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【「音楽家である前に人間である」とはどういうことか】五十嵐沙織×篠村友輝哉 「音楽人のことば」第7回 後編

(前編はこちら

ーー音楽家であることは自分のすべてではない

篠村 僕たちはみんな固有名があるわけですけど、それって説明しきれないものですよね。篠村友輝哉はピアノを弾いていて文章を書いていて読書が好きで…といくら説明してもしきれない。逆に言うと、そのなかの何かを抜いたとしても、自分が自分でなくなるわけではない。それはつまり、自分のアイデンティティというものが、一つのものに依存しているということではないということです。僕は小説家の平野啓一郎さんの「分人主義」という考え方に非常に影響を受けているのですが、いろいろな部分が縒り合わさって、その全体として見えてくるものが「自分」というものだと考えています。確かに、僕のアイデンティティにとって音楽は最も大きなものを占めていますが、それがすべてではない。
 音楽家やスポーツ選手は練習だけしていればいい、勉強しなくていい、政治についても語らなくていいみたいなことを言う人もいますけど、だったらそれに特化したロボットと違わない。人間が演奏する意味がない。

五十嵐 音楽が自分にとってのすべてになってしまうと、それこそ音楽家である前に人間である、ということではなくなって、音楽家というものに自分を当てはめていくような生き方になってしまうよね。でもさ、本当にそういう人多いよね(笑)。私もそういう人になろうとしていたけど、無理だった(笑)。
 演奏家って、年間に何本も演奏会をやっていて、そこには、年間何本やらないと生きていけないとか、お金の問題があるじゃない。それが自分である前に音楽家になってしまうことの大きな要因の一つだと思う。今は、料理とか植物とか自分を構成しているいろいろなものがあるうちの1つとして音楽を捉えられているけれど、その他のものを無視して演奏会を開いていたときは、自分で自分に嘘をついているように感じることもあった。聴いてくれている人に対しても。でも、本当に人それぞれの事情があるから簡単ではないけれど、私はこれからの世界は、そういう音楽家の在り方はなくなっていくんじゃないかと思っていて。例えば、人によっては演奏会が生涯に数回とかになってもいいんじゃないかな。グレン・グールド(*カナダのピアニスト。コンサート活動を途中でストップし、以降は活動を録音のみに限った)みたいな人もいたけれど、いろいろな形の音楽家が出てきてほしい。そういう演奏家でありたいし、そういう人の演奏会に行きたい。

篠村 最近いろいろな方が推奨するようになってきた職業の複数化という話に通じてきますね。日本の場合、終身雇用のイメージが強くて、自分が選んだ職業を一生やり通すという認識がまだ一般的な気がしますけれど、我々の話で言えば、常に音楽といい関係でいられるとは限らないじゃないですか。

五十嵐 うん、本当にそう。

篠村 長く続けるほどに、音楽との関係が難しくなる時期というものはあります。音楽、それも何か一つの分野だけに頼っていると、そういう時期が来たときに本当に自分が終わってしまうかもしれない。
 僕は、演奏と指導と執筆の3つを仕事として続けていきたいと思っていますが、そのときに、結局ピアニストなんだよねとか、結局指導者なんだよね、とかあまり言われたくないんですよ(笑)。どれも自分にとっては本気でやっていきたいことですから。だから、五十嵐さんが仰ったような音楽家の在り方も、社会全体に受け入れられていくといいなと思います。
 さらに言うと、この人はソリスト、この人は伴奏、この人はカルテット、みたいなものも必要ないんじゃないかと思います。何か一つを徹底的に専門的に学ばないと、その分野の本当のプロフェッショナルにはなれないという考え方の人もいますが、僕は必ずしもそうは思いません。繰り返しになりますが、常にその一つのことがうまくいくとは限らないので、リスクヘッジのためにも、演奏家という職業のなかでも複数化していく方がいいのではと思います。

