目指せ出版! 日本史のセンセイと行く全国制覇の旅6 古墳時代と埼玉県

「古墳ってどんなイメージ?」と聞くと、大きく分けて二つの回答があると思うんだよね。ひとつは
 「前方後円墳。教科書で見ました」というもの。そしてもうひとつが
 「小高い丘みたいなイメージ。うちの小学校の校庭にありましたから」という、どちらかというと自らの経験に即したもの。どちらが正しいとか、理想的というものはないけれど、イメージなんてのは多く持っているほうが役に立ちそうだから、古墳の上で遊んだ経験がある人のほうが少しだけトクをするかもしれないね。

 これはある意味仕方のないことで、日本の古墳はその分布に偏りがあるんだよね。平成24年の調査で日本には15万基以上の古墳があるのだけれど、所在数一位の兵庫県には一万八千基、そして最下位は三つの道県がゼロ基でならんでいる。ぼく自身も小学校の時の通学路には古墳があったし、高校のときには校舎の近くに古墳群があった。そしてだいたいそのような身の回りにある古墳は、小さな丘のようになっていて、整備さえされていれば子供たちが遊べるような大きさのことが多い。形もだいたいが円墳か方墳だ。だから日本人には「古墳とはちょっとした山からバカでかいものまである」と体験的に知っている人と、教科書の大仙古墳のイメージだけ、という人がいるんだよね。

 で、世界遺産にも登録された大仙古墳(大阪府)のようにとても大きいものは、せっかく見に行っても全体像を教科書の写真のように見られないことがある。たとえば大仙古墳は堺市の市役所に設けられている展望台(21階)からみても、ただの木のかたまりにしか見えない。あの前方後円墳の形はヘリコプターにでも乗らないと見ることはできないんだ。

 じゃあ小学校の校庭にあったような古墳は? というと、これも古墳という感じはしないよね。どちらかというと遊んでいるところにある小さな山。じゃあもっと古墳のイメージを強くするためにはどうしたらいいんだろう、ってのがここからのお話。ぜひぜひ実際に見に行って日本史への興味を大きくしてほしい。

 まず最初のおススメ古墳は、日本で最初に復元整備が行われたという五色塚古墳(兵庫県)。全長194mで兵庫県最大の古墳であるこの古墳は、前方後円墳の形状・造られた当時の姿をよく知ることができるという意味で、非常にすばらしい古墳です。しかも古墳の上に上ることもでき、埴輪の様子までしっかりと観察することができます。全国に前方後円墳は多くあるけれど、ぼくが行った中では五色塚古墳が一番整備されていて、好きな古墳です。200万個以上の石でしっかりと葺石(ふきいし)(淡路島から運んだことが分かってるんだって!)をしてあって、造られた当時のイメージがしやすいことがポイントだね。葺石をせずに、古墳自体が芝生におおわれているだけでは「丘だな、山だな」になってしまいがちだからね。太陽に照らされてキラキラと光る葺石は、すぐ南にある明石海峡を通る船からもハッキリと見ることができ、当時の人々に権力者の力の大きさを見せつけるものだったと考えられています。

 つづいては、外見だけじゃなくて、中に入ることのできる古墳についても紹介しよう。何といってもまずは西都原(さいとばる)古墳群(宮崎県)。およそ350~400年間にわたって造られたとされる、300以上もの古墳が分布している、恐ろしいほど大きなスケールの古墳群で、日本最大級の大きさを持っている。もちろんすべての古墳をチェックするには相当の時間がかかるし、中には詳しく見学できないものもあるのだけれど、ここには中に入ることでできる古墳、「鬼の窟(いわや)古墳」が存在しているのです。高校生であれば古墳の構造を日本史で習うよね。例えば羨道(せんどう)、玄室、石室など。写真で見たり、先生が簡単に説明したりするだけではわからなかったものが、実際には行ってみると忘れないんだよね。しかも墳丘の周辺に土塁が造られていて、非常に珍しい形の古墳としても有名なんだ。ぼく個人としては古墳時代の人は「人間は女性から生まれて、死後も女性の中に帰っていく」と考えたのではないかと思うほど、横穴式古墳の入口は女性の産道を思い起こさせる形になっていました。

