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お金の教育 -進路についてのこと-


進路を考える以前

高校の理科の選択授業で、化学を選んで勉強している時期がありました。
教師との仲はよかったのですが、成績は全然ダメでした。
学生時代は嫌いな教科がなく勉強したい気持ちが常に溢れていましたが、勉強の仕方を知らず、煩悩と雑念にまみれていたので、結局そんなに成績がよくなることはありませんでした。
それでも文系の科目は多少マシでしたが、理系の科目は点が取れず、落第しなかったのが不思議なくらいでした。
自分から選んだ化学の授業では、興味はあってもちゃんと勉強できないので、よくできる周りにばかり気を取られていました。

高校卒業後の進路

男女共学の公立高校でしたが、会話をするのはほぼ同級生の女子ばかりでした。同じ化学の授業を受けている女子の話を聞いていると、ほとんどが薬剤師を目指していることに気づきました。
記憶があいまいですが、当時は二年生くらいだったと思います。
高校二年生の時、私は高校卒業後のことなど考えていませんでした。
家庭状況が最悪だった時期なので仕方がないと言えば仕方がないのですが、そもそも我が家では子供の進路について、将来の職業について、話題になることはなかったのです。
三年生になって具体的な進路を決定しなければならない時期に来ると、母が独断で大学進学を強要してきて、私が必死になって考えた専門学校の夜間部への進学というプランを一蹴しました。
当時父は子供の教育に関わっていませんでした。母は自分の悲願とプライドのために私を大学に行かせたい一心でしたが、進学費用が乏しかったために限られた選択肢しか見つかりません。そして、そこに私を突っ込むことに必死でした。

誰のための進路

当時我が家は経済的に逼迫しており、そもそも子供を大学に行かせる余裕はありませんでした。その状況を知っている親戚や家業の取引先からは、私の進学について「とんでもないこと」と思われ、また言われたりしていました。
母は自分が中卒で、高校にも進学できなかったことを生涯恥じて隠していた人です。ふたりの子供のうち上の兄が高校を中退していたので、自分の雪辱を果たす手段は下の娘の私の進学しかないと考えていました。
当初、苦しい経済状況を考えると短大に進学して2年後には就職し家計を助けて欲しかった母ですが、当時短大の初年度費用が百万円を超えるとの情報を得た母は、そこまで自分で負担することは難しいので仕方なく初年度費用がもう少し安い四年生大学を検討し始めました。
私は大学で英語を勉強して通訳になる夢をふんわりも持っていたのですが、科目による成績の凸凹があるので共通一次試験の成績から国公立は無理と予想していました。それを聞いて学費が安い国公立は無理と知った母は彼女なりに必死に情報を集め、当時関西で一番学費が安い私立の四年生大学を勧めてきました。そこには外国語学部もあり、私がしたい英語の勉強もできるからうってつけということになったのです。
一方費用の問題から大学進学は難しいと考えた私は、英語の勉強をしてその方面に行くことを諦めて音響技術者になるための専門学校の夜間コースにいくことを考えました。この案は、先述の通り無視され消えました。

母と私が進路について真剣に考え始めたのは、高校三年生になってからです。また、私はなりたい職業から逆算して専門学校を考えましたが、母は大学進学にこだわっていただけでその先の就職については何も考えていませんでした。
事実、私が大学卒業を前にして就職活動を始めても、母はどんな仕事がいいともどんな会社がいいとも言ってきませんでした。(就職後に、その仕事や会社が気に食わないということは言ってきました)

何のための進路

話しを最初の、化学の授業を選んだ同級生の女子たちに戻します。
彼女たちは、ほとんどが薬剤師を目指していましたので、高校二年生の時点で将来の職業をすでに決めていたことになります。
大人になってから思い返すと、医療系の職業を選ぶ人は、かなり早い時期からそのことを考えたり、決めたり、あるいは家族から強く勧められているケースが多いようです。
小学校の同級生で、祖父母に育てられている人が中学卒業後は高卒資格が取れる看護学校に進学したので、彼女は中学時代にすでに職業を選択していたことになります。
中学時代に決めてしまうことがどれくらいの割合であるのかはわかりませんが、看護師を目指す人は自分の母親かおばが看護師だったケースが多い感覚があります。
薬剤師も、家が薬局だったり家族や親戚がその仕事をしていたという、看護師と似た形での選択かもしれません。
親しかった同級生で惜しくも薬剤師になれなかった人は、結局検査技師になりました。それを聞いて、医療系の引きは強いなと思いましたが、それはその後に得る生涯年収の大きさ故なんだろうと今は思います。

学校を選ぶとか、職業を選ぶとか、更に言えばどこに住んで、どんな生活をするのか、そんなことに私と私の家族はとても疎かったと今思っています。
私の父は幼い頃に母に連れられて田舎から大阪に移り住み、母は父との結婚で大阪に来ました。どちらも、更に言えば親戚一同が、大阪という土地にもともとの縁がなく、都会で生きるにはひどく不器用だったのではないかと思うのです。親戚のことはさて置き、私の両親は本当に不器用でした。
日々生きることに必死で、自分達や子供の将来のことを考える余裕なく、考えることの意味も知らずに、随分早く逝ってしまいました。
田舎にいても考える人は考えたとは思いますが、両親は大阪という都会にいて田舎より豊富なチャンスを見ることはありませんでした。
不器用だったかもしれなくても、それなりに社会を生きて定年を迎えた父のきょうだいは多かったのに、父がそうではなかったのは父が間違いなく不器用でそれも飛び切りだったと疑いません。そんな父はまた世渡り下手な母を伴侶に選びました。
父の他のきょうだいは、こどもにどんな教育をしてどのようになったのかはもうわからないことです。ただ、高校時代の化学の授業のことを思い出して、うちの家では子供の将来について話題になることすらなかったと最近やっと気づきました。
また、お金の話は汚い、はしたない話題のような雰囲気があったことも覚えています。

贅沢な暮らしをするためではなく、ただ将来なるべく心配がないように生きていくために、お金の管理の仕方もそうだし将来どんな仕事をしてお金を稼いていくのかは、小さいうちから家族で話し合う方がいいのではないかと思います。
目の前のことに反射するように必死で余裕なく生きるのが父と母の生活でしたが、それは決して楽な暮らしではありませんでした。
将来の夢や、夢がなくても見通しや希望があれば、生活の中で少し息をつくひと時があったのではとも思います。
希望があって、それが叶わないのは辛いことですが、希望がないと生きる理由も見つかりにくいような気がします。
じゃあその希望はどこに見出せばいいのか。
続きでそんなこともつらつらと考えていこうかと思います。

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