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手に宿るもの

 数か月前のある日、私の出演する演奏会の案内を見たという知人から、「手がきれいだなと思っていたんですよ」と言われた。その人は、私がピアノ弾きだということを、その掲示を見るまで知らなかったのである。
 こういった日常の何気ない場面から、はじめてかつての恋人の手を握ったときや、大学に憧れを抱いて見学に来た受験生と在校生として握手をしたときといった重要な場面まで、手やその感触をほめられるという経験は何度かあったが、そういうとき、私は自分という人間そのものが肯定されたかのような錯覚を抱いて、喜びを隠せなくなってしまう。それはやはり、私が鍵盤を弾いて音楽を奏で、こうしてキーボードを打ったり、あるいはペンを走らせたり画面をタップしたりして言葉を紡いでいる──つまり、自分にとって大切なことを、いつもこの手を使って表現しているからなのだろうと思う。
 ピアノを弾いているときは、ほんとうは鍵盤ではなく音楽そのものに手で触れられたらという気持ちを抱いている。芸術音楽の世界では、とくに「古典」と呼ばれる作品を手掛ける際には、音楽から手垢を落とすことが望まれることが多い。楽器を通じて音楽を立ち上がらせるだけではなく、それに触れることを望むのは、まさしく音楽に手垢をつけることに繋がってしまうのかもしれない。けれども、人間が生きるなかで感じるさまざまは、そういう手垢のような不純物にこそ宿っているのであり、それらがまとわりついた音楽や演奏の在り方があってもいいのではないか、「日常」という、不純物に満ちた時間を生きている人たちのなかには、そういう音楽をこそ求めている人がいるのではないかという思いが、私には強くある。逆に、だからこそ音楽だけは日常から超越したところにあるべきなのだと言う人もいるだろうし、私自身にもそういった体験を望んでいるところは多分にあるが、日常から超越するためにも日常をよく知っていなければならないというのが私の「常識」である。
 演奏者として音楽に触れようともがくことは、音楽を触れられるものにしようともがくことでもある。私はずっと、人の手の温度の感じられる演奏や音楽を愛してきたが、聴き手がそれを感じるためには、音楽に触れられなければならない。先日、私の演奏会を聴いてくれたある演奏家の友人がくれたメールの「生の演奏は、触れられない他者、触れてはいけない他者に、直接触れずに触れることができる」という感想を読んで、自分がいかに音楽においてこの「触れる」という感覚を大切にしてきたのかに、改めて気づかされた。私が音楽に触れることで演奏が生まれ、それに聴き手が触れることで、絶対に触れられない者同士であるはずの私と他者は、触れ合うことができるのだ。
 そのような音楽を可能にするためには、手は、むしろきれいすぎてヽヽヽはいけない。生活に触れ、不純物に染まっていなければ、音楽に手触りを与えることはできないはずだ。だから、手を「きれい」とほめられたのは嬉しいことでもあるけれど、それは、自分の手がまだ生活に染まってはいないことでもあるのかもしれないとも思う。しかし手を生活のためにばかり使っていると、痛みをはじめとする不調や「仕事」に集中する時間の不足のために、演奏や文筆に支障をきたすのも事実だ。このバランスをどうとっていくのかは、一生の課題かもしれない。……などと言うとどこか呑気に聞こえるが、年齢とともに生活に手を使う時間が増えてきたいま、この葛藤には決して小さからぬ苛立ちを感じている。
 この文章を書き始める数日前、その感想をくれた友人と、会ってゆっくり話をした。彼女とは、学生時代はあいさつを交わす程度の間柄だったのだが、コロナ禍が始まった年からなぜか定期的にビデオ通話をするようになり、彼女の言葉を借りるなら、かけがえのない「おしゃべり」を重ねていた。直接会う約束をしたのははじめて、会うこと自体も学生ぶりで、すっかり打ち解けているのにはじめて対面でゆっくり話すという状況は、ふしぎな感覚だった。
 自分が手を見られることを意識しているだけでなく、人と話していても気がつくと相手の手を観察してしまっている私は、この日も話をしながら、時折彼女の手を見ていた。
 小さくて痩せた手に華奢な指。画面越しに見ていたときから受けていた印象は、実際に見るとより強く感じられたが、しかし関節はしっかりとしており、指先は、摩擦でできたようなつるつるとした光沢を帯びていて、それは、画面越しにはわからないものだった。生活の傷、生きることの傷が確かに刻まれたその小さな手は、幼いころから自分の存在の意味を問わずにはいられないほどにさまざまな不条理に苛まれながらも、楽器との対話を支えに何とか自分自身を守って生きぬいてきた、彼女の生きざまそのもののように見えた。
 彼女もまた、この現実と接続した音楽の在り方を模索しているのだが、それは私などとは比にならないくらいラディカルなもので、私はあくまでも芸術音楽の伝統的な枠組みのなかでそれをやろうとしているのに対して、彼女はその枠組み自体をも解体して、文字通り生活のなかに音楽を溶け込ませるような表現を実践している。
 その営みのなかで、彼女はいま、自身のなかに根深くあった「思い込み」に気づき、あるアンビバレンスに突き当たっているということを、この日、話してくれた。それをここにつまびらかにすることはできないけれど、それは、彼女のこれまでの表現行為の根幹を揺さぶるようなもので、その小さな手を口元や顎にあてながら、慎重にそして率直に、言葉を選んでそのことを打ち明ける語り口からは、引き裂かれるような心情が伝わってきた。
 同時に、彼女がその引き裂かれから逃げずにそれを引き受けているさまに打たれた。その裂け目から何かが生まれ、彼女はその手でそれをすくい上げ、きっとまた新たな表現に昇華してゆくのだろう。話し言葉としてはちょっと気障きざっぽいだろうかと思いながらも、そんなようなことを彼女に伝えたが、この心情の吐露そのものから、すでに私は大切な何かを彼女から受け取っているのではないかという感覚が、別れて家に帰ってからもずっと残っていた。本人にはそんなつもりはなかっただろうけれど、こうしてあの日のことを言葉にすることで、私はその何かの手触りを確かめているのかもしれない。
 その感触が手に染み込んだとき、この手で表現することは、彼女から受け取ったそれを誰かに伝えているということにもなるのだろう。人は表現するとき、表現したいものそれ自体だけを伝えているのではなく、自分の手に宿った大切なものたちを他者に手渡してもいるのだ。そうした雑多で豊かなものを取りこぼさないためにも、生活と「仕事」との均衡点を、ときに苛立ちながらも手探りし続けていたい。


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