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経歴を繋げた未来[5]

※新乃麻みこ自己紹介シリーズは毎週日曜日に投稿しています。

私が就職した頃から、終身雇用の崩壊は始まっていた。それまで当たり前だった、入社した会社に骨を埋める働き方から、キャリアチェンジをするために自ら転職することが世に認められはじめた頃だった。

リクルート社が「とらばーゆ」という求人誌を発売して、転職活動を「とらばーゆする」という新語で表現していた時代だった。

流行りに乗るタイプの私も当然のように3年勤めたD社での販売の仕事を辞めて“とらばーゆ”した。私の流浪の旅の始まりである。

転職した先は、広告代理店
と言っても、大手の広告代理店で局長をした方が独立して作った個人事務所に入社。この頃から、無意識にも独立起業家に理解があったのかも。とにかくも、念願のマスコミ業界の端っこに足を踏み入れた。

そのA社は、社長が局長をしていた頃の人脈やらコネやら顔の広さを使って、注文を取っていた。私の職種名は、アシスタントプロデューサー。耳障りは心地良いかっこよさがあるが、実質、雑用係といったところ。

入社した時には東京モーターショーという大きな案件が入っていた。自動車部品会社が出展するブース製作・運営が主な仕事。

会社のスタッフは少ないが、関わる業者・関係者は大勢いた。ブース外観を作る美術デザイン会社、会社説明VTRを制作する会社印刷会社カメラマン販促品を作る会社、コンパニオンを派遣する会社…等々。

よく事情も飲み込めないまま、打ち合わせやら、サンプル手配やら、見積依頼やら、販促品の発注やら配送手配等々、忙しさの波に呑み込まれていった。

毎日、終電を逃してタクシーで帰宅。翌日は9時出社。休日出勤は当たり前。スタッフ含め関わる業者も睡眠時間の少ないことがステイタスだった。今では考えられないブラックぶりだった。

印象に残った仕事はコンパニオンのオーディション
インターネットのない時代には電話帳を広げて片っ端からモデル事務所に電話をかけ、オーディションの日程をFAXするという方法で募集をかけた。
自動車部品の展示ブースではあったが100名近い応募者が集まった。
レースクィーンからタレントとなった岡本夏生さんが活躍していた時代だったので、自動車業界でのコンパニオンオーディションは部品会社のそれとは言え、反響は大きかったのだろう。

女性のプロデューサーは10代と20代の肌つやの違いをしきりに私に説いた。女性だからこその厳しい視点。芸能界とは大変だなぁとぼんやり思った。

準備期間含め、東京モーターショーが終了し、報告をまとめるまでの半年間、あっという間だった。
その後もアシスタントプロデューサーとしての雑用仕事は続いたが、広告プロデューサーとなる未来を描けず、1年で再び“とらばーゆ”する道を選んだ。続

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