 では早速古墳の中に入ってみましょう。天井は高い? 低い? 当然低いのだけれど、なぜ低いのだろう? 当時の人の平均身長が低かったから? そのことじたいは事実だろうけれど、古墳とは関係がない。なぜなら「① 横穴から生きた人間が入ることを想定して古墳をつくっていない」そして「② 横穴を掘って古墳をつくったわけではない」からだ。もともと古墳は石室をおいて、その周りを玄室や羨道を造って死者のスペースを確保したあとに土を持ったと考えるのが最も合理的。そのことがよく分かる古墳が、蘇我馬子の墓とも言われている石舞台古墳(奈良県)だ。石舞台古墳はその名の通り、舞台にも見えるような大きな石が置いてあるだけ、といった誤ったイメージを沸かせてしまう写真しか教科書には掲載されていない。実は正面から見ると石舞台古墳も中に入ることができて、あの大きな石自体が玄室であることが分かる。つまりあの「石舞台」の上に大量の土をかけたと考えてほしい。これがいわゆる一般的な古墳のイメージだ、という意味でぜひとも見に行ってほしい史跡です。

 県名の由来となったさきたま古墳群(埼玉県)も見どころの多い歴史スポット。古墳群、なので多くの古墳が分布していて、横穴式石室の内部が見学できるようになっている古墳もあるのだけれど、その中でも特に有名なのが稲荷山古墳。何と言ってもここから出土した鉄剣が有名。剣に書かれている115の文字を読むと、「さきたま周辺を治めていた豪族に、ワカタケル大王がこの鉄剣を下賜(かし)した」ということが書かれている。ワカタケル大王は倭の五王の最後の一人「武」、つまり雄略(ゆうりゃく)天皇のことだと考えられているんだけど、ワカタケル大王の名前は江田船山古墳(熊本県)から出土した鉄剣にも書かれているので、5世紀には「① ヤマト政権の勢力が九州・関東にまで及んでいた」、「② 大王という称号が使われていた」ことの証拠になっているんだ。古墳時代のことは古墳などの遺跡、鉄剣などの遺物に加えて、中国の歴史書に書かれた日本との対照、神話とのかかわりもあってとてもロマンのある時代だね。西都原古墳群のほかにも内部を見学できる古墳はあるので、実際に見学しながら想像を膨らませてみよう。
【埼玉県に行ったなら】
 江戸時代の町並みを残す小江戸・川越の散策が人気。東京から1時間というアクセスの良さから週末になるとぶらり旅を楽しむ人が集まってきます。川越のシンボルといったらやはり「時の鐘」。庶民たちが時間を知るすべのなかった江戸時代に造られた鐘で、現在のものは4代目ということですが、構造自体は江戸時代のものと同じとのこと。6時、12時、15時、18時の1日4回、鐘が鳴って時を知らせてくれます。

 川越は城下町でもあります。川越城は日本百名城のひとつにも数えられていて、元々は室町時代に太田道灌(どうかん)(最初に江戸城を造った武将)が造った城でした。江戸時代になると、江戸の北の守りを固めるために譜代大名が任命されて治めました。天守閣は元々なかったようですが、現在では本丸御殿が残っていて、見学することができます。
 小江戸と呼ばれている街はほかにもあって、佐原(千葉県)もそのひとつ。利根川水系の拠点の一つで商業が発展。有名な商人にはあの伊能忠敬も。忠敬は隠居してから勉強を始めて日本地図を完成させた人。17年間で4万km(地球一周とほぼ同じ)を歩いて日本全国を測量したということは知っている人もいるでしょう。忠敬の旧宅のすぐ近くにある伊能忠敬記念館には地図や測量に使った器具などが国宝として展示されています。勉強をしたり、新しいことを始めたりするのに年齢は関係ないのだなぁと実感させてくれる偉人・伊能忠敬。記念館の前には忠敬の子孫が営まれているカフェもありますので、立ち寄ってみてください。

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