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ピアノを拭く人 第4章 (3)

 彩子は、緊張と名状しがたい重苦しさを振り払うため、マウスを握る右手に力を込め、動画の編集に集中した。自身の強迫症の症状を語る4人の動画には、真実の声だけが持ちうる力強さがある。タクミの顔をスタンプで隠し、ボイスチェンジャーで声を変えても、その力は些かも失われない。彩子は透のピアノ演奏をBGMにし、完成した動画を各自に送信した。

 

 作業を終えた彩子は、白いセーターとボルドーのスカートパンツにコートを羽織り、袖口にオムニア アメジストを一滴垂らして、駅に向かった。からっ風にたなびくマフラーを押さえながら歩くと、駅に着くころには、汗をかくほど体が温まっていた。


 待ち合わせ相手の顔をはっきり覚えていないが、駅の改札を行き交う人の流れの中でも、スキンヘッドと姿勢の良さで、すぐにわかった。彼が、きょろきょろしている様子なので、彩子から声を掛ける。
「一条さんですよね?」
「水沢さんですか?」
 彩子がうなずくと、真一はきりりとした目元をほころばせた。
「初めましては、少しおかしいですかね……?」
「いえ、子供のときにお会いして、あとは昨年の法事のときに少しお話して以来なので」
「そうか、子供のときに会っているんですね。実はうちの寺には、いろいろな方が来るので、あまり覚えていないんです」
「無理もありません。夏休みには、まるで学童保育のように、たくさんの子がお寺に遊びに来ていましたから。父に連れてきてもらった兄と私も、どこの誰だかわからないお友達と、お寺の庭を夢中で駆け回っていました」
 彩子はそう口にしながらも、子供の頃、一緒に遊んだ優しいお兄さんが自分を覚えていなかったことに少しがっかりしていた。だが、そのことで気が楽になった。


 真一がお勧めだという日本茶の喫茶店で、彩子は初めて彼と向き合って座った。窓に面した席なので、木枯らしに吹かれて歩く人々の視線が少し気になる。


 真一がマスクを外すと、凛々しい眉と涼やかな目元、筋の通った鼻、薄い唇が顔を出した。背筋を伸ばして玉露をすする姿は、お茶のテレビコマーシャルに出てくる俳優のように、さまになっている。
「彩子さんのお父さんとうちの父は、高校で同級生だったんですよね」
「はい。落語研究会でも一緒だったようですね」
「ああ、法事の後に酒が入ると始まりましたね……。あれは参りますね」
 真一の声は、御経を唱えるために鍛えているせいか、よく通る。だが、聞きなれた透の声よりも少し低く、店内に響きすぎることが鼻につく。彩子は真一に失礼だと思いながらも、透と比べている自分が愛おしかった。

 

 彩子は、早めに本題に入り、切り上げてしまいたかった。
「あの、私が法事のときに、せかせか動き回るのを見て、お寺の奥さん向きだと思ってくださったようなのですが……」
「ええ。周囲に細やかな気遣いのできる方だと思いました。寺の奥さんには、檀家さんとの関係を維持するために、そうした気質が必要だと思いました」
 真一は彩子を安心させるように言い継いだ。
「まあ、父が現役のあいだは、母と出戻りの長姉がその役を担っていますし、私の代になっても多分どちらかがいますから、必ずしもその仕事をしていただく必要はありません。私は妻になる女性には、仕事を続けたければそうしていただいて、専業主婦になりたければそうしてほしいのです。もし子供ができなければ、寺を継ぎたい人はたくさんいるので、養子をとればいいと思います。ただ、私の両親や長姉、檀家さんと面倒さえ起こさないでいてくれれば、贅沢をさせ、ストレスなく過ごせる環境をつくってあげたいと思います」
 彩子は両親を喜ばせることができ、これ以上ない条件だと認識しながらも、頼りにされずに生きる日々に張り合いのなさを感じるだろうと思った。大和に求められた家政婦のような役割でも、自分はそれが嬉しかった……。


「そうだとすると、私、がっかりさせてしまうと思います……」
「どういうことですか?」
「うちの母、ご存じでしょうか?」
「ええ、水沢さんの奥さんは印象的です。かなり、はっきり物をおっしゃる方ですね。彩子さんは、また少し違うタイプですよね。法事のときも、お母さまを宥めてその場の空気を和ませてくださいました」
「いえ、実は私、あのとき母と同じ意見でした。それに、私は穏やかな父よりも、どちらかというと母似で、おかしいと思うことを正そうとしてしまうんです」
 真一は眉間にかすかに皺をよせ、身を乗り出して尋ねた。
「あのときは、たしかお布施の話でしたよね?」
「はい。先代の法要とお寺の改築を行う件で、奥様にお話をいただいたときで……」
「ああ……」
 あのとき、奥様に遠まわしに持ちかけられた母が、いつも以上に出すつもりはない、寺の建物をそんなに豪華にすることは私たちが望むことではないと言い張り、宴席に不穏な空気が漂った。事前に父にも話があり、角が立たないように、のらりくらりとかわしてきたので、財布のひもを握る母に話がいったのだろう。


