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詩と小説のコラボ with ましろさん Ⅴ 

 ましろさんの作品を読んだ瞬間、短編を添えてみたいという思いが、むくむくと湧いてきました。
 この作品には、再生の物語がふさわしいと思い、湧きあがるままに書き上げました。一度は生きることを放棄した少女が、生命のエネルギーに触れ、生きようと思う力強さを感じていただければ幸いです。
  
 今回も作品に短編を添えることを快諾してくださったましろさん、本当にありがとうございました。 

 写真は、Ozさんの作品を使用させていただきました。この場を借りて、御礼申し上げます。

空蝉


  ぼっちの昼休みは、怖いほど時間の流れが遅い。スティーブン・キング『キャリー』の文庫本に目を落としているが、文字を追うだけで内容は頭を素通りしていく。
  
神宮じんぐうさんってさ、超がり勉だよね~」
「言えてる。テレビも見ないし、マンガも読まないし、話合わないよね」
 かつては仲良しだったわか比呂乃ひろのが、私の机の近くで聞えよがしに悪口を言う。以前は、「実夏みか」と呼ばれていたのに、「神宮さん」と呼ばれると、心臓に氷を押し付けられたように冷たく響く。

「おまえ、テレビとか見ないだろ」
 稚と比呂乃の息がががった大澤おおさわくんが私の肩を小突く。私は『キャリー』に集中しているふりをする。稚と比呂乃と仲良くしていたころ、私は大澤くんが気になると2人に打ち明けた。だから、2人は彼に私の悪口を吹き込んだのだ。
「何とか言えよ! 俺、こういうつまんない性格にならなくて本当によかった」
 大澤くんの言葉にじわじわと胸を抉られ、歯をくいしばって涙を堪える。
「テレビ、見てるんかよ~」
 大澤くんが体を乗り出して、私の顔を覗き込む。
「しつこいなー、幼稚園児みたいな嫌がらせして、恥ずかしいと思わないの?」
「しつこいなぁ~」大澤くんが、私の声色を真似し、稚と比呂乃が肘を突き合って笑う。屈辱で腸が煮えくり返り、大声で言い返したくなるが、渾身の力で堪える。いまこの瞬間、キャリーのように、町を破壊できたらどんなにすかっとするだろうか。
 以前、私が大声で言い返したら、何度も真似をされて爆笑された。面白いからもう一度言わせたいと、さらにからかわれた。あんな惨めさはもう耐えられない。
 大澤くんが、何とか言えよとしつこく顔を覗き込んでくるので、彼を腕で押しのける。中二にもなって、こんな子供っぽい男子に好意を持った自分が心底情けない。
「神宮、泣きそうだぜ。昨日とまったく同じ反応じゃん。本当、ワンパターンで、つまんない奴!」

「じゃあ、どう反応すればいいんだ」
 教壇の脇でやりとりを見ていた担任の生瀬なませは、ぼそりと冷淡に言っただけで、助けてくれない。
 40代後半の生瀬は生徒に大人気だが、私はどうしても好感が持てない。彼は強い者の味方で、強くならないと、これからの人生はやっていけないと言う姿勢を徹底している。自分で抵抗しても、真似をされて笑われる私はどうしたらいいのだろうか。稚と比呂乃に、仲間外れにされて辛い、悪いところは直すから元のように仲良くしたいことを書いて渡した手紙は、他の女子や大澤くんに回し読みされて笑われた。

第1部

 雀の鳴き声も、窓から流れてくる朝の冷気も、私には苦痛でしかない。また、神経をすり減らす一日が始まると思うと、吐き気がこみ上げてくる。だが、中学に入学してから、無遅刻、無欠席、無早退でやってきた私には、さぼるという選択肢などない。いまこの瞬間に、大災害が起き、学校に行かなくてもよくなればと毎朝本気で祈っている。

 私は「優等生」を演じ続けなくてはならない。泥のように重い体を起こし、髪を黒ゴムで三つ編みにし、制服に着替える。食欲など全くないのに朝食の席につく。
 同居している父方の祖父の千代ちよは、寝つきが悪いとたまに睡眠薬を飲む。朝は薬が抜けきらず、寝ぼけていることもあるが、私を見ると相好を崩す。
「実夏は、夏子なつこ姉さんにどんどん似てくるねぇ。姉さんのように、優秀な学校を出て、いいところに勤めるの。戦争で亡くなった姉さんの分までいい人生を歩むのよ。それを見るのがあたしの唯一の楽しみ」
 87歳になる祖母は、しわしわの手で、食卓についた私の頭を撫でる。「私は私だ、大叔母の人生を背負わせないでほしい」と何度も心の中で訴えた。大叔母と重ねられるたびに、太平洋戦争の被害は、経験した世代だけでなく、その下の世代まで続いていくと実感させられる。私が口答えをすると、祖母は「母親の躾けが悪い」と母に罵詈雑言を浴びせ、暴力を振るう。だから、私は口を噤むしかない。

 テレビから、いじめを受けて飛び降り自殺した小学生のニュースが流れてくる。
「気の毒な話だけど、心が弱かったんだろうな」父がおかわりの茶碗を母に差し出しながらぼそりと言う。
「今は、自殺するくらいなら、転校しても、不登校になってもいいというらしいわね」
「俺たちは、逃げたら負けだと言われてきたけれど、今は逃げてもいいと教えているらしいな」
 父の口調に嘲笑するような響きが感じられる。私だって、自殺した子と紙一重だ。私が逃げたら、父は軽蔑するのだろうか……。
「そんな教育していたら、嫌なことから逃げる軟弱な子ばかりになっちゃうじゃないか。実夏はそんな子になっちゃいけないよ。お母さんも、ちゃんと躾けなくちゃいけないよ」祖母が口からご飯粒を飛ばしながら力説する。
 父も母も同調するように頷く。
 神宮家は父も母も東大卒で、県庁で高いポストに就いている。そんな家の一人娘が、不登校になるわけにはいかない。
 小学生のとき、「いじめられるので学校に行きたくない」と泣いて訴えた。祖母は「大叔母さんや大叔父さんは、戦争でもっとつらかったんだよ、甘ったれたこと言うんじゃないよ」と涙ながらに叱った。父には、「社会に出たら嫌な奴なんかたくさんいるんだから、そんな弱くてはやっていけないよ」と諭された。内気でいじめられっ子だったという母には、「お母さんも虐めた奴を見返せるように頑張ったんだから、あなたも辛いだろうけど強くなりなさい」と励まされた。
 口下手で友達を楽しませるのが得意でない私が、仲間外れにされることはめずらしくない。私も、自分が悪い、家族の言うことが正しいと思うようになり、耐えることを学習していった。

