見出し画像

連載小説「クラリセージの調べ」4-2

 アロマディフューザーから、クラリセージの香りが流れる。パソコンに取り込んだ曲から、クリスティーナ・アギレラのHurtを選び、連続再生にする。芳香は暖房の風に流され、調べを奏でるようにたゆたう。腰痛と子宮が収縮する痛みも手伝い、ソファから立ち上がる気力が湧かない。落胆しているのに、好きな香りに包まれる開放感を覚える自分が滑稽だ。

 カーテンの隙間から漏れる夕陽が時間とともに弱々しくなり、宵闇が黄昏時を飲み込んでいく。自然の営みと歌声は、直線的な時間の流れを教えてくれる。私だけ、そこから切り離されている孤独が胸に刺さる。

 歌声の隙間に、絹さんのワゴン車が駐車するエンジン音、皇太郎くんの奇声、お義母さんに体がしんどいとこぼす絹さんの声が耳に入る。

 難なく子供を授かれた絹さんの声が耳に障る。なぜ、私は空回りばかりなのか。もしかしたら、永遠にそちら側にいけないのではという空恐ろしい考えが突き上げてくる。

 頭を抱えて叫びだしそうになったとき、結翔くんの車のエンジン音が聞こえ、ヘッドライトの光が窓に反射する。彼を迎えなくてはと、腰をいたわりながら立ち上がる。

「俺、この匂い苦手。なんか紫蘇しそくさい」
 リビングに入ってきた結翔くんは、部屋に広がった香りに眉をひそめる。

 その仕草が烈しく癇に障り、感情の塊を投げつけるように言い放つ。
「クラリセージは紫蘇科しそかだからねっ!」

 ディフューザーを止め、窓を乱暴に開け放つ。侵入してきた夜の冷気に、クラリセージの香りが流れていく。

 窓際に立ち、結翔くんに背を向けたまま告げる。
「クラリセージは通経作用があるから、生理痛を和らげるのにいいけど、妊娠初期はNGなの。この香りがしたら、ダメだったと思って……!」

 凍り付くような沈黙を切り裂いて言い添える。
「ごめんねっ、人工授精に協力してもらっ……」

 言い終わらないうちに、背後から強く抱きしめられた。

 息苦しいほどに覆いかぶさるダウンジャケット、巻き付けられた力強い腕、冷えた頬、整髪料の匂い、結翔くんのやりきれなさと優しさ……。五感に一気になだれこむ刺激に思考を奪われ、暴れて振り払いたいのに、体が動かない。

 こんなとき、世の夫は妻にどんな言葉をかけるのだろうか? 

「まだ一回目だから気楽に行こう」、「もともと、人工授精で妊娠する確率は15%くらいだろ」、「君は何も悪くない」、「今回は残念だったけど、気を取り直して頑張らないと、赤ちゃんに会えないぞ」、「いつまでも落ち込んでいると体に障るぞ」、「諦めたら終わりだぞ」、「金のことも周囲のことも気にしなくていいから、体を労われ」、「授かったときの喜びを想像して、次を頑張ろう」、「次に備えて、とりあえず、しっかりメシを食おう」……。

 恐らく、そのどれも間違っていないし、そもそも正解などない。
 だが、妻は何を言われたとしても、苛立ちと悲しみの感情に油を注がれる可能性が高い。

 何も言わずに抱きしめてくれたのは、無骨な彼の精一杯の労わりなのか、何を言っても私が感情的に反応すると計算しての行動なのだろうか。どちらにせよ、言葉にできない感情をぶつける機会を封じられ、燻りを残したまま彼の腕を解く。

 根菜たっぷりの豚汁を温め直しながら、味噌の香りに空腹を感じる自分が、情けなくも愛おしくもなる。

 結翔くんは、湯気の立ち昇る椀に七味唐辛子を振ってから手に取る。
「うまい、澪の豚汁は世界一だよ」
 
 明るい声が空々しく聞こえるが、唇の両端を軽く押し上げて笑みを作る。


 以前読んだ小説か漫画に、流産した妻が、無神経な夫の言動に癇癪を起こし、実家に帰る場面があったことを思い出す。そんなふうに爆発できたら、気持ちが収まるのかもしれないが、それがもたらすメリットは何もないと気づく。

 結翔くんは、ほうれん草のお浸しをつまみながら言う。
「今日、俺のクラスの不登校の子と両親が学校に来て面談したんだ」

「お疲れ様。どうだった?」

「うん。その男子は、成績はいいけど、言動や仕草をからかわれて虐めの対象になってしまうんだ。小学校から今まで、ずっとそんな感じだったらしい。本人は東工大に進んでAIの研究者になりたいから、余計なストレスなく勉強に集中できる通信制高校に進みたいと言っている。俺はよい選択だと思うけど、両親は大反対」

