【表現者と鑑賞者のインタラクション】野木青依×宮﨑有里×篠村友輝哉「音楽人のことば」第13回 後編
(前編はこちら)
──「譲れないもの」、人は誰もが「表現者」
宮﨑 ところで、ピアノマン(篠村のニックネーム)は外的要因に悪い意味で影響されることってあるの? 思ったこと言えなかったなとか。
篠村 人からどう見えているかはわからないけど、もちろん自分の中ではいろいろあるよ(笑)。ただ、いざ表現するとか重要な局面になったら、ここは譲れないという点は妥協しない。というか、できないんだよね(笑)。必ずしも自分がやりたいことではないことをやってほしいと言われるような経験は僕も時々あるけれど、そういうときに、たまには合わせてみようかと思うこともあるけれど、結局気持ちが入らない。気持ちが入らないっていうことは、自分の名において表現したくないことなんだと思う。そういう中途半端さっていうのは受け取る側にも伝わってしまうし。不器用なことではあるんだろうけれど、そういう不器用で譲れない人たちというのが、表現の道に入っていくんじゃないのかなとも思う。でも、それに近い思いって、別に表現者でなくても抱えている人たちはいて、そういう人が芸術を求めるんだろうなと思っています。
野木 今回の「すみゆめ」というプロジェクトには、昨年初めて参加したのだけど、そこには大人の部活的な感じで演劇をやっている方たちとか、普段アーティスト活動を本職としているわけではない人たちもすごく多くて、いろんな立場の人が集まっていた。最後に参加した全団体が集まってどういうパフォーマンスをしたのかを報告する場があるのだけど、そこで「人ってみんなアーティスト、表現者なんだな」と本当に思った。人間って、わかりやすい役割として肩書を持っているだけで、みんなが表現者なんだなとしみじみと思った。演奏会とかワークショップとかアートプロジェクトって、「私が」聴きに来てくれた人に何か効能を与えられたらと思ってやっているようで、実は「私自身に」一番大きい効能があるなと感じた。誰かのためにやっているつもりで、自分に一番返ってきている。
篠村 それは表現という行為の本質だと思う。表現って、まずは自分自身が生きるためにやっているんだよね。芸術家は、表現することで自分の問題を解決していて、その表現が結果として、同じ悩みや近い問題を抱えている人にも届くかもしれないということなんだよね。本当に他者のためになることは自分のためにもなるはずだし、本当に自分のためになることは他者のためにもあるはずだと僕は思っています。何か「利他」って聞くと、世の中や社会のために犠牲を払わないといけないみたいなイメージが持たれがちだけど、突き詰めれば両立可能だと僕は信じています。
──日常と非日常が重なるところ
篠村 やっぱり表現ってどこかで開かれていないといけないと思うのね。自分の世界に完全に閉じこもっていては、自己完結に終わってしまう。でも、どの程度迎えに行くのか、その塩梅は考えないといけない。僕が芸術はサービス業ではないと常々言っているのはそういうことで、完全に相手の求めるものに合わせたものを届けることは芸術とは言えない。さっき(前編)の「聴衆がいることで起こる密度」の話に繋がるけれど、ただそこに誰かがいるというだけではそういう密度は発生しなくて、やっぱり聴き手側の方から耳を傾けている、目を向けているということが当然ながら大切。鑑賞する人の集中をいかにして引き出すか、ということだね。
野木 「迎えに行く」ことでいうと、私は基本的に子供に見てもらいたい企画が多いから、すごく具体的なんだけど、衣装とか髪型とかは工夫しています。あとはMCをちょうどいいタイミングで入れるとか。そういう自分のポップなイメージは武器にしているかな。それでも、衣装自体も自分の好きなものであるようにはしようと思っています。その分、演奏では「迎えに行くこと」はしないという感じ。例えば子供に喜んでほしいからアニメソングを弾くとかはしない。「知ってる曲を演奏してほしい」と言っていただくこともあるのだけれど、そこは自分が興味が持てなければ絶対やらない。さっきも言った相手の顔色をうかがわないというのは、相手の感受性を低く見ていないからこそなんだよね。
