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世界や人類を慈しむ音

東京国際芸術協会会報「Tiaa Style」にて2019年の1年間担当していた連載エッセイ『ピアニストの音の向こう』(1月号~6月号)『音楽と人生が出会うとき』(7月号~12月号)より数篇、noteでも公開することにしました。
今回は、後者の第6回に掲載された、ジャン=クロード・ペヌティエ(ピアノ)とミハイル・ゲルツ指揮シンフォニア・ヴァルソヴィアによるフォーレのバラードについてのエッセイを公開します。

 思春期の頃、自分がいるべき場所を見つけられないような、世界とうまく接することができないような感覚を覚え始めた。以来、環境が変わっても、新たな出会いがあっても、その感覚が消えることはなかった。むしろ、その孤独感は膨らみ、日々、それについて自覚的になっている。自分と世界との間にある隔たりを、認識せずにはいられない。
 わざわざ言うことでもないだろうが、家族や親しい友人がいない、あるいはいなかったわけではない。人は結局、自らの存在が、本質的に孤独であるということに気づいてしまったら、誰とどこにいても、ここが自分のいるべき場所だと信じることはできないのだろうか。
 今年の5月4日、ジャン=クロード・ペヌティエのピアノとミハイル・ゲルツ指揮シンフォニア・ヴァルソヴィアによる、フォーレのバラードを聴いた(東京国際フォーラム ホールC)。
 冒頭のピアノソロ、ペヌティエが、ひとつひとつの音を手のひらで包み込むように奏で始めると、新緑の森があたりに広がった。弦楽器は木々の葉を靡かせ、肌をそっと撫でる風だろうか、ピアノを追うフルートは木漏れ日だろうか。やがて降りてくるピアノの高音が、神秘的なまでに透明な空気を運んできて、森により深い静けさをもたらす。……
 森が二度と同じ表情を見せないように、彼らの手によるフォーレの旋律や和声も、瞬間ごとに、しかし穏やかに色合いを変え、それが心の移ろいと重なり合う。
 ペヌティエの弾く音やフレーズのすべてが、何にも阻まれることなく心に染み入ってくる。バラードの前に、同じフォーレのパヴァーヌで繊細な演奏を聴かせたゲルツとオーケストラも、彼のピアノを受けて、いっそう限りない優しさをもって音楽に接している。逆説的だが、途中からはもう、誰の曲を誰がどこで弾いているかということはほとんど忘れ、ただ音楽という大きなものに抱かれるに任せていた。それは、音楽と自分が一体になるということだろう。音楽が、自分の存在を受け入れてくれる。
 オーケストラに包まれたピアノのアルペジオが、光のレースとなって駆け巡る。泡が静かに弾けるような最後の音が、空中に深い余韻を残した。
 ペヌティエにとって、音を慈しむことは、世界や人類を慈しむことと同義なのだろう。だから、聴いている者が、世界に受け入れられていると感じることができる。
「音楽の力」とは、蓋し、こういうことを言うのではあるまいか。

(初出:東京国際芸術協会会報 2019年12月号)

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