五十嵐 日本人って肩書、ブランドが大好きだからね。

篠村 肩書を重視するから、結局あなたは何者なんですか?という質問をする(笑)。

五十嵐 それがしかも、忙しくしてなきゃみたいな思いと結び付いてしまう。スケジュールを埋めたがる人って多いけど、それはやっぱり恐れからだったり、無の状態で何をしたらいいかがわからないからで、そのときそのときの自分の状態を見てあげていないからだと私は思っていて。私はこの2、3年がターニングポイントになっているんだけど、自分がいま何を感じているのか、何を思っているのかということを大事に抽出して、それ意識的にやってきた日々があった。自分がそういうオープンな状態でいれば、(ジャンルについても)ソロを集中的にやる時期があったり、アンサンブルの機会が多い時期があったり、演奏会が続いたから少し休んでとか、そういう自然な状態でいられるんじゃないかな。みんな本当はそういう状態を望んでいると思う。それが叶わない様々な事情があったり、それを自分に許すことができなかったりするんだけど。

篠村 僕は詰め込みとか短期集中ができない人間なので(笑)、練習も継続していないとだめなタイプですが、何となく休むことに対する罪悪感みたいなものありますよね、音楽家って(笑)。

五十嵐 ある(笑)。

篠村 「音デトックス」の記事(五十嵐さんはピアノに触れない期間を設けている)も読みましたけれど、ああいうことって実は大事ですよね。

五十嵐 あれとかもさ、私はもう当然になっているけど(笑)、昔の私だったら師匠とかには見せらない記事で(笑)。ああいうことって勇気がいる人にはいるよね。

篠村 時間ができると余計なことを考えるから忙しくしていた方がいいっていうのと似ていますよね。ワーカホリックっていう言葉がありますけど、とにかく働きづめにすることで偽りの充足感を得て、蓄積された疲弊や渇きに気が付かない状態です。だから、あるとき突然、自分が崩壊してしまう。自分の実存的な問題とかに向き合う時間というのは日ごろから大切にしているべきで、確かにあまり考えたくないようなことを考えてしまうこともあるけれど、そういう時間も巡り巡って音楽にも返ってくるはずです。

五十嵐 そうでないと、その人が弾く意味がないよね。

ーー自分がすべてをコントロールすることはできない

篠村 演奏家を見ていると、コンクールや試験を受けてきているからか、世の中は結局自分の実力や努力次第だと思っている人が多いように思います。僕は、本人の努力だけではどうにもならないものがあるといつも言っていて、新自由主義的な考え方には断固として反対しています。それはコンクールもそうで、身も蓋もない言い方ですけど、音楽を愛しているわけではない人が優勝したり、素晴らしい才能を持っている人が一次予選で落ちてしまうということは現実にあることです。それなのに、例えば本選に残った人の多くが桐朋生だったりすると、「桐朋生が『頑張っていて』嬉しい」という言われ方をする。本選に残る人と残らない人を分けるのは努力だと言い切るのは、非常に狭いものの見方ですし、暴力的です。努力はみんなしてますから。でも、これは根が深くて、そういうことを言う人って、特別そういうつもりがあって言っているわけではない場合もあると思うんですね。つまりそのくらい、努力至上主義的な考え方が浸透してしまっているということです。

五十嵐 私も、特にレッスンを受けていたころは、努力さえすればと思っていた。しかも、例えば一曲仕上げるとして、それをある一定の角度からしか見ることができていない、曲の始まりから終わりまで(その一定の角度にとっての)正解に近づけるための完璧主義的な努力をしていた。完璧に最初から最後までよく練習されている演奏、そういうものを意識して日々練習していた。でもあるときに気づいたんだよね、それは人が感動する要因になるわけではないということに。そこから少しずつ、自分がすべてをコントロールできる、完璧でいなければならないという思い込みを手放していった。
 私は、選択って大まかにいって愛か怖れかのどちらかだと思っていて。例えば、ある曲の中で衝撃を感じさせたい部分があったとして、そこが同時に技術的に難しい場所でもあったとする。技術的な難しさを克服するということと、音楽的に表現したいことの葛藤というのはよくあるじゃない? そのときに、難しいところで音を外したくないという守りの演奏をしないで、その衝撃を出したいという自分の想いをドンと乗せる。そこで怖れに打ち克って愛を選択する練習を(思い込みを手放し始めてから)したの。それは、ある価値観の人にとっては、「よく外す演奏」になってしまうかもしれない。私たちはレッスンをたくさん受けているから、「そこ外した!」と指摘してくる先生みたいなのが自分の中に存在してしまっている。だから、こう表現したいという思いがそれを上回るようにする、そういう練習をしていった。(本番で)うまくいかないときは本当にいかない(笑)。でも自分でやれるだけのことはやったうえで、結果はどうなっても、それはそうなるべくしてなったということで。