篠村 「良い作品」の定義の一つには、それに触れる前と後とで何か変化があったかということがある。でも、創り手側が、触れる人の何かを「変えてやろう」とするのは傲慢だと思う。僕は映画監督のクリストファー・ノーランをすごく尊敬しているんだけど、彼が「物語を通じて観客の何かを変えようとしても絶対にうまくいかない。映画にできるのは、人に何かを強制することではなくて、何かを感じるきっかけを与えることだ」と言っていて、本当にその通りだと思う。僕自身の好みも込みで言うと、やっぱり作者の思想なり主張なりが薄い、ほとんど趣味だけでできていたりするような作品は、ちょっと物足りない。かといって、物語が何かの主張のためだけに使われているような作品も、その意見と自分の意見が相当一致していないと、世界に入っていけない、どこか居心地の悪い思いがする。
僕たちが扱っているのは小説や映画と違って極度に抽象的な音楽だから、それらの芸術ほど具体的にはなれないけど、その分受け取る側に与えられる自由度が高い。音楽にしかできない「感じるきっかけ」は何かということは常に考えています。
野木 私自身は、それを「聴いている人の基礎体温を上げたい」と言う風に考えてた。もちろん、人の悩みだったりフラストレーションは、私はその人自身じゃないから解決できない。けど、その人が解決しようと思える力というか、乗り越えられなくてもいいんだけど、前向きに生きようと思える力、治癒力をあげるお手伝いとして「基礎体温」を上げられたらと思っていて。自分自身、苦しい時には人にたくさん助けてももらったけれど、そこで自分が自分のことを信じられなかったら解決できなかったと思う。自分が演奏者としてできることは、いい気持ちでいい演奏をすることしかなくて、だからこそ邪な気持ちで演奏したくない。聴いている人に悪い空気を吸わせたくない。
篠村 今、文化の危機と言われていて、文化や芸術が軽視されていると感じる場面や出来事がたくさんあって、よく「クラシック音楽は終わった」とか「文学は終わった」とか言う評論家もいるけれど、「本当に真剣に耳を澄ませているのか?」と訊きたくなる(笑)。やっぱり人間が精神的に餓えている時期にこそ、芸術は求められる。だからこそ芸術の歴史は脈々と続いてきた。そういう意味では、僕には芸術は決して絶えないという確信がある。もし芸術や文化が途絶えるならば、それは人間も終わるときだと思う。アーティストっていうのは、確かに世の中では「変わり者」として片付けられてしまうことも少なくないけど、そういう人たちこそが時代や社会に置き去りにされているものを代弁してきた部分がある。もちろん、「まずいんじゃないか」と危機的なものも感じているし、常に懐疑的な精神を持っていることも大切だけれど、人類だけが続いて芸術が無くなるということはないとは常にどこかで信じています。
野木 盲目的に、思考停止で信じるんじゃなくてね。何かをするために音楽をしているんじゃなくて、ご飯を食べるように音楽をしている人ってやっぱり存在する。誰でも人間は「遊ぶ」から、その「遊び」が創作や鑑賞に繋がっているんだと思う。それは「すべきもの」じゃなくて、誰もが自然なこと(「遊び」)としてやっていることだから、無くならない。ただ、それを自分は多く担わせてもらう仕事をしているから、人よりは真摯にやろうということはいつも思っています。
宮﨑 「ご飯を食べるように音楽をする」というのが日常で、仕事とかが非日常なのかもしれないけど、じゃあ、非日常のほうで「遊ぶ」ことはできないのかとか、演奏家がプロの仕事として演奏するというのと、何かのためにじゃなくて日々生きているだけで表現者だ、ということの狭間とか揺らぎのことを今聴きながら考えていました。
