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短歌アイデア帳004「句読点」

短歌の表記(その2)

 これまた、素朴な疑問。「、」や「。」、いわゆる句読点についてです。これって、短歌で使ってもいいのかな?先に答えを言ってしまえば「入れなくてよいが、必要ならば使ってもよい。」です。通常は入れなくていいです。入れずに詠む人の方が圧倒的多数です。では、どんな時に必要になるのか。ちょっと考えてみます。

句読点を入れる利点とは?

 これは、そもそも句読点がどんな役割を果たしているのかという根本の問題になりますね。要するに、文節や意味上の区切りをはっきりさせるということです。短歌においても、このような目的で使う人は実際にいます。打ったほうが、読みやすく意味が伝わりやすいなら、打ったほうがいいのかもしれません。読みやすく区切るための「、」や「言い切り(句切れ)」の後の「。」や、結句の後の「。」など。
 また、使い方は人それぞれのところもあり、通常の文法上のきまりに従っていないものもあります。特に、途中は「、」「。」があっても、結句の後の最後の「。」だけ付けない書き方をする歌人もいます。多分、最後なのであってもなくても、読むのに支障がないからでしょうかね。ちょっと謎めいてますが。いずれにしても、こういった機能的な使い方としての表記が多く、装飾的(雰囲気的)な効果をねらって使用しているのではないんじゃないかと、ざっと見ての印象ですが僕は思いました。「空白(スペース)」を使う以上に機能的な使い方ということです。しかも、実際に目に入っちゃいますからね。

どんな人が使っているのか調べてみた

 ここで、前回(003)でも登場した、窪田章一郎・武川忠一編「現代短歌鑑賞辞典」(東京堂出版、平成10年5月15日、第15版)を、もう一度開いて、ざっと見てみると、土岐善麿(ときぜんまろ)、平野万里(ひらのばんり)、与謝野寛(よさのひろし=鉄幹)、吉田漱(よしだすすぐ)など、全てではないものの、明らかに句読点を使用した短歌をいくつか作っています。
 また、前回の投稿で触れた釈迢空(しゃくちょうくう=本名は折口信夫)という歌人ですが、彼の歌には、空白(スペース)だけでなく、実は句読点も見られます。自在にそれらを駆使して独特の雰囲気を作り出しているように僕は感じました。
 さらには、石川啄木(いしかわたくぼく)です。歌集『悲しき玩具』に収録されている歌に句読点が見られます。ただ、『一握の砂』のほうは、それがありません。はっきりとした理由はわかりませんが、前者の『悲しき玩具』は、啄木の死後に、その周辺の人たちによって発行された歌集のようです。また啄木の短歌が三行書きになっているのは有名ですが、行数表記については、ここで触れるとややこしくなるので次の機会に回したいと思います。

まとめ

 結論としては「句読点は、必要なら使っていい。」ということになります。ただし、その必要性については、「なぜ・なんのために」という説明をしっかり用意しておいたほうがいいでしょう。この点については、前回の「空白を使う」のと全く同じです。文章構造がちょっと複雑でわかりにくい歌なら、「句読点」を入れて読みやすく、わかりやすくすることも合点がいきます。あるいは、会話や口語文および散文を意識して作られたものなら、それを印象づける効果として使うのは妥当な手段であり、一つの技法と呼んでいいかもしれません。しかし、必ずしも入れる必要はないので、なくてもいいなら、すっきりスリムに「使わない」という選択肢もあります。使わなくてもいい詠い方に変えるか、空白(スペース)を入れるなどの代替策を講じるか、それも自由な選択です。また、まるっきり読む人の判断に委ねて、何もせず、ふつうに続け書きをするというのもありますよね。自分はどうするのか?よく考えて、一番いいと思うやり方でやるしかないということでしょう。ただ、もしも、歌壇への投稿で「使わないでください」という断り書きやルールが設定されているなら、当然ですが使わずに作ります。その際には、選者が読んで誤解のないような短歌の綴り方を工夫する必要があります。普段の歌作りや緩いルールの投稿なら、それほど気を使う必要もなく自由に使ってよいと思います。

 いろいろ書きましたが、ルールや規則云々よりも本当に大切なのは、それを読む人への思いやりや気遣いではないかと僕が思っていることも最後に付け加えておきます。