「少しずれているかもしれませんが、私、あのとき、大阪にある安藤忠雄氏の『光の教会』のことを考えていました。安藤氏たちが、教会側の出した予算で工夫した結果、彼の代表作となったあの教会が生まれたことです。安藤氏の名前で寄付を募れば、様々な方面からお金が集まったかもしれません。でも、それでは信者のための教会ではなくなってしまったかもしれません。そのことを思いながら、檀家に無理のない範囲でお寺が立派になってくれればいいなと思っていました」
 一気にまくしたててしまい、彩子は気まずさにお茶をすすった。真一は腕組をして黙っている。
「失礼なことを言ってしまい、大変申し訳ございません。お寺にはお寺の事情があるのに。私、こんな性格なので、ご家族と衝突しますし、お寺が大切に築いてきた檀家さんとの関係を壊してしまいますよね……」
 真一は腕組みを解き、ふっと笑った。
「そうかもしれません。しかし、貴女は面白い人だ」
「え?」


「彩子さん、お伺いしていいですか?」
「何でしょう?」
「檀家さんとして、寺にどんなことを期待しますか?」
 真一は挑発的とも読める光を浮かべた瞳で、彩子を正面から見据えている。
「そうですね……。私は、お通夜やお葬式、法事の際に、お坊さんがお経をあげて、飲食をして帰ってしまうのではなく、大切な人を亡くした遺族を慰めるお話をたくさんしてほしいと思います。お寺を立派にしてくださったり、高価な仏具を揃えてくださるよりも、そのほうがずっと嬉しいです」

「なるほど。これは一本取られましたね」
「すみません。偉そうにまくしたててしまって……。基本的な価値観が違う私のような人間と、日々を過ごしたいと思いませんよね。今日はお時間をいただいてしまって、本当にすみませんでした」

「いえ、こちらこそ、お父さんを通して無理にお願いしてしまって、申し訳ございませんでした。恋人がいるのに、会ってくださったんですよね」
「とんでもないです。お会いできてお話できて、嬉しかったです」
「私も楽しかったです。ご遺族を慰めることは、私ももっと真摯に取り組むべきことだと思っていました。だからこそ、心に届く言葉を持ちたいと勉強してきました。海外留学をし、県の職員になったのも、視野を広げて、深味のある言葉を持てる人間になりたかったからです」
「素晴らしいと思います。住職様は頼もしいでしょうね。余計なことを言ってしまい、本当に申し訳ございませんでした」

 真一は急須を手に取り、彩子の茶碗に茶を注いだ。
「彩子さんとは、堅苦しい話を抜きに、友人でいたいと思うのですが、迷惑でしょうか?」
「いえ、喜んで。実は、私、法事のときに真一さんが少し話してくださった輪廻転生のお話と、ハワイに研究留学していらしたときのお話に興味があって、いつかお伺いしたいと思っていました」
「もちろん、いつでもお話ししますよ。あいにく、今日はこれから会合があるので、難しいですが。あ、よかったら、これ、私の名刺です」
 彩子は慌てて、バッグを探って名刺ケースを取り出し、真一に1枚差し出した。

「試験運営?」
 真一は、彩子の会社名を見て、訝し気な顔をした。
「はい。最近は、現場に出るよりも、すっかり技術屋になってしまいましたが……。この時期なので、オンラインの試験監督システムの開発に携わっていました」

「そうですか、実はコンピューターに詳しい人に相談したいと思っていたんです。私、この時期ですから、オンラインでお葬式や法事ができないかと考えているんです。父や母は、味気ないと乗り気ではないのですが……。それにYou Tubeで法話を配信してみたいとも思っています」
「素晴らしいと思います。私でお力になれそうなことがありましたら……」
「ぜひ。あ、父には上手くいっておきますので、そちらのほうは心配せずに、気軽にお付き合いいただけましたら……」
「ありがとうございます。そして、本当に申し訳ございませんでした」彩子は深く頭を下げた。


 彩子は、自分の両親と真一、彼の両親に対する申し訳なさと、真一の魅力的な人柄に触れて湧いたほんの少しの後悔に胸が痛んだ。

 だが、透に会いたい思いが募るのを押さえられなかった。彼が仕事を終える5時まで時間をつぶし、速足でフェルセンに向かった。

「お疲れ様!」
 彩子は裏口から出てきた透を待ち伏せして抱きついた。今日はヒールの高いブーツを履いているので、無理なく透の首に手が届く。
「何だよ、驚かせるなよ」
 透は片手で彩子を抱きとめた。
「会いたかった……」
「うん、俺もだ」
 透はカバンを下に置き、手袋をした両手で彩子の冷えた頬を優しく包んだ。
「次のカウンセリング、明後日だよね?」
「ああ、一緒に行こうな」
 黒いコートの胸に頬をつけると、すっかり馴染んだアラミスの香りが鼻腔をくすぐった。