東京国際芸術協会会報「Tiaa Style」にて2019年の1年間担当していた連載エッセイ『ピアニストの音の向こう』(1月号~6月号)『音楽と人生が出会うとき』(7月号~12月号)より数篇、noteでも公開することにしました。
今回は、後者の第2回に掲載された、向井響さんの『micro/Love/real/Love for piano trio』の初演についてのエッセイを公開します。
誰かに何か深刻な悩みを打ち明けたとして、その相手が何の迷いもなく「わかるよ」などと言ったら、どう感じるだろうか。怒りがその軽薄な共感を拒絶するだろう。シューベルトが日記に書きつけていたように、結局は、私の喜びや悲しみは他者には理解できず、私も他者のそれを理解できないのだから。しかし人間はその孤独に耐えかねて、他者の共感を求めている。一体、本当の共感とは、何なのだろうか。
2017年6月17日、向井響さんの『micro/Love/real/Love for piano trio』の初演を聴いた(東京オペラシティリサイタルホール。執筆にあたり、初演ぶりに当日の録音も一度聴いた)。
冒頭から、懊悩そのもののような音が執拗に繰り返される。暗い情念に覆い尽くされ、わずかに光が見えてもそれを拒むような自虐的な音が、重く堆積し、時に叩き付けられる。
しかしその音たちは、無造作に並べられているのではない。自らの脆弱さや醜さ、慙愧を徹底して見つめ続ける苛烈な精神があり、それが、偽りのない音を選び抜いている。ヴァイオリンの見渡風雅さん、チェロの新保順佳さん、ピアノの小倉美春さんの3人の鋭敏な感性によってその精神が鮮烈に体現され、自らを否定したくても否定しきれない自己矛盾に苦しむ、彼の鬱屈した叫びが刺さる。
演奏会から数日後、向井さんからメールが届いた。当日の演奏後、向井さんに会うことはできなかったのだが、共通の友人に感じたことを簡単に話しており、彼がそれを向井さんに伝えてくださったのである。
そこには、私の感じたことが彼の表現したかったことであり、精神的にかなり辛い時期に、人を愛するときに感じる非常な痛みに向き合ってこの作品を作曲したということが、率直に綴られていた。
向井さんの想いを、もし音楽ではなく直接言葉で打ち明けられたならば、私はここまで彼の苦しみを感じることはできなかっただろう。彼の音楽を聴くことで、直接打ち明けられる以上に、彼の吐露を受け取ることができる。
それは、直接の言葉を介さない無言の対話である。人が音楽などの芸術に触れるのは、直接の対話では生まれ得ない深い共感を求めているからなのだろう。文学という言葉の芸術であっても、そこにはやはり、物語や詩を通した作者との無言の対話がある。
今、世の中では「いいね!」などの気軽な共感が飛び交っている。それはそれで楽しいものかもしれないが、真の共感は、沈黙の中にこそ生まれ始めるのではないだろうか。
(初出:東京国際芸術協会会報 2019年8月号)
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