 神宮家は祖母を中心に回っている。祖母は贅沢を許さず、服も身の回りのものも極力質素にすることを心掛けている。ひっつめ髪に薄汚れた手拭をかぶり、色褪せたブラウスに、だぼだぼだが裾の締まったモンペのような手作りズボンを履いている。その姿は戦時中の映画から抜け出てきたようで、周囲と隔絶された時間を生きているように見える。

 贅沢の例外は仏様だ。仏壇の上には、白黒の遺影が飾られ、家族を睥睨している。東京女子高等師範学校を出て出版社で働き、東京大空襲で亡くなった大叔母の夏子。東京帝国大学在学中に学徒出陣で海に散った大叔父の正之まさゆき。祖母の姉と兄の大きな遺影には、私を心の底まで委縮させる威圧感がある。そんな彼らを弔うために、祖母は、出来る限り高価な仏具を揃え、菩提寺には盆と暮れにかなりの額を包む。
 祖母は、満足に食べられずに亡くなった彼らへの贖罪からか、仏壇には最上のものを供える。菓子折りや果物などの高価な頂き物は、一番に仏壇に供えられる。三度の食事も、特別に作らせたままごと道具のような漆塗りの食器で供える。火の海のなかで水を欲しがって死んだ夏子のために、仏壇に置かれたグラスを水で満たすのは私の仕事だ。
 祖母は、肉や魚なら脂がのった一番美味しい部分を切り分け、丸いケーキなら、一番美味しそうな飾りが乗った一切れを仏様に供える。仏壇から下ろしたものを食べることも許さない。私は、好物の桃が茶色くなって虫がたかり、喉から手が出るほど食べたかったお菓子に黴が生え、祖母の手で仏壇から下ろされて捨てられるのを数えきれないほど見送った。
 祖母は幼い私が食べたいと泣いても、外食や出前を許さなかった。出前を取るのは二人の命日だけで、その日だけは、彼らの好物だった天ぷらそばやかつどんを仏壇に供えた後に食べられた。だから私は、自分の誕生日やクリスマスよりも、「めーにち」が楽しみだった。幼心に、この家は生きている人よりも死んだ人のほうが偉いと感じ取っていた。
   

 ★
 私の全身は教室に入った瞬間から緊張で石のように硬くなる。一時間目は担任の生瀬が担当する理科。私は、4階の教室から1階の理科室に移動する時間が苦痛だ。クラスメートは、仲良しの子と連れ立って移動する。私は、どこかの女子グループの近くをいかにもその一員であるように歩き、1人ぼっちの自分が目立たないようにしてやり過ごす。稚と比呂乃は、肩を組み、きゃっきゃと笑いながら歩いていく。以前は3人で、他愛のない話をしながら歩いていたのを思い出すとやりきれない。
 席が決まっている授業中は気が楽だ。だが、授業が終われば教室に戻らなくてはならず、またどこかのグループに混ざっているふりをして歩く。既に出来上がっているグループは、稚と比呂乃の反応を恐れて私を入れてくれない。移動の間も、次の授業が始まるまでの休み時間も、昼休みも、私はぼっちだ。ぼっちを恥じず、堂々としていればいいのだが、私にはそこまでの勇気がない。もうすぐ夏休みだ。それまでどうにか頑張ろうと自分を鼓舞し、指折り数えながら、やり過ごす。

 二時間目は数学。窓際の席で授業を受けながら、窓の外に目を移す。一年生が体育の授業でリレーをしている。足が早そうな長身の女子がバトンゾーンで赤いバトンを受け取り、懸命に走る。両手でメガホンを作り、声の限りに応援する女子たちの声が初夏の風に流されてゆく。赤いバトンを持って走る女子がポニーテールをなびかせ、前を走っていた子を抜いた瞬間、耳をつんざくような歓声が上がる。女子たちは、肩を組み、ぴょんぴょん飛び跳ねて、喜びをあらわにしている。

 一年前の私は、あの女子たちと同じように、心から中学生活を楽しんでいた。学級委員の稚と仲良くなり、クラスの中心にいた。放課後は、夏だけ本格的に活動する水泳部で泳いでいた。当時のクラス担任の香川かがわは、強い者の統率力を生かし、弱い者が居心地よく過ごせるクラスをつくってくれた。
 小学生のときの私は、おとなしい子が集まるグループに属し、教室の隅にいた。だが、中学で稚と行動を共にするようになったことで、一気にスクールカーストの上方に引き上げられた。稚は小学校で児童会長を務め、いつも皆の中心にいる存在だったので、そんな彼女の親友になれたのは心から嬉しかった。稚と秘密を共有し、他愛のないおしゃべりをして笑い合うのが楽しかった。

 だが、文武両道で明朗快活な稚と、成績が良いだけの陰キャの私は最初から不釣り合いで、その軋みは時間とともに露呈していった。
 特に体育の時間は、稚の私に対する物足りなさが募る要因だった。私は、子供の頃から習っていた水泳と、それで培った肺活量を生かせるマラソン以外の運動は大の苦手だ。稚と私は、ペアになってバレーボールのパス練習をしても、私が下手なせいで続かず、稚はペア交換のタイミングを待ち望んでいた。
 休日に、稚やクラスの中心にいる男子とボーリングやバッティングセンターに行くと、私があまりにも下手なせいで、何度も雰囲気が悪くなった。そのうち、私を鬱陶しがる男子が出てきた。私が稚と共に集合場所にいるのを見て、「一緒に行きたくねえ」、「あいつがくるなら行かねえ」とあからさまに言われた。最初こそ、私をかばってくれた稚だが、私を誘う回数は減っていった。不安になった私は、稚に自分の秘密を告白したり、放課後に遊ぶ時間を増やしたりして、結びつきを強めることに躍起になった。

