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自由であること

 自由―――なんて素敵な響きなんだろう。一自由詩人として短歌を詠うこと。何者にも縛られることない表現の自由が、そこにはある。「短歌は、かくあるべし。」と言うような人たちから、たとえ煩い小言が聞こえてきても、自分で決めたやり方で、それを信じてやり通して行けばいいのである。いや、むしろ、そうすべきである。続ければ、そこに道のようなものが出来てきて、繰り返すうちに自分の「短歌」のスタイルが出来上がっていくのだと思う。過去の歌人たちだって、そうやって同じように周囲との軋轢の中で「現代短歌」の流れを作ってきたのだから、決して間違ったやり方ではないはずだ。
 
 主義主張など、思想と思想は、よくぶつかり合う。自分の主張を通し有利な地位を築くために、競争もすれば、場合によっては他を批判し排他排斥しようともする。それは流派や派閥といった組織集団同士では、よく起こるし、あるいは集団内での揉め事として起こることも、しばしばあるだろう。だが、一自由詩人として、短歌を詠い遊ぶ人間に、これは当てはまらない。詠う内容こそ批判の対象となることはあるかもしれないが、詠い方やその方法論に関しては、独自であるがゆえに誰からも批判の対象とは、なりえないのである。日本国憲法でも以下のように、はっきりと謳われているではないか。

第十九条
思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。

第二十一条
1、集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
2、検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。


 だから決して間違ってはいない。間違ってはいないどころか、この自由は憲法によっても保障されているのである。組織に所属するのも、個人で活動するのも本人の自由な意思に基づくのであるから。
 
 だが、ひとりは孤独でもある。みんな孤独が嫌だから、組織や集団を拠り所とする。短歌で言えば、そういう人たちが集まって、そこに歌壇というコミュニティが出来上がる。それは一つの芸術運動だ。もっとも自然な流れである。僕はそれを否定はしない。否定はしないが拠り所ともしない。それは、単純に縛られたくないだけであるのかもしれないし、自分が自分でなくなってしまうことへの不安や恐怖のせいなのかもしれない。競争で順位づけされるのが嫌なのかもしれないし、傷つくことから逃げているだけかも知れない。でも、それでもいいと僕は思う。自己満足だと言われてもいいと思う。自分が人に伝えたいことがあり、それがたった1人の人にでも読んでもらえて何かしらそこで感じ取ってもらえたらそれだけで十分だ。そう、相手は、たった1人でいいのだ。
 僕は、ブログやSNSで特定の1人に対して、よく俳句や短歌や歌謡などを即興で作って詠むことがある。いわゆる返しの句や歌である。これは、その相手だけに向けて詠ったものだ。受け取ってもらえて、そこで何かしら感じ取ってもらえたなら、それだけで嬉しい。本来、短歌もそういうものであったのではないのだろうか。万人に理解される必要はない。特別な1人の相手に伝わるように詠えれば、それでいいのである。ただ、伝わりやすさや伝わりにくさ、分かりやすさや分かりにくさはあると思うので、そういう意味での配慮が必要だったり、あるいは技術を磨くことが大切だったりするのは言うまでもないことである。
 こういった訳で、僕にとって短歌を詠む(詩を作る)ということは、もともと孤独な作業であり、また、そこから生まれた歌や詩も、どこかしらなんとなく孤独感が漂っている。これは、いたしかたのないことであり、これからもずっとそうなのだろうと思う。しかし、練習や実験で作ったもの(これも数は多い)を除けば、実は日常作っている短歌や詩のほとんどが特定の誰かに向けられたものであることだけは確かだ。あるいは、僕自身に向けて書かれたものもあるが、いずれにしても相手は1人であり、そこにつながっていくのである。