「その生徒さんは特定能力が突出した神経発達症かもしれないね」

「詳しいんだな」

「私、試験監督の人材派遣の仕事をしてたから、そうした方がいる試験室の監督員マニュアルを作ったことがあるの。だから、そのとき勉強した」

「そうだったのか。澪が親だったら、通信に進むことに賛成する?」

「私は賛成。脳がアンバランスに発達したのだから、無理に周囲と同じにする必要はないよ。それよりは、突出した能力を伸ばすほうが、本人にも社会にもプラスになると思う」

「そうだよな。でも、ご両親は、そういう新しい考えを受け入れられない。イレギュラーな道を進ませるのは世間体が悪いの一点張り。それに、人間関係は一生ついて回るのだから、今から逃げていたら、将来が心配だと言い張る」

「その気持ちもよくわかるよ。でも、息子さんの幸せを一番に考えてほしいよね。いまは、テレワーク中心の仕事も増えてるし、大学教員になれれば似た傾向の人が多いから、それほど目立たないし。無理に王道を進ませるよりも、息子さんが社会で能力を発揮するために必要な能力を身につける手助けをしてあげたほうがいいと思う」

 結翔くんは光を帯びた瞳で深く頷く。 
「よくわかってるな。澪と考えが同じで本当に嬉しい……」

 結翔くんと自分たちの子供の将来を話す場面を想像してしまい、彼と視線がぶつかる。彼も同じことを考えていたのかもしれないと思い、はっとして視線を外す。

 彼は微妙な空気を破るようにお椀を差し出す。
「豚汁、おかわり!」
 
 気持ちよく空になったお椀に豚汁をよそう私の背中に、彼が話しかける。
「そうだ。さっき、絹姉ちゃんとすれ違って、ちょっと話したんだ。姉ちゃん、身体が辛いから、日曜日に皇太郎と一緒にこっちに来て休んでいくそうだ。おふくろは子供食堂で留守だから、皇太郎をうちで預かってくれと言われた。俺がショッピングモールに連れて行くから、澪は関わらなくていい。どこかに出かけていてもいいよ」

 その瞬間、結翔くんと私と子供が、休日のフードコートでお昼を食べながら笑っている場面が稲妻のように脳裏を走った。子供の顔は見えず、男の子か女の子かもわからないまま霧消していく。

 なぜだかわからないが、そんな場面が現実にならないかもしれない予感に襲われ、全身に悪寒が走る。

「私も一緒に行くよ!」

 反射的に言葉が飛び出していた。

「澪……」
 結翔くんが、驚きと憂慮の浮かぶ瞳を私に向ける。

「そういうことしてみたかったの!」

 彼の黒々とした瞳が濡れたように輝きを増す。その瞳に映る私は、穏やかに微笑んでいる。

   

                 ★
 モール内のわいわいパークは、子供たちの歓声があふれている。ボールプール、風船が風でふわふわ浮いているスペース、お店やさんや病院などの「ごっこ遊び」ができる空間、メリーゴーラウンドのようにくるくる回る遊具、ピースを組み合わせて立体的な形を作る色彩豊かなおもちゃ……。完全に生活圏から外れた空間に足を踏み入れた私は、音と色彩の洪水に胸が騒ぐ。
 
 皇太郎くんは、真っ先にエアバルーンでできた光る遊具に走っていく。身体能力の高い彼は、軽快に登りきり、得意そうに降りてくる。ふわふわした感覚が気持ちいいのか、心行くまで繰り返す。見守る結翔くんと私は、彼が他のお子さんにぶつからないかと気が気ではない。

 それに飽きた皇太郎くんは、ボールプールに飛び込み、手足を大きく広げて仰向けになる。周囲のボールを跳ね上げてみたり、たくさんのボールの中で、ばたばたと手足を動かし、普段は味わえない身体感覚を堪能している。時々、後ろのソファで見ている結翔くんと私に、ネット越しにボールを投げつけたり、仰向けに横たわって顔以外をボールに埋めたところを見てくれと叫んだり、楽しそうだ。私と結翔くんは、彼に手を振ったり、「上手だよ」と声を掛けたりで忙しい。結翔くんは、皇太郎くんが遊ぶ様子をスマホ動画で撮影し、絹さんに送信している。