 2年に進級し、クラス替えがあったが、稚と私は再び同じクラスになった。私たち2人に、運動神経抜群で底抜けに明るい比呂乃が加わった。稚と私は、一年生の時間を共有したため、最初は比呂乃よりも結びつきが強かった。私は、バレー部で運動神経はいいが、頭の回転が鈍く、子供っぽい比呂乃があまり好きではなかった。表面に出さないように努めていたが、何となく伝わってしまったのかもしれない。私より稚と気が合った比呂乃は、稚に私の悪口を少しずつ吹き込んだ。私は、稚との結びつきを強めようと腐心した。だが、もともと私への不満が胸に燻っていた稚は、次第に私を鬱陶しがり、比呂乃に同調するようになった。もともとあった亀裂に、比呂乃が効果的に切り込んだのだ。
 稚と比呂乃は、クラス対抗バレーボール大会で女子を優勝に導いた。そんな経験を経て、2人は一緒にいる時間が心地よくなり、運動音痴の私をますます鬱陶しく思うようになった。

 バレーボール大会で女子が優勝した翌日、英語の先生が、女子全員に「Congratulations!」とご褒美のシールをくれた。このシールは、英語の小テストで満点を取ったり、難しい問題に答えたりしたときにもらえ、学期末までにもらった枚数が成績に反映される。

 先生が女子の一人一人にシールを配っているとき、比呂乃と仲のいい男子が聞えよがしに言った。
「何もしてないのに、もらう奴もいるよ~」
「ちょっと、やめてよ~」比呂乃が男子を嗜めた。
「何だよ。さっき、おまえたちが言ってたことじゃないか」
 私は自分のことを言われているのがわかり、シールをもらうのを遠慮しようとしたが、言い出すより先に、先生が机上に配ってしまった。
「サーブも入れられない奴ももらってるぜ~」さっきの男子が聞えよがしに言った。
「まあ、いいじゃん。女子全員に配られるんだから!」
 稚が一喝したが、私に冷ややかな視線を送ってきた。 

 その日から、3人で一緒にいても話しかけられなくなり、次には露骨に避けられ、いつの間にか大声で悪口を言われるようになっていた。3人でつくっていたLineグループにメッセージが送られることはなくなった。比呂乃と稚が、2人だけのグループをつくったからだ。
 
 修学旅行のある3年次にクラスがまとまっていることが重要で、進級時にクラス替えはない。卒業までこんな日々が続くと思うと、中学生活に何も希望が持てなくなった。勉強にも集中できず、私の期末試験の成績は落ちた。



 家に着くと、軒先につるされた風鈴の音が迎えてくれる。床の間から流れてくる線香の匂いが生暖かい夕風に流されていく。
 祖母が仏壇の前の厚い座布団に横座りし、経をあげている。祖母の声は痩せた体から出ていると思えないほど野太い。朝一度、寝る前に一度の勤行を欠かさないので、家には線香の匂いが絶えない。嬉しいことや悲しいことがあったときも、祖母の経を上げる声が家中に響く。

「ただいま……」
 私は祖母に声をかけ、二階に上がろうとする。
「実夏や、さっき成績表を見たよ。9番になっちゃったんだね。前は、2番だったのに、どうしたんだい。今度は1番になるんじゃなかったのかい」
「ごめんなさい」
「また、あの稚とかいう満州帰りの貧民窟の家の孫が1番かい? 今度こそ、貧民窟に勝つんじゃなかったのかい」
「もう、そういう昔の話をするのやめて……。稚は私よりずっと頭いいよ」
 祖母は稚が遊びに来るたびに、「あんたのおばあちゃんは貧しかったんだよ。うちの子と付き合えるような家じゃないんだよ」と嫌味を言う。
「夏子姉さんの生まれ変わりのおまえがバカのはずはないんだから、頑張っとくれよ。お前が頑張らないとみんな天国で泣いてるよ。お前のために働くお父さんだって可哀そうじゃないか。お父さんみたいに、1番になって、級長になっとくれよ」
「実は、私……、学校で稚たちに仲間外れにされてて、勉強に集中できなくて」
 祖母の顔は、瞬時に般若のような形相に変わる。
「甘ったれたこというんじゃないよ! 貧民窟くらいなんだい、やり返せばいいじゃないか。おばあの姉さんや兄さんは勉強したくても戦争でできなかったんだよ。そんなこと言うのは、お母さんの教育が悪いんだね!」
「そ、そうじゃないよ……!」
 祖母は椅子につかまって立ち上がり、長いものさしを掴むと、台所で夕食の支度をしている母のもとに向かう。
「実夏が一番になれないのは、あんたの血が入ったからだ! あんたがちゃんと躾けないからだよ!」
 祖母の怒号と、母にものさしを振り下ろすぴしゃっという音、廊下の端に追い詰められた母の悲鳴が耳を劈く。私は耳を押さえて二階に駆け上がる。
 子供の頃から、幾度となく繰り返された光景だ。私は、自分が原因で母がぶたれるたびに、胸を切り裂かれる。

「また、おばあちゃんにぶたれたのよ。ものさしでひっぱたかれた後、頬をぶたれたの」母は頬を腫らし、腕をさすりながら、遅くに帰ってきた父に訴える。
「辛抱してくれよ。頼むから、大ごとにしないでくれ。この通りだ」疲労の色を滲ませた父は、母に懇願する。
「今日も傷と腫れの写真は証拠に撮っておきました。いずれ、警察に提出させていただくときのために」
「おい、本気じゃないだろうな。警察沙汰になったら、この家がどうなるかわかってるのか」
 父は世間体を気にし、祖母のDVを隠したがる。私も、物心ついて以来、祖母の母への暴力を口に出すのはタブーだと学んでいた。
「もう限界です! 録音も動画も写真もあるし、証拠は十分すぎるほど揃っていますから。あなたが、DVを止めるようおばあちゃんを説得してくれないせいですよ」
「俺がそういうこと言ったら、おまえが余計に殴られるだろう」
「今まで、実家には黙っていたけど、今度やられたら実家に言いますから!」
 母の実家は、市議会議員や県会議員、弁護士を何人も輩出した名家で、祖母も父も頭が上がらない。
「頼むから、わかってくれよ。おふくろはああいう人なんだ」