篠村 その日常と非日常が混ざり合う空間というのがアートの空間なんだろうね。僕自身は、芸術に超越的な、衝撃的で特別な体験、つまり非日常の体験を求めている部分が大きいけれど、青依さんの活動のように何気ない日常の喜びを見出す芸術体験もあって、その両方が必要なんだよね。
宮﨑 そうだよね。ミュージカルとかコンサートとかに行くと、「明日も仕事頑張ろう」と思える。その感覚は、今までは「非日常を日常に持っていく」という風に思っていたのだけど、今日の話では、何気ない日常に(も)芸術的なものがあるっていうことなのかな~と思った。
篠村 思いの外早く三人でじっくりお話する機会が持てて、とても嬉しかった。イベントがお二人の個性が存分に発揮された、よいひとときになるように願っています。ありがとうございました。
(構成・文:篠村友輝哉)
*今回は校正にあたって宮﨑さんにお力添えいただきました。この場を借りて改めてお礼申し上げます。有里さん、どうもありがとう。
《併せて読みたい》
【表現者として現代を生きる】野木青依×篠村友輝哉「音楽人のことば」第9回 前編 https://note.com/shinomuray/n/nc50724b62fb7
【表現者として現代を生きる】野木青依×篠村友輝哉「音楽人のことば」第9回 後編 https://note.com/shinomuray/n/nad4a27881f7c
野木青依(のぎ あおい)
11歳からマリンバ演奏を始める。
桐朋学園大学音楽学部打楽器科卒業。
2018年8月メルボルンにて開催された ”第5回全豪マリンバコンクール”第3位並びに新曲課題における最優秀演奏賞受賞。その他国内外のコンクールで受賞歴を持つ。
「健康とユーモア、子供心が踊ること」をモットーに、親子向けの音楽WS・銭湯などの公共空間で演奏会を多数開催。
モデルとしても活動。URBAN RESEARCH "URBAN SENTO”メインビジュアルモデル他。
宮﨑有里(みやざき ゆり)
1995年生まれ、千葉県出身、墨田区在住のフリーランス。小学生の頃から歌うことが好きで歌手を志し、学生時代から本格的にシンガー・ソングライターとして活動を始める。2015年青山学院大学学園祭テーマソングのコンペにオリジナル曲「WAO!」が選ばれる。一方でアートプロジェクトにも関心があり、2019年よりNPO法人トッピングイーストで、隅田川を舞台にした音楽とアートのイベント『隅田川怒涛』の事務局を務める。野木青依さんの企画「マリンバさんのお引っ越し」では、制作マネージャーを務める。
篠村友輝哉(しのむら ゆきや)
桐朋学園大学音楽学部卒業、同大学大学院音楽研究科修士課程修了。
在学中、桐朋学園表参道サロンコンサートシリーズ、大学ピアノ専攻卒業演奏会、大学院Fresh Concertなどの演奏会に出演。また、桐朋ピアノコンペティション第3位、ショパン国際ピアノコンクールinASIA(大学生部門)銅賞、熊谷ひばりピアノコンクール金賞及び埼玉県知事賞、東京ピアノコンクール優秀伴奏者賞など受賞。かさま国際音楽アカデミー2014、2015に参加、連続してかさま音楽賞受賞。
専門のピアノ音楽から室内楽、弦楽器、オーケストラ、歌曲、コンテンポラリーに至るまで幅広いジャンルで音楽・演奏批評を執筆。東京国際芸術協会会報「Tiaa Style」では2019年の1年間エッセイ・演奏批評の連載を担当した。同紙2021年8月号から新連載「耳を澄ます言葉」が開始予定。曲目解説の執筆、演奏会のプロデュースも手掛ける。エッセイや講座、メディアでは文学、映画、美術、社会問題など音楽以外の分野にも積極的に言及している。修士論文はシューベルト。
演奏、執筆と並んで、後進の指導にも意欲的に取り組んでいる。
ピアノを寿明義和、岡本美智子、田部京子の各氏に、室内楽を川村文雄氏に師事。
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