた劣等感が全身を飲み込む。

「紬ちゃんの妹さんも地元国立を出て、小山の中学で体育の先生をしているのよね。もう結婚してるの?」

「はい。母が紹介した体育の先生と結婚して、4歳の息子がいます」

「そう。三人とも先生になって、しっかりしたお家ね。ご両親も誇らしいでしょうね」

 私は作り笑いと相槌を続けながら、機械のように箸を動かす。子供の頃から好きだった店の寿司なのに、ゴムを噛んでいるように味がしない。