 私は噴き出してくる汗を拭いながら、階段で息を潜め、両親の会話を盗み聞きしていた。父がドアを乱暴に閉めて出てくる音を聞き、慌ててエアコンの効いた自室に戻ると、白いタオルケットの下にもぐりこむ。私に安らげる場所などどこにもない。もう、消えてしまいたい……。


 1学期最後のホームルーム。担任の生瀬が、よく通る声で誰かの作文を読み上げる。クラスをテーマにして書けと宿題に出された作文だ。

―― 僕はこのクラスが大嫌いで、担任やクラスのリーダーたちを軽蔑しています。
 このクラスでは、いじめっ子がクラスを牛耳っています。強いものが正義で、弱いものは虐げられて当然という暗黙の了解があります。いまどき、こんな時代遅れでいいのでしょうか。国や地方自治体には、警察が存在し、人や物を傷つける行為は取り締まられます。このクラスは、こんな常識さえ通用しないのです。僕は毎日、暴言を浴びせられ、暴力を振るわれ、大切な本や上履きを隠され、落書きをされます。
 例えば、先日こんなことがありました。
 僕は、学級委員の棚橋たなはしくんに4月からずっと「ブタ」とか「ブタみたいな顔」、「ブヒブヒブー」、「フゴフゴ」などとからかわれてきました。
 生瀬先生は、いじめられないように強くなれといつも言います。だから、僕は意を決して、やり返すことにしました。棚橋くんが、レースのついた靴下を履いているのを見かけたので、「レースがついてる、お姉ちゃんか妹のを間違えて履いてきたんだ!」と言ってやりました。すると、棚橋くんは泣き出しました。クラスのみんなは「泣かした」、「嫌味野郎」、「性悪ブタ」などと僕を非難し、「謝れ」と殴る蹴るの暴行を始めました。
 入ってきた生瀬先生は、棚橋くんが泣いているのを見て、誰が泣かしたのかと尋ねました。クラスの皆は、僕が彼に言った言葉を先生に言い、一斉に僕を非難しました。
 生瀬先生は、僕が彼にひどいことを言った理由を尋ねようとしませんでした。僕に「棚橋に謝れ。彼の家は大変なんだ。理解してやれ」と言い渡しました。泣けば正義なのでしょうか? 毎日、身体的特徴を笑われ、暴力を振るわれても、泣かずに歯をくいしばって耐えている僕は泣き寝入りするしかないのでしょうか? スポーツマンで明るく、家庭の事情がある棚橋くんは何でも許され、冴えない僕は耐えるしかないのでしょうか。僕は棚橋くんにブタと言い続けたことへの謝罪を要求します。彼が謝罪し、二度と言わないと誓ってくれたら、僕も彼に謝罪します。
 いじめは犯罪です。マスメディアを見れば明らかなように、いじめられた側は、不登校や転校、怪我や体調不良、最悪の場合は自殺に追い込まれます。いじめる人は犯罪者です。
 生瀬先生は、クラスを強者の天下にするのではなく、弱者も安心して過ごせる環境にするべきではないでしょうか。最近の報道では、被害者側がいじめられていると学校に訴えても、教師や加害者を守るためにいいかげんな調査ですまされ、被害者が自殺に追い込まれる事例が目立ちます。こうした悲劇を繰り返さないために、加害者が注意され、被害者が守られるクラスになることを切に望みます。
 最後に、罰を受けるべきクラスメートのベスト3を挙げておきます。残念なことに、優等生だと先生に贔屓されている人も陰湿ないじめに携わっています。仕方なくではなく、積極的に関わっているのです。学業成績や運動能力、統率力ではなく、弱い者を傷つけるかどうかという点で、彼らを注意してほしいと思います。

 私は、自分が日々思い続けていたことを言語化してくれた作文に、心の中でスタンディングオベーションを送った。書いたのが、クラスで一番いじめられている芝田しばたくんであることは、恐らく全員がわかっている。

 生瀬は、読み終えた原稿を教卓に放り出し、教室内をゆっくりと大股で歩きはじめる。
「これは芝田の作文だ。ベスト3には個人名が入っていたので、それは伏せさせてもらった」
 生瀬は、教室の中央辺りで歩みを止め、ゆっくりと間を取ってから話し出す。
「芝田の言い分を聞かなかったのは先生が悪かった。棚橋と芝田は、互いに謝り、いまここで握手しなさい」
 生瀬は、2人が席を立ち、握手を交わすのを見守ってから続ける。
「芝田は確かにひどい目に遭っている。だが、私はいつもいじめられる奴には、理由があると思う。芝田は、とても頭がいい。成績がいいし、いつも難しい情報工学の本を読んでいるな。芝田は頭が切れるから、こういうことを言えば、人が嫌がるという点を即座に見つけられる。さっきの棚橋との話でもわかるように、芝田はそこを攻撃してくるんだ。言ってはいけないことを言ってしまうから、皆に攻撃される。私は、そこを直すべきだと思う」

「ちょっと待ってください……」
 芝田くんが、弱々しい声で口を挟み、肉付きのよい体を揺らして立ち上がる。
「みんなは、僕が何も言っていないのに、何も悪いことをしていないのに、邪魔、デブ、ブタ、鬱陶しい、むかつく、鈍い、とろいなどと言い、暴力をふるいます。先生は、いつも自分で立ち向かえと言いますよね? 僕は腕力では敵いません。だから、頭脳で対抗するしかありません。先生は僕を助けてくれませんし。僕に黙れと言うなら、まずは僕に正当な理由もなく暴力を振るい、暴言を浴びせる人たちを注意すべきではないでしょうか?」