 周囲には似た年齢の子供と保護者が何組かいる。彼らの顔を見比べれば、血縁があるのが一目瞭然だ。私たちも、傍目からは幸せそうな三人家族に見える気がし、夫と皇太郎くんに慈愛に満ちた笑みを向けてみる。
 そんな自分が虚しく、つま先からせりあがってくるような疎外感に飲み込まれる。なぜ自分はいつまでも向こう側に行けないのか、結翔くんを行かせてあげられないのかと恐ろしくなる。

 重苦しい空気をまといだした私に、結翔くんが敏感に気づいてしまう。
「大丈夫か? しんどければ、帰ろうか?」

「平気。あれだけ遊んだらお腹空くよね。お昼食べていこうか」
 いまは結翔くんに父親気分を味合わせてあげたい、そして私もこの瞬間を楽しまなくてはと気持ちを立て直す。

 心ゆくまで遊んだ皇太郎くんの頬は、興奮で紅潮している。片方の手を結翔くんとつなぎ、飛び跳ねるように歩いている。そのとき、皇太郎くんがもう片方の手を私に差し出す。

 いつも、お父さんとお母さんとしていることを無意識にしたのか、私にそうしてほしかったのかはわからない。

 瞬きをする時間ほどのためらいの後、その手を取る。遊んだ高揚感が残る小さな手は、じんわりと温かい。私と結翔くんは、皇太郎くんを真ん中に、休日で込み合うモールの中を歩いている。同じようなことをしている親子のなかに、私たちも自然に混じっている。そのことに、津波のような歓喜が押し寄せ、全身が打ち震える。

 以前は、休日の昼時のフードコート以上に避けたい場所はなかった。小さな子供を連れた家族があふれ、甲高い子供の泣き声、金切声で叱る親の声、食器の触れ合う音、料理の出来上がりを知らせるブザー音が混じり、相手の声さえ聞きとりづらく、一刻も早く去りたくなった。

 だが、いまは大嫌いだったその空間に三人でいられることが、ぞくぞくするほど嬉しい。

 私は座席を確保するためにテーブルで待ち、結翔くんは皇太郎くんと手をつなぎ、人でごった返すなかを歩いて、一つ一つの店を見て回る。二人はたこ焼き屋の列に並ぶ。皇太郎くんは、さっきのパークのガチャガチャで出たフィギュアをポケットから取り出し、結翔くんに説明している。

 ブザーを持って戻ってきた二人が、ボールプールで撮った動画を見ているあいだ、私は三人分の水を取りに行く。

 たこ焼きのトレイを受け取った結翔くんは、待っている私たちに手を振り、私も振り返す。彼も俳優のように幸せな父親を演じているのかもしれない。

 焼きたてのたこ焼きは舌を火傷するほど熱い。私は皇太郎くんが火傷をしないよう、たこやきを箸で割り、ふーふー冷ましてから食べさせる。熱いといったら、すかさず水を飲ませる。隣のテーブルでうどんを食べているお母さんが、「どうして自分のを食べないで、お母さんのばっかり欲しがるの」と三歳くらいの女児に文句を言っている。背後のテーブルでは、小学校高学年に見える少年が、ちゃんぽんをもう一杯食べたいと父親にねだっている。一緒にいるおばあちゃんが、食べ盛りだからしょうがないねと目を細めてお金を渡す。いつもは、耳を塞ぎたくなる喧噪が、今日は幸せの証のように響くのが不思議だ。

 結翔くんが二人分のうどんを買って戻ってくる。私のかま玉うどんを見た皇太郎くんが食べたいというので、私は取り分けるお椀をもらいに立つ。その間に、皇太郎くんが割り箸を落としてしまったようで、もう一つもらってきてと頼まれる。結翔くんは皇太郎くんの食べこぼしを紙ナプキンで拾いながら、カレーうどんをすする。私が、ようやくマスクを外して食べ始めたところで、皇太郎くんがお水をもう一杯飲みたいと言い出す。私も結翔くんも、落ち着いて食べる暇などない。温かいご飯がゆっくり食べられないとこぼしていた絹さんの気持ちがわかったが、なぜかとても幸せで目元が緩む。それは、結翔くんも同じようで、不意に視線が重なって微笑み合う。

 絹さんたちへのお土産に買ったドーナツの箱を下げ、三人で車に戻る。皇太郎くんは、買ってとせがんだサーティーワンのアイスクリームをなめながら歩く。結翔くんは、それを取り上げ、「持ってて」と私に預けると、皇太郎くんを軽々と抱き上げて肩車する。陰り始めた冬の陽が、そんな私たちに降り注ぐ。