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あとがき『日本だんじり文化論』

私の祭の原点は夜疑(やぎ)神社氏子の大町(おおまち)の地車(だんじりり)である。岸和田祭が繰り広げられる岸和田城下の山手に位置し、古く八木(やぎ)と呼ばれた地域にある。奈良時代に行基が築造した久米田池の水を利用し、町内を熊野街道が通り抜ける。

地車は、神社への宮入りの翌日、後宴(ごえん)と称して久米田寺にも地車を曳き入れる。水の恵みに感謝して行基堂に参拝する慣例は、地車が歴史に登場するはるか昔からの営みである。久米田寺は久米田池の維持管理を目的として創建された古刹である。氏地を越えて十三台もの地車が一堂に会し、太鼓と鉦と笛の音が境内に渦巻くありさまは、幼少期の私の記憶に深く刻みこまれている。

行基


私が生まれたのは岸和田市の大町ではなく、岸和田市の北に位置する忠岡町である。母は、私が生まれた町ではなく、母が生まれた町の地車を私に曳かせることにした。この選択は、後の私の人生に過酷な試練を課すことになるが、本書が誕生したことを考えると、間違いではなかったと解釈することもできる。

私が、この地車に携わることができたのは、生まれてから中学二年生までと、二十代半ばの五年ほどである。もし、生まれた町の地車を曳いていたならば、私は、その地車を死ぬまで曳き続けていたに違いない。地元であって地元ではない地車との距離感に悩んだ末、青年団には入らずじまいとなってしまった。京都の大学への進学は、もちろん校風や京都への憧れもあったが、今にして思えば、なるべく地車から離れたかったのかもしれない。

二十代の前半、地車のない人生に息切れをしていた私は、再び地車と向き合うことになる。以来、二十五年、担い手とは異なる立場で地車と関わり続けている。当時、研究者を目指していた私は、泉州(大阪南部)をフィールドに定めようとした。ところが、岸和田をはじめ泉州の祭では極細の笛が流行しており、それがために音が出にくく、魅力的な旋律の多くが失われつつある現状を目の当たりにした。自分のアイデンティティが大きく揺らぐ恐怖を覚えた。太鼓の拍子も変容しており、一刻の猶予もない、と感じた。大学を中退し「民の謡(たみのうた)」の名称で笛屋を始めた。研究などと悠長なことを言っている場合ではなかった。

その後、岸和田城下に拠点を残しつつ京都に移り住み、京都大学農学部森林科学科に再入学して、人と自然との関わりを学んで上梓したのが『日本の祭と神賑(かみにぎわい)』である。地車についても論じたが、地車を主題とした本ではなかったので、いくつかの課題を残したままになっていた。そんな中、前著に引き続き、創元社で本書の執筆に機会を得た。きっかけは、畏友二人と企画した、だんじり彫刻の展示会「彫物ひねもす博覧会」であった。

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今回の執筆を機に、いったん私の地車研究に終止符を打つ。本書は、その覚悟をもって取り組んだ。だんじり囃子を聞いてから半世紀にわたる「地車研究」に悔いはない。そろそろ「終(しま)い太鼓」の時間である。本書が、地車文化の継承発展に少しでも役立つことができれば、筆者として幸いである。

本書の執筆にあたって多くの方々の協力を得た。特に、淡路の写真家、平田雅路氏には、私のよき理解者であり盟友でもある岸和田の彫刻師、賢申堂の河合申仁氏とともに多くの助言をいただいた。木下英機氏と中山圭介氏には各地の地車を紹介いただいた。九州の地車については眞玉賢氏をはじめ中津の方々にお世話になった。大阪天満宮文化研究所の近江晴子氏と宗石真由美氏には、地車宮入り番付史料を翻刻いただいた。近江氏の先行研究と宗石氏の地道な史料整理なくしては本書第二章の執筆は不可能であった。大阪天満宮禰宜の岸本政夫氏と生國魂神社筆頭権禰宜の中村文隆氏には神職の立場からさまざまな助言をいただいた。関西学院大学教授で民俗学者の島村恭則氏との議論を経て終章がより充実したものとなった。深く感謝を申し上げたい。

私の研究スタイルは、恩師の国立民族学博物館・総合地球環境学研究所名誉教授の秋道智彌先生から大きく影響を受けている。図らずも、地車が、先生の得意とする「海と川」に深く関係していたことは運命的であった。また、今回も、娘の桜を寝かしつけてから徹夜で内容と図版の検証をこなしてくれた妻、香織。そして、あちこちに散乱する興味を取りまとめてくださった創元社編集部の松浦利彦氏にも、深く感謝を申し上げたい。ありがとうございました。

令和三年(二〇二一)六月吉日 森田 玲 

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