 生瀬は心底うんざりしたように溜息をつき、芝田くんに軽蔑を剥きだしにした視線を投げる。
「芝田、おまえは、いじめられていると、何度も私に相談してきた。直接言ってこないときでも、助けを求めるように私を見る。庇ってもらえると期待しているのが見え見えだ。いいか、これは芝田だけでなく、全員が肝に銘じてほしい」
 生瀬は言葉を切り、教壇から教室中をねめまわしてから続ける。
「人との関わりはずっと続く。これから高校、大学に進み、社会に出てからも続く。いつも、教師が助けてくれると思うな。社会に出たら、いじめられても助けてくれる教師はいない。自分で切り抜けるしかないんだ。教師に頼ることを覚えると、強くなる機会を失ってしまうぞ! まず、そのことに気づくべきだ」

 芝田くんは、怒りと屈辱を抑えきれず、机に顔を伏せて激しく泣き出す。
 私はそのまま自分に向けられたような言葉に、強烈な憤りを覚えた。芝田くんの言ったように、いじめっ子はターゲットを巧妙に見つけ、何も危害を加えられていないのに攻撃してくる。なぜ生瀬は、理不尽な攻撃で、周囲を怯えさせるいじめっ子を咎めないのか。芝田くんの真っ赤になった耳、小刻みに震える肩を横目に見ながら、やはり生瀬に相談しても無駄だと思った。

「よし、おまえたちは期末テストを頑張ったから、ご褒美だ。残りの時間で、席替えをしよう! 2学期は、これから決める席でスタートだ」
 生瀬が仕切り直すように宣言すると、教室中から大歓声が上がる。
「今回は好きなもの同士で組んでいいぞ。まず、男女とも2人か3人のグループをつくってもらう。その後、同じ班になる男子グループと女子グループをくじ引きで決める。まずは、好きな者同士でグループをつくれ」
 私の全身は固まり、心臓が口から飛び出しそうなほど早く打ち始める。椅子から立ち上がり、入れてもらうために稚と比呂乃のところに行こうとするが、2人は腕を組み、近づいていく私から逃げ回るように速足で教室内を移動する。2人は安全地帯にたどり着いたように教壇の前に行き、生瀬に「決まりました」と報告する。
 あまりにも惨めで、目の裏に涙がたまる。立ち尽くしているわけにもいかず、どこかに入れてもらおうと周囲を見回す。だが、成立したグループは次々と生瀬に報告され、それがホワイトボードに記入されていく。

 稚と比呂乃は、私のほうをちらちら見ながら、生瀬に小声で何かを訴え始める。2人の声は聞こえないが、答える生瀬の声は断片的に聞き取れる。
―― そう言うことなら、互いの気持ちが通じ合わないと難しいな。

 生瀬は私にちらりと視線を投げると、病気で入院している女子と私の名前を余っていた欄に書いた。彼は私を仲間に入れたくない稚と比呂乃の意見を尊重したのだ……。2人の態度がショックだったことと、仲間外れを容認する生瀬への不信感で、魂が抜けるように身体から力が抜けていく。ここしばらく調子のよくない胃が、締め付けられたように痛む。

 各自が新しい席に移動したのを確認し、生瀬は満面の笑みを浮かべる。
「これで皆が満足できる席が決まったな!」
 私が射るような視線で生瀬を見ると、それに気づいた彼は、「まあ、そうでない人もいるけどな」と苦々しそうに言い添える。

 新しい席を向かい合わせにし、給食の準備が始まる。麻婆豆腐の匂いが漂ってきたとき、吐き気がこみ上げてきて、思わず口元を押さえて俯く。
「大丈夫、気分悪いの?」
 隣の席になった芝田くんが、涙の跡が残る目で、心配そうにのぞき込む。
 このまま給食を食べたら、吐いてしまいそうだ。私は口元を抑えたまま立ち上がり、ふらふらと教壇に向かい、生瀬に報告する。
「すみません、気持ち悪いので保健室に行きます」
「大丈夫か……?」
 生瀬は、さすがに罪悪感を覚えたのか、心配そうに私の顔を覗き込む。教室を出るとき、稚と比呂乃が気まずそうに肘を突き合っているのを横目で捉えた。

 吐いたら気分が良くなるかと、女子トイレで喉に指を入れてみたが、唾液しか出てこない。かすかに漂うアンモニア臭で、再び吐き気がこみ上げてくる。給食と昼休みは、保健室のベッドで寝かせてもらっても欠席にならないだろう。便器に腰かけ、気分を落ち着けてから、保健室に行くことに決めた。

「神宮、顔色が悪いな」
 廊下を歩いていると、向かいから歩いてきた1年のときの担任だった香川に呼び止められる。
「最近、元気がなさそうだから、心配してたんだ。何か悩みがあるのか?」
 香川は私の肩に手をおいて尋ねた。私を気遣ってくれる低い声に、張りつめていた糸が切れそうになるが、声を絞り出して答える。
「大丈夫です……」
「そうか。何かあったら、いつでも遠慮せずに相談しろよ」
 教室に戻る香川の靴音を背中に聞きながら、彼が担任だったら、こんな思いをしなかっただろうと悲しくなる。階段をおりながら、彼が私の変化に気づいてくれていたことに、ほんのりと心が温かくなる。



「今日は、一学期最後の給食だから、好きにグループをつくって食べていいぞ!」
 教室に入ってきた生瀬は、開口一番に言った。

 体中の血がすとんと引き、顔が蒼白になる。皆が机と椅子を動かす音が遠のいていく。どこかに入れてもらわなければならないが、足が竦んで体が動かない。自分の身体が言うことを聞かないことに戸惑った。
「神宮、もう少し、向こういけ」
 近くでグループをつくっていた男子に言われる。気が付くと、私は一人取り残されている。動かない身体を叱咤し、渾身の力で机を少し動かす。これから、ぼっちで給食を食べなくてはならない時間を思うと、恐ろしくて消えてしまいたくなる。すべてが夢ならと思う。だが、冷やし中華の酸味のあるたれの匂いが、現実であることを主張してくる。
「神宮もどこかに入れば?」
 生瀬が取り残されている私に声を掛ける。
 頷いて、稚と比呂乃に頼むために、ふらふらと立ち上がる。雅はトイレにでもいっているのか席を外している。席替えのときの2人の態度を思い出すと、頼んでも断られるのではないかと足が竦む。全身が小刻みに震えだし、額に汗がにじむ。
「神宮も入れてやれ」
 私の様子に異様なものを感じたのか、生瀬が比呂乃に命じた。教師に忠実な比呂乃は、神妙な顔で頷き、手早く机をずらして私のスペースを作る。私は震える手で机を動かし、倒れ込むように椅子に体を沈める。
 戻ってきた稚は、私が加わっているのを見て、「何で?」と小声で比呂乃に問いかける。
「先生が言ったんだよ」
 2人の態度から、生瀬が介入しなければ、2人は私が頼んでも断ったことが読み取れる。胃がきゅっと締め付けられたように痛み、体中からするすると力が抜けていく感覚に襲われる。視界が灰色になる。
「神宮さん、どうしたん?」
 体が椅子から崩れ落ちたようで、頭上から稚の声がする。立ち上がろうとしたが、体に力が入らず、椅子の脇にうずくまる。


