「自分の物語」はどこに?――砂田直規と木村徹のシューベルト『冬の旅』
人間は、世界や自分の人生を、物語の形式で理解している。自分の人生を、誕生から今日に至るまで記述すれば、それは必然的に物語の形式を採ることになる。
しかし、それは本当に「自分の物語」なのだろうか? 私の好きな映画監督はクリストファー・ノーランなのだが、彼の映画『メメント』と『インセプション』は、規模は異なるが、どちらもその物語への懐疑を描いている。「自分の物語」は、他者や周囲の影響によって変質してしまうものであるし、その物語は、自分がそう思いたいだけのもので、現実ではないのかもしれないということ、「自分の物語」という認識は、何かにそう思わされているだけで、錯覚なのかもしれないということを主題にしている。これらの作品を観る度に、私は自由意志や「自分の物語」という理解は、どこまで純粋なものなのかといつまでも考えてしまう。
ミュラーの詩にシューベルトが作曲した歌曲集『冬の旅』は、失恋し絶望した青年が、冬の凍てついた世界を彷徨うという筋書きであるが、それは、主人公の青年が、それまで「自分の物語」だと認識していた世界ーー恋人と結ばれ、美しい緑が迎え入れてくれている世界ーーが、幻想であったと自覚したところから始まっていると理解することが出来る。ミュラーのテキストとシューベルトの音楽に刻まれているものは、失恋の悲しみに留まらない、自分を世界のどこにも位置づけられないこと、つまり、「自分の物語」を見つけられないことの壮絶な苦悩である。勿論、質感は全く異なるが、現代のハリウッド映画が表現していることにまで通ずる問題を、古典派とロマン派の端境期の作品である『冬の旅』がすでに展開しているということは、やはり凄まじいことである。
2月15日に、松戸の小さなサロンでバリトンの砂田直規さんと、ピアノの木村徹先生(先生、と呼ぶのは、彼が桐朋で教鞭を執られており、また友人の師匠だからである)による『冬の旅』を聴きながら、改めてそんなことを考えていた。
前半の12曲は、極めてロマン派的ななアプローチで、哲学的な深みに入ってゆくというより、失恋の痛みと恋人への渇望が迫ってくる表現に、却って新鮮味を感じた。冒頭の木村先生のピアノからして、静かな中にも慟哭のように激しいものが刻まれている。激しい表現が青年に襲い掛かり、突き刺さる。それを受けて砂田さんの歌も、声色こそ滋味を宿したものであるが、歌い口はまさに青年のように若々しく、エネルギーが迸り、燃え盛る。考えてみれば、シューベルトだからといって、常にすべてを悟ったように演奏することの方が奇妙なことだろう。何より、この曲集の主人公はまだ青年なのである。
後半に入っても、感情を露わにした演奏であることに変わりはないが、そこに次第に諦めの色を滲ませてゆく。前半の激しい痛みが、今度はその傷が膿んでゆくような、より苦い痛みにーー失恋の痛みが、「自分の物語」や人生の意味をも失ったことを苦しみの中で受け入れる痛みに変わってゆく。砂田さんはバリトンなので、原調よりも3度低い調で演奏されているのだが、それもまた重苦しさを助長している。
「嵐の朝」や「勇気」では、権力や神を否定し、実存主義的に自分こそが人生の主体なのだと叫んで見せるが、二人の荒々しく突き進んでゆく表現は、無理に自分を鼓舞する青年の傷だらけの姿を映し出す。
そして、最後の曲で、主人公は、自分と同じように「自分の物語」を失った人物、辻音楽師を見つける。木村先生は、左手の前打音をペダルで少し残すことで、5度の和音を濁らせ、ドローンの唸りと異様な空間を表出する。
青年は、僕の歌に合わせてくれないかと辻音楽師に呼びかける。しかし砂田さんと木村先生は、ピアノパート、すなわち辻音楽師の奏でる音が突如フォルテになる箇所で、激しい拒絶を表現した。
自分と似た境遇にある人物にさえ拒まれてしまった青年は、その後、「自分の物語」を見つけられたのだろうか。
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