外部コーチから小学校教諭、現在まで
外部コーチ
私学の学校を辞め、母校で外部コーチをしました。教員として働ければよかったのですが、その縁はなく、昼間はパートして他の場所で働き、夕方から外部コーチとして働きました。
よかった部分は学校以外のところで働けたということです。施設管理の仕事でしたが、利益を考えなければいけなかったり、休憩がちゃんとあったりと、学校とと違う労働環境を経験してできたのはよかったです。
逆に良くなかったのは、サッカーだけ教えるということでした。普段の様子を見れないでサッカーだけ指導するというのはその子のことを本当に理解できているのかなと自分は不安に思うことがあったり、もっと生徒と関わりたいと思いました。そう考えると、サッカーだけではなく、教育とか子供の総合的な成長に自分は興味があるのだろうなとだんだん感じるようになりました。
いろいろなことがありましたが、母校で教員で働くという縁はなく、他にも色々な要素が絡まり、外部コーチをやめ、たまたま空きがあった小学校の講師をする事になりました。
小学校での教育
最初は級外の教員でしたが、年度が変わると担任になりました。学級王国と言われる小学校の教育ですが、自分もどうやってクラスを作っていこうか考えながら仕事をしました。こうしたら、こうなる、といった手応えがあり、とてもたのしかたのを覚えています。講師でしたが、ここで2回目の教員採用試験を受けました。一回退職したからどうなるのかと思いましたが、無事に合格。地元の小学校に採用となりました。
このことは30代前半ということもあり、力もついてきたと思えたし、私生活も結婚や子供が産めれるなど充実感がありました。
躓いた学級経営、、
一応それなりに経験をしてきたということもあり、小学校でも頼りにされることが多く、担任する学級も割と大変なところが多かったです。初任校が市内でも大変と言われる学校だったので、大変さはありましたが、使命感がどこかにあり、どうにかやっていました。
自分が部活で受けてきた高圧的な指導がどこかに残っており、学級経営でも力づくでどうにかしていた気がします。今となっては、それが子どもと押さえつけていたと思いますが、当時はまず学級が荒れないためにとにかく厳しく指導していたと思います。しかし、荒れはしないものの何となく子どもたちとの距離が出てきたような気がしました。
そんな中持ったクラスで、教室に入れない、友達ともトラブルばかり、教員には暴言ばかり・・・といった児童を受け持つことになりました。いろいろな要因があるとは思っていましたが、なかなか改善させず、気がつけば自分が疲弊していたのだと思います。
なんとなく学校に行きたくないな、何でもないのに泣きそうになる、気持ちが滅入っていたのだと思います。ほんとにしんどい時があり、早退し、精神科に行ったりもしましたが、どうにかこうにか1年やり切りました。けれども、この時は達成感等はなく、何とかやり切ったという安堵感だけでした。
この時、自分は学校現場から少し離れたいな、環境を変えたいなと思いました。当時の校長といろいろ相談し、特別支援学校へ交流研修として出させてもらうことにしました。
ここで違う環境に行けたことは自分にとってとても大きな分岐点だったと思います。その反面、自分は一回燃え尽きたなという気持ちはずっと残るようになりました。
支援学校での経験
支援学校はほんとになにもわからない状態からのスタートでした。支援級を持ったこともないので障害の理解もそれほどありません。自分の行く学校が肢体不自由の学校か、知的の学校かもよくわかっていませんでした。(行った学校は知的でした。)
それでも新しいことを吸収しようと新鮮な気持ちをもって取り組んだこともあり、思ったより早く仕事の環境にはなれたと思います。また、そのうち書こうと思いますが、支援学校は普通学校とは全然違う環境でほんとに転職したような気分になります。
学校では、まず子どもの純粋さに触れることが多く、癒されました。もちろん大変なこともありますが、障害を抱えている中で彼らなりに頑張っている姿は応援したくなるものです。また、私たちが教えることも生きていく上で必須のことで、とてもやりがいを感じることができました。算数や社会など教科を教えていてもこれは何に使うのだろうと思いながら教えていたことは否めないのですが、支援学校では、これができないとこの子たちはこの先、生きていてないということを教えていて、意味のあることをやっていると実感できました。
普通小とは違う環境に行ったことで少しリセットできたのと、特別支援教育という自分の中に新しい分野に触れることができ、とても成長できた3年間でした。
それでもやはり一度燃え尽きた身、学校でこのまま働くのかという疑問は常に持っていました。ただ、交流で出た身だったので、自分の地区に帰って恩返しを少ししてからでないとやめることはできないと思い、そのまま転任の時を迎えたのでした。
そして退職を決意。
そして、交流から帰ってきて1年目で、退職を決めました。いろいろな思いがありますが、そのあたりは次でまとめていきたいと思います。