第2部

「日々の努力が実を結び、成績は安定して上位を維持しています。実力は十分なので、積極性を身に付ければ、より可能性が広がるでしょう。友達も自分も大人になる過程で、たくさん悩んだようです。相談してくれなかったので、力になれなかったことが残念です」

 一学期の通知表に添えられた生瀬のコメントを読み、沸々と怒りがこみ上げてきた。生瀬のクラスでの言動と、あまりにもかけ離れたコメントに、「聞いて呆れる」という言葉しか浮かばない。相談しても無駄と思わせたのは自分ではないか! 稚と比呂乃の肩を持ち、私を追い込んだ張本人に言われたくない。

 家族は、成績に関するコメントを読んで、「よく見てくれるいい先生だ」と満足そうに頷き、後半のコメントには触れようとしない。通知表は祖母によって、仏壇に上げられ、線香の匂いが染みついていく。  

 夏休みの一日目は、Lineの通知音で目が覚めた。しばらく沈黙していた稚と比呂乃と三人でつくったグループLineだった。

 Waka 神宮さん、調子悪いみたいだけど、勉強しすぎで疲れたのかな?
 Hirono そうなんじゃない(>_<)。
 Hirono   ところで、神宮さんは、一人立ちっていう言葉知ってるのかね? 
人の後をつきまっとってばかりだと良くないっていうことわからないのかな。嫌なことから逃げないで立ち向かうのも人生。「人生いろいろ、男もいろいろ、女だっていろいろ 咲き乱れるの♪ 」って感じ?

 スマホを力なく放り出す。わざわざ、グループLineを使って嫌味を言われ、何もかもがいやになる。胃がきゅっと痛み、給食の時間に身体が動かなくなってしまったときの感覚がよみがえる。また、あんな状態になってしまうのが恐い。
 家族が知れば、心が弱いんだねと言うだろう……。口に出さなくても、そう思っているのはわかる。夏休みが明ければ、再びあの日々が繰り返される。神経をすり減らしながら過ごす日々が延々と続くことを想像すると、身体が石のように硬直していく。庭で鳴いている蝉の声が、エコーがかかったように大きくなる。

 遠くから聞こえていたカラスの鳴き声が、どんどん近づいてくる。何かに誘われるように仏壇のある床の間に足を向ける。今朝、祖母が上げた線香の匂いが体にまとわりついてくる。私は力なく畳の上に座り、2人の遺影を見上げる。死んでしまおうかという思いが、全身を飲み込んでいく。いま、死んでしまえば、不登校にならず、辛うじて成績優秀だったというイメージのまま時が止まってくれる。そう語り継がれ、菓子折りや果物を供えられる。不意に浮かんだその考えが、甘美な誘惑のように心を満たしていく。

 どうしたら死ねるだろうか? 首吊り、オーバードーズ、入水、電車に飛び込む……。仏壇の下の引き出しに、祖母がかかりつけ医から出してもらっている睡眠薬が入っていることを思い出す。震える手で引き出しを開けると、かなりの量がある。それをすべて持ち出し、二階に上がり、制服に着替える。

 山ほどの錠剤をスカートのポケットに押し込み、通いなれた中学までの道を歩く。カラスの鳴き声が追いかけてくる。校門を抜けると、蝉の鳴き声の隙間から、部活動に励む生徒の掛け声が聞こえてくる。私の足は真っ直ぐに校舎の裏にあるプールに向かう。水泳部なので、ダイヤル式の鍵の番号を知っている。その数字に合わせると難なく開く。指先が震え、心臓がドラムのように打ち始める。何も考えてはいけないと自分に言い聞かせ、強引に思考を閉ざす。シャワーの下にうずくまり、錠剤シートから次々と取り出す錠剤を口に放り込んでいく。最初は数えていたが、途中から何十錠目かわからなくなる。そのまま下を向き、長いことうずくまっていると、身体が重くなる。高くなっていく太陽にじりじりと照り付けられ、背中が汗ばんでいく。不意に、足元に蝉が落ちてきて、最後の力を振り絞るようにジイジイ鳴きながらもがく。この蝉はまだ生きている。いつもは、気味悪くて、避けている蝉だが、名状しがたい温かい気持ちが湧いてくる。死が近づいていると、命ある物が愛おしく思えるのだろうか。
 薬が胃を傷つけたのか、こみ上げてくる吐き気が、生きているという現実を実感させる。今なら引き返せるという誘惑に駆られる。このまま鍵を閉めて出ていき、飲んだ薬を吐いてしまえば何もなかったことにできる。そうしようかと思うが、身体に力が入らない。暑さにやられたのか、薬のせいかわからない頭痛と脱力感に襲われる。

 力を振り絞って立ち上がり、ふらふらしながらプールサイドまで歩く。強まる眠気とだるさのなかでも、心拍が高まっているのがわかる。風でさざ波が立つ水面が霞む。塩素の匂いがする。混濁する意識のなか、誰かがプールの周囲を歩いているのが見えた気がした。見つかってしまうと思い、立ち飛込でプールに入った。水面に顔をつけ、だるま浮きになる。鼻からでる泡が、ぶくぶくと上がっていく。このままでいなくてはいけないと、苦しいが我慢する。早く楽になってしまいたいと思った。そこまでは覚えている。

