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明解「日本だんじり文化論」②

令和3年7月17日(土)のYouTubeライブ+オフライン企画「明解・日本だんじり文化論」(https://note.com/shinobue/n/ne04a8f39ca17)に先だって、当日の簡単な予習も兼ねて、『日本だんじり文化論』(創元社)の読み解きを行なって参りたいと思います。何回かに分けて、章ごと、あるいは、項目ごとに、伝えたいことを記しておきます。〔 〕は本書のページです。

第一章 地車の誕生

地車登場以前の歴史文化

あるモノやコトには誕生の瞬間があります。ただ、その瞬間を迎えるに至った必然性が必ずあります。地車の誕生は、本書では享保年間(1716~36)の初期としていますが〔83〕、それ以前に、地車が生まれる準備がなされていました。それは以下のようなものになります。

・古くから祭の中で芸能を披露することが人々の楽しみとなっていた。
・移動式の芸能舞台が各地で生み出された。
・江戸時代という政治的安定期において都市の夏祭の賑わいが増した。
・淀川を往来する豪華絢爛の川御座船が人々の興味を惹いた。
・俄(ニワカ)という滑稽寸劇が大流行した。

第一章の前半では、これらの諸要素について、御座船と俄を中心に、詳しく解説します。この段階では、地車が登場しないので、地車をまったく知らない人でも抵抗なく読み進めることができます。本書は「地車の本」ですが、地車という強烈なインパクトを持つ祭具に引きずられると、その誕生を見誤る可能性があります。例えば、唐破風で組物を持つ地車は神社の社殿に酷似しますが、地車に社寺建築の工法が採り入れられたのは、地車が登場して後の話となります。

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そこで、まずは、地車が存在しなかった時代にタイムスリップして、地車の誕生に備えようという趣向です。

第一章の後半では、いよいよ地車の誕生秘話に迫ります〔77〕。ここでは、文献史料と絵画史料、そして、現在の地車に残る有形無形の要素から、地車に和船の記憶が多く残されていることを確認します。地車は、江戸時代に淀川を往来した豪華絢爛の川御座船であることがわかります。

地車のモデルが川御座船であることはわかったのですが、問題は、船であるはずの地車が、なぜ「船体」を持たないのかということです。この謎を解く鍵は、地車が移動式芸能舞台であったこと、中でも、ニワカと呼ばれるボケの味を活かした滑稽寸劇を披露するための舞台であった事実にありました。今でも南河内(大阪南東部)の地車では、ニワカが披露されますし、各地に芸能を披露する地車も残ります。これらは、当初の地車の役割を現在に伝えている事例となります。今では、舞台で芸能をすることがなくなった岸和田型の地車の場合でも、大屋根の柱は舞台柱と呼ばれ、かつての芸能の名残をそこに見ることができます。

地車が俄の舞台であったことは、本書の表紙にも採用した松川半山の絵からも確認することができます。詳しくは本書をご覧いただきたいのですが〔78〕、この絵は、忠実な描写というよりも(かなり本物に近いとは思いますが)、地車の起源を示唆する「絵解き」になっています。

俄には、道を歩いて「しょうもん(所望)」と声を掛けられたら俄を演じて行き歩く「流し俄」と、屋内で披露する「座敷俄」とがあります。流し俄には「俄行灯」という手持ちの行灯が必須でした。

地車の絵画史料には、大きな菱形の容器のようなものが描かれていることがあり、これまで、謎とされていましたが、本書では、これを大型の俄行灯であると解釈しました。とすれば「地車は流し俄の一形態」であることになります。

そこで、「地車の舞台で俄が披露された」というよりも、「俄を披露するために地車が生み出された」という逆転の発想で、地車を捉え直してみました。すると、地車そのものが「俄的発想」で作られたのではないか?という可能性が出て参ります。

ここまで来ると、地車に船体がないのは、ある段階で地車から船体を取り除いたのではなく、当初から「あえて船体がなかった」ということがわかります〔80〕。現在では、組物や彫刻が豪華な地車も多くありますが、これは、地車が誕生して後に、何世代も重ねる中で、俄的発想から自由となった人々が社寺建築の工法を地車に採用した結果、地車に新たな発達の方向性が生まれたということになります。

このように、地車の歴史文化を、現在から過去へと遡るだけではなく、地車誕生の前の時代から時代を下っていくことで、地車の誕生の瞬間に立ち会うことができました。


だんじりの語源
第一章の最後では、「だんじり」の語源に迫ります。ダンジリには様々な文字が当てられており、例えば、地面を曳く屋台の意味で「地車」、移動式芸能舞台の意味で「楽車」(楽=歌舞音曲の意)、その音を漢字で置き換えただけのもの「檀尻」(何らかの意味が込められているかもしれませんが)などがあります。これらは、「ダンジリ」という言葉が生まれて後に、その読みに漢字を当てたものですので、ここから、ダンジリの語源を推測することは不可能です。

私の能力では、この謎を解くことができなかったのですが、宮本圭造氏が、「タン=太鼓の音」「チリ=笛の音」であり、中世の羯鼓稚児舞の囃子のオノマトペ(擬音語)であることを論証されています。

この論を軸に、私は、地車と太鼓台の双方がダンジリと呼ばれていた(現在でも淡路などでは双方ともダンジリと呼ぶ)事実を織り交ぜながら、地車と太鼓台との関連性や、なぜ、享保期に生まれた新しい神賑(かみにぎわい)の祭具がダンジリと呼ばれたのか、さらには、誰がダンジリと命名したのかを論証しています。

以上が第一章の要点です。地車の登場以前の歴史文化、地車に関連する様々な歴史文化を紹介することによって、極めて特殊な存在と認識されがちな地車という神賑の祭具が、日常の風俗や文化とも密接に絡んでいることを感じていただけたかと思います。地車の出自を、その時代背景とともに、しっかりと捉えた上で、第二章の地車の隆盛へと話を進めたいと思います。

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