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芸術家の仕事

 子供の時から、「悲しいから明るい曲を聴こう」だとか、「辛いから楽しい映画を観よう」だとか、そういう風に思ったことが、ほとんどない。私は悲観的な人間であるうえ、自他ともに認めるひねくれ者なので、自分が鬱屈したものを感じているときに、逆の雰囲気のものを見たり聴いたりすると、どうしても「自分のことじゃないな」だとか、「現実はこんなものじゃない」などと思ってしまう。
 勿論、私は、悲しいときに明るい作品に触れることを否定しているわけではない。どんな気分のときにどんな作品に触れようと、それはまったく個人の自由であるし、ハッピーエンドの作品や、コメディが嫌いなわけでもない。
 けれども、昨今の世の中や芸術業界(の一部)を見ていると、どうも「人を前向きな気持ちにする」ということこそが、芸術やエンターテインメントの最たる力であるかのように考えられているように感じるのだが、そのことに私は、疑問と閉塞感を覚えている。
 ほとんどの人がそうだろうが、私は、何かを押し付けられることが非常に嫌いである。「幸福」のような、およそ人が最もそうありたいと願うことでさえ、それが「ならなければならない」、「そうあらねばならない」といった言葉と共に語られると、どうしても息苦しさを感じてしまう。ポジティヴなメッセージであっても、過剰になれば、それは暴力性を帯び、受け取る人にとっての重圧となるのである。それで前向きになれる人はいいが、世の中には、私のように、そうでない人もいるのである。
 声高に前向きなメッセージを発することよりも重要なのは、悲しみや怒り、恐怖といった、いわゆる「負の感情」を、粗雑に扱わないことではあるまいか。自分のものであれ、他者のものであれ、そうした感情を否定してしまわずに、受け入れるということではあるまいか。
 私は、明朗で軽快な表現に触れて心が軽くなることもあるが、その一方で、激しい苦悩が刻まれているような表現に触れたときの方が、より深い救済の瞬間があると感じている。他者の苦悩や孤独の表現が、自分のそれと重なり合ったときに、初めて感じることのできる慰藉がある。それは、孤独には孤独をもってしか寄り添うことはできないからである。そして、そのことを知っていればこそ、希望の表現もまた真実味を帯びたものとなる。
 もっと単純に、私自身は、現実から束の間解放されるという意味でも、気楽な雰囲気のものよりも、何か切実な叫びが込められたものに触れている方が、深い没入感を得ることができる。
 芸術は最終的には、生きていること自体を肯定できる心境に人を導くべきだろう。しかし、今抱えている切実な問題から逃避していては、その境地に至ることはできない。人間は、そんなに簡単に癒されたり、前向きになれるほど、単純ではない。
 それに、必ずしも完全に立ち直れたり、傷が完全に癒えなくてもいいのである。そういう意味も含めた肯定感を与えてくれるのが芸術であり、そこには確かに、諦めが含まれているが、それは優しさとしての諦念とでも呼ぶべきものである。現代、とりわけ自己責任論が根強い日本社会では、この優しさとしての諦念が失われているとも常々感じている。
 世の中が聞き取れない、人間の声にならぬ叫びに音を与え、言葉を与え、形を与えていくことこそが芸術家の仕事であると、私は強く信じている。

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