 
 気が付くと、鼻からチューブを入れられ、ベッドに横たわっていた。頭上の蛍光灯が眩しく、薬品の匂いがする。びしょぬれになった制服は脱がされ、空色の服に着替えさせられている。
「大丈夫? しばらく休んで様子を見ようね」
 金縁眼鏡をかけた白衣姿の年輩女性がのぞき込んでいる。医師だろうか。彼女に鼻の管を抜かれるとき、せき込んだ。やはり、死ねなかった。バカみたいだ。
 ストレッチャーに移され、小さな部屋に運ばれた。白衣の看護師さんに、何かあったら枕元のナースコールを押してくださいねと言われる。閉められたドアの向こうで、さっきの年輩の女性医師と男性が話しているのがかすかに聞こえる。
 しばらくして、ドアがノックされ、背の高い男性が入ってきた。
「香川先生……」
 私と同じ病院から借りたらしい空色の上下を着ている香川は、近くにあるパイプ椅子に大きな身体を沈める。肩から白いタオルをかけ、髪は濡れている。彼がプールから助けてくれたのだろうか。
「今は、何も考えないでゆっくり休むんだ。しばらく、何ともなかったら、帰宅できるそうだ」
「先生、たくさん迷惑かけて本当にすみません……」
 香川は気にするなと首を左右に振る。
「無事で本当によかったよ。もうすぐ、ご両親が迎えにきてくれるぞ」
 香川は何も言わずに枕元に座っていてくれる。なぜか安心し、私は目を閉じる。
 しばらくして、香川は出ていき、両親がなだれ込んでくる。半狂乱になってまくし立てる両親の声が、集中豪雨のように頭上から降り注ぐ。


 リビングのソファに父と母、私が横並びに座り、祖母は専用の座椅子にかけている。向かいには、生瀬と学年主任の香川がスーツ姿で座わっている。床の間から漂う線香の香りが、ただでさえ重苦しい空気をさらに重くする。
「娘から、友達に仲間外れにされて、悩んでいると聞きました。娘は辛抱強い子です。あんなことをするまで追い詰められたのは、相当のことがあったと思います。生瀬先生は、お気づきにならなかったのですか?」
 父は、口調は穏やかだが、射るような眼光で生瀬に問いかける。祖母は今にも飛び掛からんほどの気迫で2人を睨みつけている。息をするのも苦しいほど緊迫した空気がリビングを支配する。
「ええ……、まあ、そういうようなことがあったのには気づいていました。ただ、お嬢さんが相談してくれない以上、私としては何もできませんでした。その、相談してくれれば力になれたかもしれませんが……」
 生瀬が、しどろもどろになりながら答える。
「なあ神宮、どうして先生に相談してくれなかったんだ。あんなことをするなら、勇気を出して話してくれればよかったのに。そんなに先生は頼りないか?」
 私が悪いという流れを作ろうとする生瀬の魂胆に、怒りが稲妻のように全身を駆け巡る。
「先生は、私がいじめられているのを見ていたのに、何もしてくれませんでした! 席替えのときだって、私を仲間外れにする稚と比呂乃を見ていたのに、2人の意見を尊重しました。ホームルームのときも、クラス全員に、いじめられているときに教師が助けてくれると思うな、自分で切り抜けるしかない、肝に命じておけと言ったじゃないですか。それに、加害者を注意するよりも、被害者にも問題があるのだからそこを直せ、自分でやり返せという態度でした。そんなことを言われて、相談できるわけないじゃないですか! 相談したら、同じことを言われて、余計に傷つくのは目に見えていました」
 黙って聞いていた香川の顔色が変わり、生瀬に咎めるような視線を注ぐ。
「本当ですか、先生?」母が怒気をにじませた声で詰問した。
 生瀬は私のほうを向いてまくし立てる。「私は、給食の時間に神宮が1人でいたとき、あの2人に入れてやるよう言ったじゃないか。君は、自分でどうにかしようとしたか? あの2人は私に相談してきたから意見を尊重したんだ。自分で積極的に動かないと、道は開けないぞ。神宮に、そのことに気づいてほしいから、何もしなかったんだ」
 両親が、何もしなかったという言葉に反応したらしく、鋭く視線を交わす。
「先生は、私がいじめられていて、相手に言い返したとき、その声を真似されて笑われるのを見ていました。でも、何もしてくれなかったじゃないですか。あのとき、相談したら、助けてくれたんですか? 私は自分で言い返しました。稚と比呂乃にも、前のように仲良くしたいと手紙を書きましたが、回し読みされて笑われました。何もしていないわけじゃないんです!!」
 母が気色ばみ、声を荒らげる。「娘は自分でどうにかしようと努力したのに、どうにもならなかったんですよ。そんなときは、先生が助けてくれるべきじゃないですか!」
 祖母も涙声で加勢する。「実夏にも弱いところがあったかもしれないけれど、死のうと思うまで追い詰められたんですよ。それなのに、先生はあの貧民窟の肩を持つんですか?」
 父が祖母の言葉遣いを嗜める。

 やはり祖母は、私を弱いと思っている……。守り続けてきたプライドを手放してしまったいま、もうどう思われても構わない。これ以上、家族と生瀬の応酬を聞いているのが堪えられず、私は自室に引き上げた。階下で、言い争う声が続いているが、聞き耳を立てる気力も残っていない。


 夢のなかでノックの音を聞いた気がした。
「香川だ。開けてくれないか」
 目を開けても続くノックの音と低い声に、ベッドから跳び起きる。ドアを開けると、香川一人が立っている。
「散歩に出ないか?」
 私は階下を伺うように、階段に目を走らせる。
「ご両親の許可はいただいた。生瀬先生は帰ったよ」