篠村 演奏という行為にも、自分の意志で切り拓いていけるものとそうでない、ある意味運命的な要素の両面がある、ということですね。
 愛か怖れかという話は、小山実稚恵さん(*ピアニスト)も同じことをおっしゃっていました。「四角のなかに丸を書くなら、その四角からはみ出るくらいの気持ちで丸を書く、そういう演奏をしたい」と。

五十嵐 素敵…その表現。その四角と丸は、四角が音楽家であることを最優先してしまう私で、丸が人間である私、という風にも見れるね。四角から丸がはみ出たときに、そのはみ出ている部分が(前編の話に出た)知らぬ間に出る部分なんだな…(笑)。そしてそれが人に受け入れられるかどうかは神頼み…(笑)。

篠村 いや本当にそうですよね(笑)。「人を感動させたい」って言う人が多いですけど、感動って、させようと思ってさせられるものではないですからね。五十嵐さんの仰る通りで、表現したものが受け入れられるかは、ある意味受け手次第というか。感動させにかかっているような演奏は僕は好きじゃないですね。どう弾けば聴衆に受けるかということを考えている演奏は好きになれないです。もちろん、表現というものは、前提として享受する人がいて成り立つものですから、聴き手のことを一切考えない演奏も首肯できませんが。

ーー人生に無駄はない

五十嵐 1年間くらい、アシュタンガヨガというのをやっていたことがあって。ヨガってインドでは、スポーツや身体の学問ではなくて、精神の学問なんだよね。だから、ヨガっていうのは心を穏やかにするために自分の内に意識を向けて呼吸にフォーカスする。そのなかでも私がやっていたアシュタンガヨガっていうのは運動量が多いヨガで、どうして行こうと思ったのかというと、私は筋肉が付きにくいんだけど、ジムとかでマシーンで鍛えるより、ヨガでしなやかな筋肉をつけるのがいいと思った。 それから、私が通っていたのは“マイソール”スタイルといって、インストラクターに合わせてヨガのポーズをとるのではなく、覚えたポーズを個々人がそれぞれ(スタジオで)行うものだったから、呼吸を自分のペースでできるということもすごくよかったんだよね。もし、インストラクターの「吸ってー吐いてー」という掛け声に合わせたら、それはインストラクターの呼吸になってしまう。(続けてみて)すごく体力もついていったし、ピアノを演奏する上でもいいように作用した。例えば、肩に力が入りやすいっていうのも、肩の力を抜くことを意識するんじゃなくて、肩以外の筋肉を上手に使うことで、肩に力が入りにくくなる。自分の体の仕組みみたいなものも隅々まで理解できた。
 だけど(笑)、1年くらいたったときに、演奏するときに内から発せられる衝動や心の動きに対して筋肉が動くんじゃなくて、「正しい筋肉」みたいなものが先に反応してしまう感触があった。アシュタンガヨガは、全身の筋肉のバランスを整える。ゆえに精神的に穏やかになっていくから、悟りというか、いろいろなことに振り回されにくくなったりする側面があるのだけど、音楽の興奮とか麻薬的な部分とか、そういうものを感じにくくなっている自分がいた。
 そのころに、野口晴哉先生っていう整体師の本、特に『体癖』っていう本を読んで、身体のつくりっていうのは個性だと感じたの。体のつくりと性格や思考って連動しているものなんだということがわかって。すべてが連動しているから、私はそれを整えて平らにするヨガに行っていたということに気が付いた。私は、そういう自分の癖みたいなものを正していくんじゃなくて、認めていきたいなと思ったんだよね。そのうえで音楽をやりたかった。

篠村 守永由香さんとの対談(の後編)でも話したことですが、どんなに精確な運動でも、音楽を感じていないと空疎な演奏になりますよね。確かに「正しい」演奏にはなるかもしれませんが、本当は「こういう動きをするからこういう表現になる」というのではなくて、「こういう表現をするためにこういう運動をする」という方向なんですよね。内面の方から自然と身体がそういう動きになる、というイメージの方が本質だと思います。
 五十嵐さんはヨガという「迂回」をして、自分の個性を認めていくという考え方にたどり着いた。つまり、まっすぐに(自分にとっての)正解に辿り着いたのではなくて、遠回りをして辿り着いた。効率主義的な立場から言えば、最短距離で必要なものだけ取り入れて目指すところに行けた方がいいのでしょうけれど、それだと、迂回したときにしか見れない景色は見れないんですよね。僕は、基本的に無駄というものはないと思っています。確かにそれは、効率的な生き方ではないけれど、迂回路にしかない景色や、そこでケガをする経験というものがある。そうすると、目的地に着いたときに見えてくるものも、最短距離で進んだ人より、豊かなものがある。

