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孤絶を抱えた再創造──イーヴォ・ポゴレリッチ『Chopin』【名盤への招待状】第11回

 暗く鋭い光を湛えた音が、こちらの呼吸からはもちろん、楽譜に記された拍節からさえも離れた時空間のなかに閃いて、そこに佇み、その音を閃かせているただ一人の彼に向けて歌っている。背景におぼろに響く左手の和音を伴って途切れ途切れに閃くその歌は、こちらに開かれていないだけではなく、こちらから安易に立ち入ったり、寄り添うことをも決して許さない、冷たい厳しさに耐えている。冴え冴えとしたその音は同時に柔らかさを持ち、瞬間ごとにさまざまな色を映し出す。共感しようとすれば拒まれるのだが、しかしじっと聴いているとその孤絶がそのままの孤絶として胸に刺さり、沁み入ってくる。
 ピアニストのイーヴォ・ポゴレリッチのアルバム『Chopin』(2022)の一曲目、ノクターンハ短調作品四八-一の冒頭である。月末の来日を聴きに行けない埋め合わせを求めていたのか、この年始のある日にふと思い立って聴いていると、強い冷え込みと相まってその世界がより深く感じられた。

 孤絶に浸されたポゴレリッチの時間感覚は、一瞬ごとに深淵を覗かせるような凝縮をもった極めて緩やかなものだが、つぼを押さえた打鍵によって放たれる音は、その広げられた時間のあいだでも決して消えずに響きを留めて、歌を繋いでゆく。二曲目のノクターンホ長調作品六二-二でのそれはとりわけ美しい。ハ短調のノクターン同様、ここでもバスをはじめ左手の動きを旋律の背景に徹底させる音響づくりがなされるが、それは非常な透明感と、歌が独り言のように内へと向かうような効果を生み出す。ソナタ第三番の第三楽章の中間部も、そのゆっくりとした時間とともに移ろいゆく心模様を独り眺めているように、そっとそっと弾かれる。
 共感を求めずに感傷を排する厳しさはときに凍り付くような響きを生み出し、極限まで息を潜めて音を切る幻想曲の冒頭の低音部は、かなたに死の幻影が浮かぶようですらある。ソナタ第三番の第一楽章の展開部のはじまりの闇の底知れなさも尋常ではない。
 彼のこうした再創造的なアプローチは、その感性だけではなく、楽曲を解きほぐす明晰さの産物でもある。ホ長調のノクターンの中間部やソナタ第三番の第一楽章などでの対位法的な動きが目に見えるように浮かび上がり、幻想曲やソナタで、たとえば多くのピアニストがひとつのペダルのなかに溶かすアルペジオを、ペダルを最小限に、あるいはごく細やかにしてその粒の動きを明瞭に聴かせる。ソナタの終楽章などでの切れ味は若いころから変わらず、第一楽章冒頭などでの強奏の重苦しい響きも凄みに満ちているが、かつてのように無慈悲で殺気立った印象はなく、鋭い刃が極限まで研ぎ澄まされることで得られた円みのようなものを感じさせ、どこか余裕のあるものとなっている。
 その明晰さが、楽曲や演奏についてのあらゆる通念を厳しく斥けて作品の姿を明らかにし、それが、あの暗く鋭い音に象徴される孤高の感性と時間感覚によって捉えられ、恐ろしい技巧で具現化される──実際にはそれぞれが複雑に絡み合っているであろうかれの再創造のプロセスを、愚を承知で順序だてて要約すれば、このようになるだろうか。
 ポゴレリッチの再創造が生み出すものは基本的に、ノクターンについて書いた最初の部分に述べたように、自らの世界をどこまでも閉じて他者を拒んでさえいるような、圧倒的な孤絶を抱えている。それが作品にうまくはまっているとは言い難い例にも接したことはあるが、ショパンのような音楽にはとりわけ親和性があるように思える。ショパンといえば親しみやすいクラシック作曲家の筆頭に挙げられる存在かもしれない。確かにその洗練を極めた天才的な美的感覚に支えられた表現は、耳にした瞬間から心を動かされる情感に溢れ、それは表面的でない品格のある華をまとっている。しかしその華の奥にある声によく耳を傾けるならば、どこかで常にこちらと一線を引いているような孤独が聴き取れるはずだ。それが、ポゴレリッチの手によって、極度に増幅されたかたちで表現されているのである。
 私にはそれが、かつてアルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリがショパンのアルバムに刻んだ孤絶をどこか受け継ぐもののように感じられる。恐らく本人にはそのつもりはないだろうし、楽曲を解体し拡張するポゴレリッチに対し、ミケランジェリは楽曲のフォルムを決して崩さない演奏家で、表面的なスタイルは大きく異なる。だが、その内実を聴くと、その冷徹さ、解像度の高さ、触れれば指を切りそうなほど鋭利な感性、鋭さを基調としながらも歌う柔らかさをも帯びた音……と、二人の間にはいくつもの近しさを見ることができ、触感は異なるが、それらが縒り合わせって生み出される表現に共通性を感じ取るのは、私だけではないのではないだろうか。
 いま、繋がりを求める声が日常的に叫ばれているが、それは、私たち現代人が繋がりを実感できていない、つまり孤絶を痛切に感じているということの反映である。ポゴレリッチによって再創造されたショパンの危うさは、現代人にとって、耳に馴染みのある解釈で弾かれるショパンよりもはるかに強烈に惹き込まれてしまうものかもしれない。




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