 電信柱のような香川の背中を見ながら歩く。西洋人の血が混じっているという噂の香川は、見上げるほど背が高い。少し歩いただけで、湿気をたっぷり含む空気に息苦しさを感じる。じりじりと太陽が照り付け、路上に黒い影が揺れる。
 香川は川沿いの道に足を向ける。道に沿って植えられた木々から、ひっきりなしに降り注ぐ蝉の声がやかましい。木の枝に、蝉の抜け殻を見つけた。今にも動き出しそうに見えるが、中身は既に飛び立ってしまい、空っぽだ。
「先生」
「どうした?」
「蝉の抜け殻って、空蝉うつせみって言うんですよね。いまの私は、これと同じです。空っぽなんです……」
 私がプールで自殺を図って救急車で運ばれたことは、瞬く間に広まる。今まで、人生をかけて守ってきた真面目な優等生というイメージを自ら壊してしまった。高校入試にもひびくだろう。もう、守るものも、逃げる場所もない。
空蝉うつせみには、生きている人間という意味もあるぞ」
 香川は立ち止まり、道の真ん中で、長い腕を大きく広げて空をあおいだ。ジョギング中の青年が、香川に迷惑そうな視線を投げ、横を走っていく。
「神宮、空を眺めてごらん」
 言われるままに上を向くと、雲一つない夏空が、気が遠くなるほど遠くまで広がっている。
「空はどんな色だ?」
「え、空色ですけど」
「空色にもいろいろある。濃いか薄いか、青か水色か群青色か灰色がかっているか……」
「絵具で塗ったような水色です」
「そうか。まったく同じ空の色は二度と見られないかもしれないな。風はどんなだ?」
「え?」
「肌で、全身で感じるんだ」
「熱風というか、湿気の強い生暖かい風です」
「どちらから吹いている?」
「川から吹いてきます」
「そうだな。いま、どんな匂いがする?」
「むせ返るような草いきれが鼻をつきます」
「うん。この葉っぱはどんな味がする?」
「葉っぱ?」
 香川は、足元の雑草の葉をむしり、いたずらっ子のような目で口に入れる。
「なかなか美味いぞ」
 私も虫がついていなそうな雑草の葉をむしり、恐る恐る口に入れる。青臭さと苦みに、思わず顔をしかめる。香川が、くっくと笑う。
「いま、どんな音がする?」
「蝉の鳴き声、川の流れる音、車の走る音」
「それから?」
「草むらからコオロギか何かの虫の声がします」
「うん。私は虫の声が聞こえる季節になると、つい音域を確かめたり、調律したくなる。同じ虫でも、微妙に出す音の高さが違って、不協和音に聞こえてしまう。うちの庭は、草ぼうぼうで、秋には毎晩虫のオーケストラが聴けるからな」
 音楽教師の香川は、やはり耳がいいのだろう。あまり口数が多いほうではないが、聴覚のことになると饒舌だと思った。
「自然には、音楽が溢れているな。古今東西の偉大な音楽家たちが、それを作品に残してくれている」
 香川は鼻歌を歌いながら、指揮をするように長い腕を優雅に動かし始める。
「何か感じたんですか?」
「音楽が降りてきた。自然が発した音楽が私のなかで鳴っている」
 香川は音楽を奏でるように腕を動かしながら続ける。
「神宮は生きているから、いま自然を感じられた。決して抜け殻じゃない」

「香川先生……」
「うん?」香川は腕を止め、私を真っ直ぐに見据える。
「やはり生瀬先生が言うように、いじめられるほうが悪いのでしょうか?」
「神宮、教師はそれぞれ考えがある。絶対的に正しい考えはない。神宮はわかっていると思うが、私は彼と同じ意見ではない。生瀬先生には、学校は虐めに対抗する方法を身に付ける場所だけではなく、人を虐めることは良くないと教える場所でもあると、きつく言っておいたよ」
 私は頷いた。「学校から逃げようとは思いません。でも、一学期に、学校で身体が動かなくなってしまったことがあって……。結構我慢強いほうだと思っていたので、自分の身体があんな状態になったことに戸惑いました。夏休みが終わって、学校に行って、またあの状態にならないか怖いんです……。それに」
 香川は黙って続きを待ってくれる。
「不登校になって、家族を悲しませるのも、家族に心が弱いと思われるのも嫌なんです……。うちの家族は、逃げるのは心が弱いと考えていて」
「そのようだな。我慢強い家系なのだろうな。神宮を見ていればわかる」
「私自身も、逃げてはいけないと思うんです。でも、学校に行けるか……」
 香川は少し考えてから、語り掛けるように話し出す。
「私は毎朝7時頃から、音楽室でピアノを弾いたり、歌ったりしている。まずは、早起きして音楽室に来てみないか?」
 口ごもる私に、香川は言い継ぐ。
「心配するな。夏休み中だから誰もいない。吹奏楽部の練習は午後からだ」
「行き……、ます」
 香川は口角をかすかに上げて微笑む。
「朝は気持ちいいぞ。一緒に自然の音楽を感じよう」


 香川との散歩から帰ると、死んだように眠ってしまった。目覚めると、空が暗くなり始めていた。こんなによく眠れたのは久し振りだ。

 窓のほうから何かが動く音がする。ベッドから起き上がり、恐る恐るのぞくと、網戸の端に蝉が一匹とまっている。何年も地中で過ごし、地上で生きられる時間はわずか。小さな昆虫が放つ生命力を確かに感じる。胸が熱くなり、気が付くと、頬を涙が伝っていた。

 さっき、香川と一緒に自然を感じたからだろうか。五感が開放され、自然の音楽を全身で聴いているのがわかる。カーテンを揺らす心地良い夕風。風に鳴る風鈴。前の通りを自転車で走り抜ける中学生の楽しそうな笑い声。ねぐらに帰る鳥のさえずり。私は生きている。

 枕元に置いたスマホから、メールの通知音がした。びくりと身体が強張り、鼓動が速まる。しばらくためらってから、意を決してスマホを手に取り、メールを開く。

神宮さんへ
 こんばんは。同じクラスの桜井絵梨香さくらいえりかだよ。今日の吹奏楽部の練習の後、香川先生から話を聞いたよ。もし、神宮さんが嫌でなければ、2学期から、私と千佳ちかと一緒にいない? 実はずっと、神宮さんが1人で寂しそうにしているのが気になってて、いろいろ話したいなと思っていたから、香川先生から言われたとき、めっちゃ嬉しかった。千佳も頭が良くて優しい神宮さんと仲良くなるのに大賛成。返事、待ってるよ(*^-^*)。絵梨香

 涙を拭い、返信を打ちながら、明日は早起きして音楽室に行くと決めた。

(完)