ニンパイ「議論」について。 17 ニンパイ 2020年5月9日 20:23 自分のツイートから「議論」について言及しているものをまとめました。最初は2010年のから。ネット上、またはメールでの議論はオススメしない。角が立ちやすいからだ。ほぼ何割増しかでキツく聞こえる。テキストだけだとトーンの調整が非常にしづらく(可能ではあるが)、日常会話において人がいかに文言以外の部分にニュアンスを託しているかがわかる。— ニンパイ (@shinobuk) January 20, 2010 確かに使うシーンや相手が変われば、言葉の意味や作用も変わってしまう。食い違う議論というのはそもそも話のレイヤーが違ってることが多い。それぞれ言ってることは正しくとも、立ち位置と視点が違うから交わらない。「話が食い違う」という印象は「性格が合わない」に転化する可能性がある。— ニンパイ (@shinobuk) February 18, 2010 すべての議論を無化させる魔法の言葉:「程度問題」「人それぞれ」— ニンパイ (@shinobuk) March 25, 2011 俺たちの議論は始まったばかりだ!〈完〉— ニンパイ (@shinobuk) May 11, 2011 「お互いの言葉の定義の違い」と「言葉づかい」によって、議論は本筋から逸れてゆく。そういう例は実に多いと思う。— ニンパイ (@shinobuk) May 19, 2011 もともとせっかちな僕はリアルでも議論を転がすよりは決着をつけたいほうでござる。— ニンパイ (@shinobuk) October 4, 2011 議論を第三者的に眺める時、その正誤性よりも態度の方が目についてしまう。あまりに攻撃的な態度や言葉の選び方の品のなさが、言っている内容を台無しにするくらいの印象を与えてしまう。本質よりも上っ面に惑わされて云々という指摘もあるかもだが、表層を判断要素からまったく外す意味がわからない。— ニンパイ (@shinobuk) January 20, 2012 ネットテキストベースだと、ノンバーバルな緩衝剤がないから議論も殺伐100倍だよ。自分と相手の意見が違うという実に当たり前のことを神経を削り合いながら確かめる必要があるかどうか、ひと呼吸置いて確認してからやってもいいんじゃないかと思うんだよね。— ニンパイ (@shinobuk) January 20, 2012 議論ザビ— ニンパイ (@shinobuk) January 20, 2012 そもそも建設的な議論が白熱して脱線したとかじゃないでしょ。自分の言い分を否定されてムカッとして相手の自尊心を叩き潰したい、みたいなことでしょ。で、それが本当に時間を使う価値があるのかということが1つ。そして、幾ら言葉を費やしても相手を一方的にやっつけることは困難ということが1つ。— ニンパイ (@shinobuk) January 20, 2012 最後は「自分にとって無理のないスタイルかどうか」でしかない気がする、ああいう話は。論として対立させるとどうしても先鋭化しちゃって、すべての例が極端になる。極論はどちらであれ極論である時点で間違っている。だから議論は終わらない。構造的に決着するようになっていない。— ニンパイ (@shinobuk) February 18, 2012 「違い」を議論するには共通ベースがある程度ないとね。それこそお話にならない。— ニンパイ (@shinobuk) March 4, 2012 うん、ネットで議論はちょっとキツいよ。難しいと思う。無理かもしれない。— ニンパイ (@shinobuk) April 11, 2012 相手と白黒つけるまでとことん持論を展開するのがジロンド派。議論の途中でも「あっ時間ですな。じゃあごはんでも」となるのがジャゴハン派。ジャゴハン派でありたい。— ニンパイ (@shinobuk) June 12, 2012 「それはあなたの主観に過ぎない」という言い方は「自分も同様だが」というカウンターを内包せざるを得ないので、そういうレベルの話になった時点で議論終了。— ニンパイ (@shinobuk) June 12, 2012 目指すゴールの共有されてない議論は不毛になりがち。で、目指すゴールの共有されている議論は非常に少ないので、世のほとんどの議論は不毛。— ニンパイ (@shinobuk) June 12, 2012 「程度問題」という言葉を出すとほとんどの議論が終わってしまう。いかに世の問題が「程度問題」であるかという証明でもある。— ニンパイ (@shinobuk) July 10, 2012 「自分次第」や「人それぞれ」は議論停止ワードだな。