五十嵐 本当にそうだと思う。その連続で、何かに完成するということはないんだよね。ヨガをやっている最中は、それが自分にとってのベストだったし、経験は体の中に残る。実際、ヨガをやめても、いい変化だけ残った。必要な筋肉がだけが残って、姿勢もよくなったし身体も疲れにくくなった。ざるのような、ふるいをかける、みたいな(笑)。

篠村 今の話を象徴するようなことが身体に起きたということですね。
 話は尽きませんが、人生そのものをしっかりと生きる、これが基本にないと、音楽も存分に味わいきれないですし、自分を大切にできないということを改めて感じました。ありがとうございました。

五十嵐 こちらこそ。楽しく有意義な時間でした。

(構成・文:篠村友輝哉)
*次回はヴィオリストの山本一輝さん

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五十嵐沙織(いがらし さおり)
1989年、東京都出身。桐朋女子高等学校音楽科、桐朋学園大学を経て、同大学研究科を修了。
平成19年度高校卒業演奏会に出演。第28回日本ピアノ教育連盟ピアノ・オーディションにて最優秀賞および萩原和子賞受賞。これまでに江藤亜理子、岡本美智子、上野久子、ケマル・ゲキチの各氏に師事。
また、フィンランドにてM•ラウティオ、静岡音楽館AOI主催「第9期ピアニストのためのアンサンブル講座」において野平一郎、ヴァイオリニストの古澤巌の各氏にアンサンブルを学ぶ。
2013年、ソリストとして、「ラフマニノフ作曲ピアノ協奏曲第2番」をオーケストラと共演。
弦楽器奏者との室内楽を中心に多くの演奏会を自主開催し、国際コンクールやプロオーケストラオーディションの公式伴奏者なども務める。
また、合唱団の伴奏、『Murder for two』等のミュージカルの稽古ピアノや劇伴ピアノにて演奏。
2017年からは、上野学園大学•同短期大学部 伴奏要員として、管楽器奏者の伴奏機会が増えるなど、活動のジャンルを問わず、幅広く経験。
自身の演奏における身体の悩みから、ヨガや占星術などを用いて自分を識っていくこと、また”潜在的なトラウマを癒し続けること”など、様々な観点から探究している。
演奏においても人生においても、『より自由であること』そして『より自分らしくあること』を大切にし、実践しつづけている。最近の趣味は、スパイスを使ったカレーづくりと、ベランダ菜園。
ブログ https://ameblo.jp/saoriigarashi-pf/
インスタグラム https://www.instagram.com/saorin50/

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篠村友輝哉(しのむら ゆきや)
1994年千葉県生まれ。6歳よりピアノを始める。桐朋学園大学卒業、同大学大学院修士課程修了。
在学中、桐朋学園表参道サロンコンサートシリーズ、大学ピアノ専攻卒業演奏会、大学院Fresh Concertなどの演奏会に出演。また、桐朋ピアノコンペティション第3位、ショパン国際ピアノコンクールinASIA(大学生部門)銅賞、熊谷ひばりピアノコンクール金賞及び埼玉県知事賞、東京ピアノコンクール優秀伴奏者賞など受賞。かさま国際音楽アカデミー2014、2015に参加、連続してかさま音楽賞受賞。自らが企画構成した演奏会も定期的に開催している。
ライターとしては、演奏会のプログラムノートや音楽エッセイを中心に執筆している。東京国際芸術協会会報「Tiaa Style」では2019年の1年間連載を担当した(1月号~6月号『ピアニストの音の向こう』、7月号~12月号『音楽と人生が出会うとき』。うち6篇はnoteでも公開)。エッセイや、Twitter、noteなどのメディア等で文学、映画、社会問題など音楽以外の分野にも積極的に言及している。
演奏、執筆と並んで、後進の指導にも意欲的に取り組んでいる。
ピアノを寿明義和、岡本美智子、田部京子の各氏に、室内楽を川村文雄氏に師事。
https://yukiya-shinomura.amebaownd.com/

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