見出し画像

20220526 昭和的価値観

こないだ、朝ごはんを食べながら娘とも話したことなんだけど、この数十年は「昭和的価値観」の払拭という要素がでかい数十年だった。

実際、自分の子どもの頃の親のふるまいと、自分が親になってから娘に対してのふるまいって結構違う。どっちか良いか悪いかはわからない…いや、嘘は良くないな、もちろん良いと思うから今のやり方でやってる。具体的にはいくつも挙げられるが、ひとつシンプルに言えば、それは「頭ごなしじゃない」ってこと。仕事でもそうだよね。

もちろん、時代に関係なく頭ごなしな人ってのはいる。コミュニケーションの摩擦を恐れないタイプとも言えるが、家庭における子ども、会社における部下、そういう「教わる」立場の人のストレスや、もっと言えば恐れや萎縮を感じさせても構わない、そういう教え方のことだよね。

近年、そういう教え方の弊害というのはかなり言われていて、長い目で見るとパフォーマンスが落ちたり、教わる側にとってネガティブな感情を伴うことで、教わる内容自体もネガティブに感じられ、自発的にやってみようとか上達しようというモチベーションを奪うことになると。

モチベーション。昔はこんな言葉はなかった。少なくとも自分が子どもの頃は聞いたことがなかったし、今ほど人口に膾炙はしてなかったんじゃないかな。意味は「動機づけ」となっているが、「やる気」の方が多分わかりやすいだろう。

「モチベーションを上げる」「モチベーションが上がらない」という言葉が使われるということは、人のやる気は外部からのやり方次第で変わる、という価値観を認めることだ。モチベーションという言葉の存在しない世界では、やる気は個人個人が責任を持って管理しなければならない、自己責任の範疇のことだ。ダメならすべて自分のせいというのはわかりやすいが、それこそが「昭和的価値観」のひとつであって、野蛮だ。

ここでいう「野蛮」をもう少し踏み込んで考えると、「ダメなやつは切り捨てる」というところまで行き着くと思う。これは先に書いた「頭ごなし」と繋がる。頭ごなしに怒鳴ることが許されるほど大事で、それに従属できない方が悪く、理解・実践できない奴は切り捨てられても文句が言えない。そういう「絶対的な何か」を信じるというイデオロギーだろう。いわゆる多様化とは対極にあたるものだ。

もちろん、多様化が絶対的に「善」なのかという疑問はある。多様化は全体で見たらバラバラを許容することだし、集団的パワーからは遠ざかる。他人とコミットすることの喜びからも遠くなる。実は。
でも、少なくとも多様性を肯定することは「弱きマイノリティの切り捨て」をしないということだ。また、それが一朝一夕にはできないとしても、そういう世界に向かう意思があるということ。


やぶさかではありません!