「それ以上ガタガタ言うな」に等しい。— ニンパイ (@shinobuk) July 14, 2012 複数人による議論の場において自分の意見がとりわけ正とされる、というのは甘美な誘惑なのだろう。— ニンパイ (@shinobuk) August 2, 2012 基本、誰かと面と向かって議論することってほとんどない(したくない)んだけど、それは議論の末に何をしたいのかということを考えてしまうから。ただこうしたテキストオンリーの場所だと、一種「議論のための議論」という構造があると思うので、戯れとしてあえてやる分にはまあわかる。やらないけど。— ニンパイ (@shinobuk) November 30, 2012 問題は何もなければ凪の状態で、そこに否定意見があって初めて議論が起こる。まず否定ありき。だから肯定というのは「否定の否定」になるので、否定に対して後手を踏むという理由で弱いのだな。— ニンパイ (@shinobuk) February 7, 2013 というかTwitterで議論なんかするもんじゃないと思う。— ニンパイ (@shinobuk) February 22, 2013 「議論を大事にする」からこそ「議論にすべきじゃないこと」が重視されるんじゃないか。それはルールということでしょう。— ニンパイ (@shinobuk) May 19, 2013 「インターネットでの議論は不毛」というのが偽らざる実感ではあるのだけど、そもそも他人の目につくところに何らか意見を表明するという行為自体が、相手の反論を受け入れる構造を内包しちゃってるものなので、「インターネットでの議論は不毛」という意見は不毛かもしれない。— ニンパイ (@shinobuk) October 12, 2013 他人に「それは議論のすり替えだ」と言う人は、かなりの確率で議論のすり替えを行うものだなあ。— ニンパイ (@shinobuk) January 6, 2014 twitterの清々しい議論ってやっぱりこれ。 http://t.co/3amEuVJo83— ニンパイ (@shinobuk) January 7, 2014 声が大きい方が議論に勝つ、と言うと身も蓋もなくてつまんないけど、声の大きさというのは熱意の表現のひとつではある。少なくとも対他的な判断基準としてはある。— ニンパイ (@shinobuk) February 1, 2014 なにか議論をする時に、ここが違ってると一生分かり合えないのが「言葉の定義が違うこと」、それと「ミクロとマクロの話を混同していること」。— ニンパイ (@shinobuk) May 29, 2014 「平凡なんて存在しない」「一般的なんてない」「普通ってなに?」というのは正しい否定だし、そんなの個人の思い込みによる幻想だという帰結はわかるんだけど、それでも「感覚としての普通」はちゃんとあって、要は他人と議論するための素材としてはちょっと使えない代物であるという話。— ニンパイ (@shinobuk) November 6, 2014 相手の言っていることが正しいと思ったら譲る、おかしいと思ったところは何がおかしいか聞く、ここまでは納得できるがここからは納得できないと伝える、そういう姿勢ありきが議論というものではないのか— ニンパイ (@shinobuk) December 2, 2014 自分は議論の得意な人間でも議論の好きな人間でもないが、それでもやにわに言い争いが始まると「おい待てよ、そもそもそれ言葉の定義的に共有できてるか?」とか思うよね。— ニンパイ (@shinobuk) August 14, 2015 議論というか、是非論に参加できるという点で非常にオープンになっている案件というのは、繁華街のように様々な人が集まり、繁華街のようにガラが悪い— ニンパイ (@shinobuk) September 10, 2015 『天才柳沢教授の生活』の「議論に勝つことでは人に何かを伝えることは出来ないのです」というセリフもある— ニンパイ (@shinobuk) May 24, 2016 それ議論じゃなくて定義の確認でしょ?というのが多いんだよ— ニンパイ (@shinobuk) November 19, 2016 議論するくらいなら、ダジャレでも書いてたほうが平和だよ— ニンパイ (@shinobuk) January 26, 2018 ダウンロード copy #言葉 #Twitter #まとめ #議論 #ツイート #ニンパイ 17 やぶさかではありません! サポート