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なぜ文章を書くのか。

今日はこれです。私たちはなぜ文章を書くのか。
いや主語を大きくするのは良くないな、私はなぜ文章を書くのか。

と書いた二行に、すでにその答えが滲んでいます。わかります?
それは自由ってことです。
自由とは、日常いつも縛られている「自分」という固定された存在のプロトコルから、逸脱したり変身したり突出したり、ともかくそういうふるまいが好きにできるってことです。
上記の二行でいうと、自分で一行目の問いを書いておきながら、自分で「いや」とか言っている。なんやねん感すごい。なんやねん。
でもそういうことなのです。それができる。好きにやれる。誰はばかることなく書ける。自由とは、それです。

だいたい、文章ってのはもちろん自分の中から出てきたものですが、書いた端から自分のものではなくなっていく。自分の外に飛び出していく。自立していく。それがまず文章の宿命だと思っています。
でもそれは、書いた後のことです。書いている最中はどうか?
文章を書いている最中。それは、まだ文章が自分から離れきっていません。自立してない。まだ自意識の範囲の中にある。
我々は書きながら、自分のイメージを言葉に変換します。
そして、まだ誰の目にも触れていない、自分自身のようで自分でない、他人の入ってこれない不可侵領域の中にまだある文章とラリーをするのです。

何でもいい、何かを書いている最中というのは、自分自身がこっちにあるとしますね、そして書く、書いた文章が自分の外にある、外といっても他人は入ってこれない場所にあって、その文章と対話できるのも、推敲できるのも、自分だけなのです。ただ一人でいながら、何かと対話しているのです。

自分と文章の間には確かに距離がある。長く書けば書くほどその距離は引き延ばされて、大きな空間の中にいるみたいになる。色?空間の?特に色は感じないので暗闇という感じでしょうか。でもそれは絶望を記号化した暗闇ではなく、無色という程度の意味です。そこの暗闇の中を自由に行き来する行為の自由さ。その自由さを享受するために書くというのが、私たちにとっての、いや主語を大きくするのは良くないな、私にとっての文章を書くという行為のイメージであり、意味だと思います。

やぶさかではありません!