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空港職員の朝

空港職員の友人がいる。

彼女は空港の手荷物検査所で働いている。その日は朝から憂鬱な気分だった。

昨日、彼氏が「明日から一人で沖縄旅行に行くよ」と言ってきたのだ。その突然の報告に唖然とした。いや、別に旅行に行くことはいい。結婚しているわけでもないし、彼の行動についてとやかく言える立場ではない。

ただ、もう少し早めに伝えてくれたらよかったのに、と彼女は思うのである。仕事の日程を調整すれば沖縄へ一緒に行けたかもしれないし、あるいは彼に会えない日には友人との予定や美容室の予約なんかを入れることだってできた。旅立つ前日に言われると、彼女の予定も狂うのだ。

それに、彼は今日が付き合い始めて3年になる記念日ということも忘れているようだった。彼女の怒りのほとんどは、記念日を忘れられている、というところにあった。

もしかして、浮気旅行だったりして。変に勘繰ってみるが、そういう性欲マシマシ男ではないことはよく知っている。

いっそ浮気なら怒り散らすこともできるのに。本人に悪いことをしたという自覚がないから、彼女の中に抱えたもやもやをぶつけることができない。それで彼が沖縄へ発つ日は朝からブルーだった。


空港での彼女の業務は主に二種類あり、接客とモニター監視である。前者は乗客の搭乗券を確認し検査ゲートへ案内する仕事で、後者はバックヤードで荷物の中身をX線で確認する仕事だ。その日の午前中は彼女に接客業務が割り当てられていた。

彼は「明日、空港で働く君の姿が見れるんだね」と楽しそうに言った。彼女の暗い表情にも気が付かずに。いっそ彼が来る時はバックヤードに隠れていようか、とも思った。記念日に旅行へ行く彼へのちょっとした仕返しである。

「空港着いたって連絡したのに、どこにいたの?」彼がメールしてくるかもしれない。そしたら「ごめんなさい、そのタイミングで上司に呼ばれちゃって」と返そう。あるいは無視してしまおうか。私に会えなかったことが気になって、沖縄を十分に楽しめなければいい。

そんな意地悪なことを考えていた。彼の乗る沖縄行きの便は11時15分発。時間にルーズな彼は締切の20分前に来るはず。時計を見ると10時30分。一旦バックヤードの同僚と変わってもらおうか、と思った時だった。

彼女の名前を呼ぶ声が聞こえた。周りの視線も気にしない大きな声。

「格好いい。制服もすごい似合っている」

スーツを着た彼が目を丸くしてこちらを見ていた。就活にでも行くのか?沖縄に。心の中で首を傾げる。

近くの同僚が目配せをしてくる。あれは「知り合い?」と問う視線だ。彼女は曖昧に笑って同僚に頷いた。こうなったら無視はできない。

「早いね」

素っ気ない表情で話しかけた。彼に近づいて、でも人目を気にしてほどほどの距離で立ち止まる。

「遅れちゃいけないからさ」

彼が搭乗券を出した。彼女はチケットを預かり、沖縄行きに間違いがないことを確認した。彼の興味津々という視線を無視して、淡々と業務を進める。

「スマートフォンや財布、アクセサリがあればこっちに出して。はい、ではこちらのゲートへどうぞ」

流れるように説明し、検査ゲートへ促す。「はあい!」と彼が子供のように元気に返事をし、ゲートを通過する。

恋人の職場に来る時は、いつもより格好良く振る舞ってほしいのに。楽しそうに愛想を振り撒く彼を少しだけ睨む。

その瞬間、ビー、とアラームが鳴り、ゲートの上のランプが赤く光った。彼女は顔が赤くなるように感じて、すぐ彼の元へ駆け寄った。同僚には聞こえないように小さく叱責する。

「ねえポケットの中ちゃんと見た?ベルトのバックルとか」

「んん、どうだろ」

少しも焦る様子のない彼が胸ポケットやズボンのポケットを順番に叩く。ベルトはシンプルなものでアクセサリも着けていない。彼女は金属探知機を持ってきて、「ちょっと」と断って彼の体にかざした。

金属探知機が反応したのは彼のズボンの右ポケットだった。ビービーと不審者を非難するように金属探知機が鳴る。同僚や乗客の視線が集まるのを感じた。恥ずかしさと申し訳なさで、焦ってしまう。

「もう、何やってんの。そこ何か入ってるよ」

彼は促されるままに右ポケットに手を入れた。そしてゆっくりと中身を取り出した。

彼の手の中にあったのは、青色の綺麗な小箱だった。

突然のことに理解が追いつかず頭の中が真っ白になる。彼は自信に満ちた動きで目の前にひざまずいて、彼女の顔を下から見上げた。

「僕と、結婚してください」

彼が差し出した小箱の中身は、ダイヤの指輪だった。

長年憧れていた光景に思わず息を呑んだ。両手で口周りを包む。周囲が徐々に騒がしくなる。彼女の胸に温かいものがわっと込み上げてきて、何も考えられないまま両目から涙が溢れた。

そしてようやく彼女は頷いた。

空港中に二人を祝福する歓声や指笛の音が響いた。

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