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ピアノを拭く人 第4章(5)

「赤城先生が女性だと知ったら、彩子が嫌がると思ったんだ」
 重苦しい空気が立ち込める車内で、透は低い声で弁明した。
「桐生先生だって、女性でしょう」
 言葉に詰まる透を前に、彩子は答えを恐れながらも切り出した。
「赤城先生が好きなの……? 2人の時間を邪魔されたくなかったから、診察に私を同席させてくれなかったの?」
 透に否定してほしかった。自分を納得させる理由で釈明し、何を勘違いしているのかと笑い飛ばしてほしいと祈りながら、息を詰めて答えを待った。

「憧れみたいなものだよ。彩子だって、好きな芸能人を遠くから応援したりするだろ?」
「赤城先生は、手の届かない芸能人じゃなくて、月1-2回は会える人じゃない!」
 彼女は、自分と全く違うタイプだった。華やかな顔立ちで、小柄で、可愛らしい。元宝塚の娘役トップといっても通用する美しさで、有能な医師であり、透の強迫症の治療に不可欠な人だ。

 自分に敵うところなど何もない……。

 そもそも、最初から勝負などできない存在だったのだ。透は赤城を喜ばせるために、良くなろうと頑張り、治療を続けながら傍にいられることに幸福を感じているのだろう。 
 透の言動の何もかもが意味を塗りかえられ、2人で築いてきたものが瓦解するような虚無感に包まれた。

 

 透を5時までにフェルセンに送らなくてはならないことを思い出し、彩子は無言で車を発進させた。風の唸りが、打ちのめされた心と共鳴するように寂しく響く。
「きれいな人だから、彩子が嫉妬すると思ったんだ。嫌な思いをさせて、本当に申し訳ない……」
 透はハンドルを握る彩子に体を向け、深く頭を下げた。
「私を赤城先生に会わせなかったのは、私を憐れんでいたから……?」
「そうじゃない。どうして、そう卑屈になるんだ」
「私も診察に同席させてほしかったよ……」
 思い返せば、透からもらったメールも、彼との会話も、赤城を賞賛する言葉に満ちていた。透は彼女に模範的な患者と思われたい情熱に動かされてエクスポージャーを頑張ったのだ。自分の存在が透をエクスポージャーに立ち向かわせたと信じていたことなど、とんでもない勘違いだった。
 透の治療はこれからも続くことを考えると、赤城の存在を彼から切り離すことなどできない。彼女の存在は、ずっと2人のあいだに立ちはだかるだろう。

「私は透さんの何? 性欲を満たすための女?」
 彩子はアクセルを踏み込みながら尋ねた。
「何で、そういうこと言うんだよ。自分を貶めるようなことを言うな!」
「そういう気持ちにさせたのは透さんだよ」
「考えてみろよ。赤城先生は医者だ。医者のご主人もいる。彼女が俺に特別な気持ちなど持つはずないだろ。ましてや、どうにかなるわけなんかないだろ」
「じゃあ、私は格下の女だから、透さんの自由になるっていうこと? 透さん、格好いいから、どんな女性も思いのままだもんね」
「そこのコンビニで止めろ!」
 透の空気を切り裂くような怒号に、彩子は黙ってコンビニに車を入れた。


「彩子」
 透は、正面を見据えて体を固くしている彩子の両腕を掴み、自分のほうに向かせた。
「俺は彩子が好きだ」
「一度に2人の女性を思うような器用なことできるの……? 私は絶対無理」
 こんなことを言ってしまったら、もう修復できないかもしれないという思いが脳裏をかすめる。だが、それは、つなぎ止めてほしいという願いと表裏一体だった。
「確かに俺は、赤城先生に女性としての魅力を感じた。だが、それは憧れのようなものだ。俺はその気持ちを治療に利用した。彩子と幸せになるために治りたいからだ。それが一番大切な思いだ!!」
 透はシートベルトを乱暴に外し、彩子を強く抱き締めた。
「痛いよ……」
 骨がきしむほどの力で抱き締められ、か細い声で抵抗しても透は腕を緩めない。

 彩子は透の腕に身を委ねることができなかった。

 透が自分を閉め出し、赤城との時間を大切にしていたことは厳然たる事実だ。彼を信じようとしても、以前のような純粋な気持ちで向き合えない。
「透さんの気持ちはわかった。後は私の問題だから……」
 彩子は透の体を渾身の力で離し、車を発進させた。


 透をフェルセンで下ろすと、彩子は目的のないまま冬枯れの街を走った。帰宅ラッシュに巻き込まれ、いつのまにか市の中心部に入っていた。惰性で車の流れに乗っているうち、デパートの駐車場に入る車の列に入ってしまった。

 デパートに入り、明るい照明に照らされた服や小物を無気力に眺めながら、とぼとぼ歩いた。歩き疲れ、誘われるように喫茶店に入ると、窓際の席に通された。店内には、モーツァルトのピアノソナタが静かに流れている。
 湯気の立つコーヒーを一口すすると、優しい温かさと苦みに、張りつめていたものが切れ、目頭が熱くなった。こんな場所で泣くわけにはいかず、気力でコーヒーを口に運び続けた。

「彩子さん!」
 グレイのコートにバーバリー柄のマフラーをした真一が、肩で息をしながら向かいの席に座ったので、彩子は息が止まりそうになった。
「真一さん、どうしたんですか!?」
「下から何度も手を振ったんですよ。彩子さん、全然気づいてくれなかった」
 確かに、この席は外から見え、道行く人の姿を観察することができる。
「すみません。ぼーっとしていて……」
 真一は持っていた菓子折りの紙袋を横の椅子に置き、コートを脱ぐと、店員にコーヒーを注文した。
「お菓子を買いにきたんですか?」
「ええ、父に頼まれたんです」
 真一はチェック柄のハンカチで、額の汗を拭いながら答えた。
 彩子は自分がひどい顔をしているだろうと思ったが、明るさを繕う気力が残っていなかった。
 コーヒーが運ばれてくると、真一はミルクをたっぷり注ぎ、スプーンで優雅にかき混ぜた。彩子は、透も自分もコーヒーはブラックだったことを不意に思い出した。

「何かあったんですか? 今日のあなたは、先日の凛としたあなたとは別人のような顔をしています」
 真一は案ずるような眼差しで彩子の瞳をのぞき込んだ。
 彼の低い声と優しい眼差しを前に、彩子はすべてを話してしまいたくなったが、辛うじて思いとどまった。
「信じてきたものが、崩れ去ってしまったのです。もう一度、信じられるのか、自分でもわからなくて……」
 彩子は力なく笑った。
「すみません。何を言っているかわかりませんね」


 真一はコーヒーカップを置き、包み込むような眼差しで問いかけた。

「コーヒーを飲み終わったら、私と一緒に来ていただけませんか? 自分の心と向き合うために最適の場所にお連れします」