見出し画像

悲しいメトロノーム 第5話

 目覚めた時には、既に空は赤く染っていた。
 一瞬朝焼けなのかとも思ったか、iPhoneの待受がそうでは無いことを残酷に知らせる。
「16時……」
 紫苑さんは既にそこにはおらず、華やいだ匂いだけをそこに残していた。そういえば私は彼女の連絡先を知らない。後で聞いておこう。
 リビングに出ると、紫苑さんがいた。
「おはよう」
 春の陽だまりのような笑顔の彼女に、私は微笑み返す。でも私が笑っても梅雨の曇り空しか広がらない。
「おはようございます」
 紫苑さんは立ち上がり、キッチンの方へと向かった。今日の彼女は私服である。爽やかなミントグリーンのカットソーに、タイトな白いズボン。7月も終わりそうな今にぴったりなスタイル。
「フレンチトースト好き?」
「なんですかそれ」
 聞きなれない名詞を紫苑さんが口にするので、私は首を傾げる。すると彼女はドン引きしたように眉をひそめた。
「知らないの……?」
「はい」
「マジか……」
 紫苑さんは唖然としながらも、バットから卵黄に漬けられた食パンをトングで取り、フライパンに乗せて焼き始めた。いい匂いが漂う。
 彼女は食パンを器用にひっくり返し、昨日よりかは薄いアイラインに囲われた瞳をこちらに向けた。
「てか君、まさかあんな田舎に住んでいたんだね」
 私が住んでいたのは、東京の隣県の、駅もないような市だった。築30年は経っている賃貸の一軒家に母親と住んでいた。父親は大手町の紫苑さんと同じ会社に勤めているから、確か中央区あたりにマンションを借りていたんだっけ。月に一回くらいしか父親は帰ってこなかった。
「母が田舎の方が好きだったらしくて……」
「そうなの? 君のお父さんは私より立場上だったし、もっと都会に住んでいるのかと思った」
 トーストと化した食パンは白いお皿の上に乗せられる。砂糖と蜂蜜によってドレスアップさせられるトースト。
「おまたせ」
 紫苑さんはフレンチトーストと紅茶を乗せたプレートを持ってこちらに戻ってきた。柔らかな弧を描いているその唇の色は、昨日よりも薄い気がする。ピンク色のそれのせいで、彼女がさらに若く感じる。
「あ、ありがとうございます……」
「さ、召し上がれ」
 ナイフとフォークを手に取り、フレンチトーストを切る。口にそれを運ぼうとすると、紫苑さんがこちらを凝視しているので、気になって手を止める。
「……なんですか?」
「いや、ナイフとフォークの使い方ぎこちなくて可愛いなって」
「すみません」
「ううん、ほんとに可愛いなって思っただけだよ」
 この人はもしかしたら相当な男たらしとかだったのかもしれない。いや、現在進行形でそうだ。絶対。
 その美貌のせいである程度は誤魔化せてはいるが、もし紫苑さんが女版チー牛みたいな見た目をしていたらどうだろう。地獄である。
 トーストを口に含むと、上品な甘みが口に広がった。卵黄の染み込んだその生地は頬が落ちそうな程に柔らかく、もはや咀嚼する必要性を感じなかった。
「美味しい?」
「はい! すっごく!」
 思いの外大げさに私が声をあげると、紫苑さんは母親のような抱擁力のあるほほ笑みを浮かべる。そして私に1枚の冊子を差し出した。
「なんですか? これ」
「君がこれから通う中学のパンフ。つっても君は中3だし、半年くらいだけどね。勝手に私がいいなって思った港区立の中学に手続きしちゃったけど、大丈夫?」
「はい、もちろん! ……ってこれ、本当に港区立なんですか?」
 冊子の表紙には、まるでマンションのように綺麗な校舎が堂々と載っていた。パラパラとめくると、人工芝のグラウンドの写真や、ICT教育についての記述もある。
 私が通っていた公立中は、壁は剥がれかかっていたし、床は黒かったし……。なんだったのだろうか。
「そうだよ。でも一学年50人くらいしかいないらしい」
「50人?!」
 通っていた田舎の中学でも100人は確実にいた。港区なんて特に人口が多いのになんでそうなるのだろうか。
「みんな私立行っちゃうからねー。君も本当は私立に行かせたかったんだけど」
「編入試験多分突破できないので」
「君頭良さそうだけどね」
「良くないですよ」
 私は成績が悪い。私は五教科で偏差値50を越えられたことがない。何故か社会だけ68を取ったことがあるが、逆に数学で6を取ったという最高にかっこ悪い武勇伝がある。点数ではない。偏差値で6である。
 皿の上に残った最後のフレンチトーストを口の中で溶かす。甘い。
「逆に紫苑さんは聡明そうな見た目はしてないですよね」
「よく言われる」
 お皿を片し、そして着替える。といっても家から持ってきた白いブラウスと黒いスカートという微妙な着こなしだが。
 17時を目前とした世界は、橙に染まりかけていた。
 着替えてきた私を見て、紫苑さんは唇を固く結ぶ。そんなに変だったのか?
「これから出かけるのにそれかぁ……」
「出かける?!」
 思いもよらない言葉。もう17時だと言うのに。地元では17時と言えば近所の八百屋が閉まる時間だった。
「うん。出かける」
「何しに……? 」
「港区に染まってもらいたくてさ」
 紫苑さんは不吉な笑みを浮かべる。
 やっぱりこの人は恐ろしい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?