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明解「日本だんじり文化論」③

令和3年7月17日(土)のYouTubeライブ+オフライン企画「明解・日本だんじり文化論」(https://note.com/shinobue/n/ne04a8f39ca17)に先だって、当日の簡単な予習も兼ねて、『日本だんじり文化論』(創元社)の読み解きを行なって参りたいと思います。何回かに分けて、章ごと、あるいは、項目ごとに、伝えたいことを記しておきます。〔 〕は本書のページです。

第二章 地車の誕生

大坂三郷の支配体系と夏祭の日取り
第一章で、地車の誕生を確認しました。第二章では、地車が生まれた江戸時代の大坂の夏祭での地車の隆盛を描きます。江戸時代、大坂と呼ばれたのは、おおよそ現在のJR環状線の内側の地域で、北組、南組、天満組の三郷に分かれており、東西の町奉行所(幕府)の管轄でした。

大坂三郷域の支配体系(町奉行所→惣年寄→町年寄→町人→借家人)の関係と、各社の夏祭の日取りについては〔93P〕で図解しています。

夏祭には、地車以外にも、太鼓台(枠式太鼓台、布団太鼓)や台舁(ダイガク)などの祭具も出て、旧暦六月は大坂の町全体がお祭騒ぎとなりました〔94P〕。

大坂町奉行所の触達(ふれたっし)
第二章の論述の核となるのは、東西の大坂町奉行所から出された触と達です。毎年、旧暦六月の朔日(古くは15日)に出された例触をはじめ、祭に関して、華美の禁止、また、乱暴狼藉を戒めるものや火の用心など、担い手を規制するものも多かったのですが、時に、祭の賑わいを奨励するものもありました。

地車の属性
大坂三郷域では、幕末まで「粗末なつくりの地車」がほとんどで、多くは「貸祭礼地車貸物屋」からのレンタルでした(地車は、当初は、あえて「粗末なつくり」であったことは第一章で述べました。とはいえ、自前の「凝ったつくりの地車」も新調されたからこそ、今に見られるような豪華な地車のが誕生します。天満青物市場など「仲間」が出す地車は、自らが所有し保管する地車でした。このような地車を、本書では蔵持地車、レンタルされたものを借受地車と呼びます。

また、借受の中には、当屋を定めた公認の当屋地車と、所在が不明瞭な宿無(やどなし)地車があります。この宿無地車の狼藉が、しばしば町奉行所から監督を受けることになります。

そして、地車の宮入りに関しては、その順番が定められ、正式に鬮(くじ)を取った地車が「鬮取地車」。鬮取の日に地車の段取りが間に合わず、後に、宮入りが許された地車を「追付(おいつき)地車」、そして、当日、俄に押し入る地車は「俄(にわか)地車」と呼ばれました(俄芸の意ではない)。

これまで、地車の担い手の実態については、ほとんど知られていなかったのですが、本書では具体的な史料を用いて、その実像に迫っています。

天神祭の地車の宮入り
本章の目玉は、大阪天満宮に所蔵されている「天満宮地車宮入り番付史料」を用いた、享保から明治までの約170年間にわたる天満宮(大阪天満宮)への地車の宮入り台数の変遷と、その歴史的背景にお関する記述です。〔114Pと115P〕には、宮入り台数をグラフで表しています。町奉行所からの触達、その他、一般的な歴史史料から、その増減の原因の多くを突き止めました。各時代の大きな波に揉まれながら、地車は、その形態を変えていきます。

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前述したように、町奉行所からの触達は、必ずしも祭の賑わいを規制するものばかりではなく、時に官民一体となって祭の賑わいを創出することもありました。概して、地車が誕生した享保から田沼時代までは規制が緩く地車文化が花開き、松平定信の寛政の改革期は規制が強くなり、文化・文政・天保を中心とした大御所時代に地車は再び盛り上がりを見せます。幕末から明治にかけて地車は衰退の一途を辿りますが、明治に入っても散発的ではありますが、地車の宮入りは見られます。本書では、明治期に大坂三郷域の地車が衰退した理由についても考察しています〔133P〕。

現存する地車の宮入りに関する詳細な資料は天満宮のものだけですので、天神祭の記述が中心となりましたが、御霊社、生玉社、難波社ほか各社の祭にも地車が出ていました。

第二章では、これまで知られることがなかった、大坂の夏祭の具体的な描写を試みました。地車文化の発祥地の実態を、まずは、この章で押さえることができればと思います。

大坂三郷域の地車が衰退する一方で、三郷周辺域や摂河泉、瀬戸内に伝播した地車は命脈を保ちます。第三章では、このような地車の展開について詳しく述べていきます。


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