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悲しいメトロノーム 第3話 

 紫苑さんがお風呂から上がった。
 ほんのりと上気した肌は、かすかな赤みを帯びていた。かき上げられた髪はこの上なく美しく、すっぴんでも長い睫毛はしとやかにその瞳を覆う。
 紫苑さんはその美しさにはどうやら自分では気づいてないらしい。
 黒色のネグリジェに包まれた彼女の右手にはドライヤー。
「使いな? 髪の毛傷んじゃう」
「あ、ありがとうございます……」
 乾かしてくれないんですね。とは言えない。言わない。
 紫苑さんにこれ以上触れられたら、いよいよ私はおかしくなってしまう。
 私にドライヤーを手渡すと、紫苑さんは洗面所に戻った。しばらくするとドライヤーの音が聞こえる。どうやら2つあるみたいだ。
 私は髪の毛を乾かしながら、紫苑さんの開きっぱなしのパソコンの画面を見る。そこには英語でのメール画面が映されていた。何やら難しそうなグラフも表示されている。
 改めて、すごい人なんだ、と思う。 
 そしてそんな紫苑さんを、もしかしたら私が邪魔してしまうのかもしれない。そう思うと途端に胸が苦しくなった。
 iPhoneを開くと、前の中学の友達からのLINEが届いている。
【有栖、新居はどんなところなの?⠀】
 事情が事情なので、前の学校には「親の転勤で引越し」ということにしてもらっている。その親はもういないけれども。だからか友達は皆、ポジティブな内容でLINEをしてくる。むしろその方が気楽だから私は嬉しい。
【️港区だよ。タワマンまじで景色いいよ】
 秒で既読がついた。暇な子だ。ついでに窓からの景色を写真に撮って送る。
【港区?! いいなー! 都会人じゃん!】
【でしょ? 笑】
 近代のインターネットの発達のおかげで、こうして離れていても寂しさを紛らわすことができる。文明の利器に感謝だ。
 そうこうしているうちに、紫苑さんがリビングに戻ってきた。私はiPhoneを閉じる。
「そうそう。さっき今後の話をしようと思ったんだけど、もう眠いよね?」
 私は頷く。今日は色々と濃すぎて疲れた。紫苑さんは笑いながら手招きする。
「こっちおいで。寝よう」
 紫苑さんお廊下を歩く。175センチはありそうな彼女はとても頼りになりそうに見えると同時に、やはりヤンキーチックな見た目を強調していた。
 いわゆるマスターベッドルームに案内される。2LDKとさっき紫苑さんは言っていなかっただろうか? まさかこれから毎日ここで彼女と眠るのか?
 そんな私の心を見透かしたのか、彼女は「ああ」と呟く。時刻はすでに3時を迎えようとしていた。
「隣の部屋、君の部屋にする予定だったんだけど、今何にもなくてさ。ダンボールだらけなんだよね。だから今日だけここで寝てもらおうかと……」
「じゃあ床で寝るので毛布かなんか貸していただけますか?」
「ん?」
「え?」
 目を丸くする紫苑さんはどこか可愛らしい。
 しばらく気まずい沈黙が続き、エアコンの音だけがその空間に響く。すると紫苑さんは部屋の中央に置かれたダブルベッドに座り、ぽんぽん、と布団を叩いて静寂を破ってくれた。
「ここで一緒に寝るんでしょ?」
 少女のような純粋な顔で、透明で甘ったるいその言葉を紡ぐ紫苑さん。彼女の瞳に映っているのは、無垢な15歳の少女なのだろうが、私は彼女のことを、もう下心なしでは見れないかもしれない。
 鎮まらない心臓と共に紫苑さんの隣に腰掛ける。深夜3時の世界が窓の外に見えた。この光の中、愛を営んでいる2人はどのくらいいるのだろう。彼らもまもなく果てて眠りにつく頃だろうか。
 手が触れ合う距離に座っているのに、彼女の顔を直視できない。きっと今彼女は悪魔的な笑みを浮かべている。私が照れているのが面白いのだろう。
 ふふ、っと吐息混じりに彼女は笑みを漏らし、リモコンを持って電気を消した。入れ違いにベッドサイドのランプがともる。
 オレンジ色の柔らかい光。
 当然、枕は一つしかなかった。布団の中に入る紫苑さん。
「ごめんけど、私に枕は使わせてくれる? 年取ったら首がどうも痛くてね……」
「もちろんです」
「ありがと。じゃあ君はこれね」
 彼女は右腕を差し出す。どうしてこういうことするんだろう。
「大丈夫です……。腕しびれちゃいません……?」
「大丈夫大丈夫。君軽いでしょ」
 全くもって謎理論だ。決してそういう問題ではない。
 あの豊満な体型の割には脂肪をあまり感じない右腕に甘える。何となく目を合わせるのが辛い。
 視線は居場所を求めて正面を向く。そんな私を、紫苑さんは面白そうに見つめていた。三白眼が私を突き刺す。昼間はカラコンでもしていたのだろうか。
「緊張しなくてもいいのに」
 そう言った紫苑さんを私は無視する。
 私はまだ彼女に出会って半日も経っていないのにも関わらず、さっきから心臓がうるさい。
 普通ではないような、間違えているような感情が芽生えているのを感じる。
 どうすればいいのやら。
 そう思った矢先、隣の紫苑さんが寝息を立てる。
 私の心が、やけにざわついた。


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