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破壊のあとに残った美――アファナシエフのリサイタル


 ヴァレリー・アファナシエフの演奏は、好むと好まざるとに関わらず、聴き手のなかに大きな問いとなって残る。11月25日のリサイタル(紀尾井ホール)を聴いた。
 最初のハイドンのソナタ第20番ハ短調が弾き出された瞬間から、悲しみを歌うためだけに存在しているかのような音に引き込まれた。ペダリングやテンポ感をはじめ、一般に想像される古典的な演奏とはやはり全く違うが、音に透明で冷たい艶を纏わせ、ハイドンの音楽の暗部を引き出してゆく。2曲目の第44番ト短調の第2楽章でこそ、軽快な表情も聴かれたが、背後にある闇が晴れることはない。
 休憩中もその音が耳から離れなかったが、この日、その表現がいよいよ大きな問いとなって突き付けられたのは、後半の演奏であった。
 メインプログラムのムソルグスキー『展覧会の絵』。アファナシエフは、作曲家の、音というかたちを得る前のまだ剥き出しの状態の情念を感じ取り、それを演奏に露わにする。苦悩を引きずった、そのまま音楽が進まないのではと思われるほどの長い休止やフェルマータ(「小人」、「カタコンブ」など)、憤怒自体が歩いているような「ブイドロ」、その一方で、短調のプロムナードや「殻をつけたままの雛鳥のバレエ」では、ぞっとするほど妖しい美音を聴かせる。そして、一音一音が鉄槌となって降りかかってくる「バーバ・ヤガー」。……
 最後の「キエフの大門」は、意外なほど柔らかく、彼岸のような穏やかさをもって始められたが、やがて、彼岸にも此岸にも安らぎなどないと告げるかのように、鐘の音が絶望の轟音に様相を変えてゆく。最後の延々と続けられたトレモロは、もはや鐘の音ではなく、人間の欺瞞を嘲る哄笑となって降りかかってきた。
 通常なら、この大曲だけでプログラムは閉じられるところだが、最後に追い打ちをかけるようにラフマニノフの短調の前奏曲が2つ弾かれた。作品32-12のあのアルペジオが、彼の手にかかると、美しい鈴の音色などではなく、心に取り付いて離れない暗い観念に変容する。「キエフの大門」の鐘の音と関連付けるようにして置かれた作品3-2『鐘』では、この世に沈殿するすべての暗いものを彼一人が引き受けているかのようだった。
 彼の演奏が問いとなって残るのは、音の底にある、彼以外には聴き取れないものが演奏に表出されることで、その楽曲について私たちが持っているイメージや先入観が破壊される――つまり、自分の価値観が揺るがされ、破壊されるからだろう。
 さらに、アファナシエフの表現は、『鐘』において顕著だったように、現代社会の底に流れている私たちの不安や絶望を、極限的なかたちで映し出しており、聴く者はそれらと向き合わざるを得なくなる。その意味で、アファナシエフは、極めて現代的な演奏家であるとも言えるだろう。
 アンコールにショパンのワルツ第7番が演奏された。ここでもやはり、ショパンについての通俗的なイメージは打ち砕かれる。
 しかし、あの旋回するパッセージは、すべてが破壊しつくされたあとに奇跡的に残った花のように美しかった。

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